ナインバッフ方面軍
ナインバッフ方面軍は進軍しながら各地の士爵らを糾合し、兵力は目標の三万二〇〇〇に達していた。
ナインバッフ公国に入ったことで、集まってくる情報の質も格段に上がった。ニークリット公国軍はソムナレルトという街を攻囲しているという。ムルラウは全軍にソムナレルトへの進軍を命じた。
「いよいよここまで来た」というある種の安堵感と「いよいよ戦いが始まる」という緊張感で、ムルラウは落ち着かない気分が続いていた。オルドナ伯領で戦いを繰り広げているアレス副伯やラフェルス伯もこのような気持ちを味わったのだろうか。
ラフェルス伯……ウィン……兄……。
改めて言葉にすると、不思議な感覚だった。面白い働きをする監察使だという認識から、急に兄という存在に変わった男。もう一人の兄であるロレンフスは、ラフェルス伯の出自を知っていたらしい。知っていただけでなく、「兄として」ラフェルス伯に憎悪の念を向けていた。その点について、ムルラウはまだロレンフスに理由を聞くことができていない。
何が兄を怒りに駆り立てていたのだろうか。ムルラウは、母クテノーフェの苦悩を知らない。ゆえにロレンフスの心情を理解することもできなかった。
ムルラウはウィンとの関わりがほぼなく、そのために憎むこともできなかった。むしろ、兄でありながら庶子であるということで大公の称号も与えられず、皇帝の私的な使いっ走りのような待遇に甘んじていたことを不憫にさえ思う。
ムルラウはウィンに対して好意的であると言ってもいい。だが、「兄として慕えるか」というとまた別の話である。ムルラウにも、当然のように差別意識はある。ウィンは平民の女から生まれた男なのだ。ムルラウにとって、平民とは保護し、慈しんでやるべき存在であって、慕う対象ではない。父の長子であると知ったからといって、「兄上」と呼ぶことには抵抗がある。
ロレンフスは何年もこのような感情を抱いていたのか。いや、それ以上の何かを抱えていたのだろう。
兄たちについて、もっと理解したい。
この戦いが終わったら、ゆっくり話してみたいものだ。ロレンフスと。そしてウィンと。対話し、理解することで自分が成すべきことが見えてくるかもしれない。ウィンを兄上とは呼べないかもしれないが、酒でも飲みながらナルファスト公国やカーリルン公領での武勇伝を聞くのも悪くない。
「四キメル北に敵影。ニークリット公国軍が布陣しているもよう」
斥候から報告が入ったのは、日の出とともに進軍を開始して少したった後のことだった。
レミターロック伯がムルラウの横に馬をつけて話しかけてきた。
「ソムナレルトの攻囲を解いて我が方を迎え撃つつもりのようですな」
「会敵が予想より一日早まった。アレス副伯は間に合わぬな」
「是非もなし。ここで陣形を整えてから進むと致しましょうぞ」
「では事前の取り決め通り、差配を」
「御意」
ナインバッフ方面軍は、三万の兵を左翼、中央、右翼に一万ずつ配置するという正攻法の布陣を採用した。予備兵力として二〇〇〇を中央の後ろに置き、左翼と右翼の端にはそれぞれ二〇〇〇の騎兵を展開した。ニークリット公国軍の兵力は二万七〇〇〇程度とみられているので、両翼を延ばして包囲殲滅を図る。レミターロック伯発案の、欠点のない手堅い作戦だった。
レミターロック伯はムルラウの本陣で指揮を補佐し、各部隊はムルラウ直属の家臣と副伯らが指揮することになっている。
太陽が三〇度ほど移動する時間をかけて布陣を済ませると、両翼をやや先行させる形で前進を開始した。
ニークリット公国軍が見えてきた。彼らが布陣しているのは、複数の丘陵を擁するガルター平原という平地だった。正確には、北から南に向かって緩やかに下がっている傾斜地である。南から侵攻してきたナインバッフ方面軍から見ると坂を上る形になるが、上下差が有利になるほどの傾斜ではない。
ニークリット公国軍は、丘陵を背にしてほぼ平地に展開していた。
「高所に陣を張らずに平地に出てきたのか」
ムルラウは意外に思った。数が少ないニークリット公国軍としては、丘陵部を占めた方が有利のはずだ。自分ならそうする。
「ニークリット公は守勢よりも攻勢を好まれる御仁なのかも知れませぬな」
レミターロック伯も、ニークリット公の真意を測りかねていた。
「使者を出せ。ニークリット公と一対一で話がしたい」
ムルラウは敵陣を睨みながら命じた。
「大公殿下、お招きにあずかり恐縮の極み。先帝陛下のご葬儀以来ですな」
ムルラウとソルドマイエ二世は両軍の中央で、騎乗したまま相まみえた。ソルドマイエ二世は以前と同じく、つかみどころのない笑みを浮かべていた。
「ニークリット公、一体何が不満か。答えよ」
ムルラウは相手の呼吸に乗らず、ソルドマイエ二世の目を睨みながら詰問した。
「不満……そうですな。何も不満などござらぬ。それが不満なのです」
「意味が分からぬ」
「お分かりいただけませぬか。無理もありますまい。私にも分からぬのですから」
「そんなに皇帝の座が欲しかったのか。であればなぜ選帝会議でロレンフス大公の擁立に賛意を示した。貴公が立候補すればよかろう」
「今から思えば、そうすべきでしたな。それでもよかったのやもしれませぬ」
「のらりくらりと申すな。結局、何がしたいのだ」
「そう、一暴れしてみたくなったのですよ」
「一暴れ、だと?」
「ロレンフス大公……いや、陛下のご様子は大公殿下もご存じのはず。あれは皇帝にふさわしいお振る舞いですかな?」
「な、何を……」
「覇気もなく、何を考えているかも分からない。アレならば、皇帝など『誰でもよい』ではありませぬか」
「誰でもよいなどと、そのようなことは……」
「では今上帝は皇帝にふさわしいと?」
「それは今議論すべきことではない。ふさわしくないと思ったのであれば選帝会議でそう主張すべきであった。主張すべきときに沈黙し、ナインバッフ公を背後から不意討ちにした貴公に人を非難する資格があるとは思えぬ」
「これはしたり。大公殿下のおっしゃる通りですな」
「さあ、申してみよ。貴公の正当性を主張してみせよ」
「今上帝を非難したのは不明でありました。撤回致しましょう。では改めて申し上げる。私は暴れてみたいのです。実力で何かを獲得してみたい。それだけです。正当性もなくね」
「開き直るか」
ムルラウはソルドマイエ二世の目を睨み、そして愕然とした。
彼の目は、完全に虚無だった。目の前のムルラウなど見ていなかった。ソルドマイエ二世は、あらゆるもので満たされ過ぎたがゆえに、その心は虚無に支配されていた。闇ですらない。何もないのだ。ムルラウはその目を見て、理解し合うことを諦めた。
もはや、常人にはソルドマイエ二世の心情を理解することは不可能だろう。
「そう解釈していただいて結構です。では、次は剣を携えて相まみえましょうぞ」
ソルドマイエ二世は会見を切り上げると、ムルラウに堂々と背をさらして自陣営に戻っていった。ムルラウは、その背に剣を突き立てることもできたかもしれない。だが、その背を見送るしかなかった。




