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10-5

「――妃殿下?」


 エリオスの声に、リリアナははっと顔を上げた。

 目の前には、変わらず穏やかな笑みを浮かべた大神官がいる。


「幼い頃には、身分が低いというだけで愛する方を諦めさせられた。そして今度は、ようやくその方の妻になったというのに……貴女は今、幸せですか?」


 リリアナは何も答えられなかった。


「アレクシス殿下は、貴女の愛と努力に見合うほどのものを返してくれていますか? 本当に貴女自身を、愛してくださっていますか?」


 リリアナは息が詰まり、顔から血の気が引いていくのを感じた。

 無意識に、リリアナの瞳から涙がこぼれ落ちていく。


 ――苦しい。そう、ずっとリリアナは苦しい。三度目の挫折が、今リリアナを苦しめている。


 エリオスの問いかけを聞いた瞬間、そんな思いが頭をよぎった。


 ようやく長年の願いが叶い、愛する人の妻になれた。夫は優しいし、リリアナを尊重してくれる……でもそれは、『王太子妃』として扱われているだけなのだと、リリアナは最近になって気付いた。


 リリアナが一番辛かったのは、周りから王太子妃として能力が足りないと言われたことではない。その事実を知ったアレクシスが、言葉にこそしなかったけれど、失望した目でリリアナを見つめていたからだ。


 必死に努力しても、リリアナが『本物(ジゼル)』に追いつけるわけがなくて、何より認めてほしかった相手にさえ、失望されてしまった。


 比較されるたびに自信を失い、少しずつ卑屈になっていく自分がいた。


(私は、偽物の王太子妃なんだわ……)


 いつからか、自分のことをそんな風に思い始めていた。


 涙に濡れた瞳が揺れているのを見て、エリオスはさらに声を和らげた。


「貴女が今苦しいのは、貴女が足りないからではない。貴女を正当に評価しない者たちが間違っているのです」


 リリアナは思わず顔を上げて、エリオスを見る。


 不満、焦り、劣等感……そうだ。この感情の全ては、リリアナが足りないのではなく、その努力を認めない者たちのせいなのではないか?


 自分はアレクシスの妻として、最大限の努力をし続けているではないか。それなのに……


(どうして私は幸せになれないの? そんなの、おかしい……)


 今、リリアナの心に一滴の黒い雫が落ちてきた。それはゆっくりと波紋を広げていく。


「貴女は、もう十分に努力なさいました。これ以上、ご自分を責める必要はありません」

「……でも、私には王太子妃としての責任が……」


 リリアナが不安そうな顔で呟くように答えると、エリオスは「もちろんです」と、優しく頷いてみせた。


「だからこそ、貴女には本来の価値を取り戻していただきたいのです」


 そして、エリオスが暗闇の中からそっと手を差し伸べてくる。


「私は、妃殿下……いえ、リリアナ様をお救いしたい。貴女から正当な評価を奪った者たちに、思い知らせるべきです」


 リリアナは目を逸らさずに、その手をただ見つめていた。


 エリオスの差し伸べた手は、まるで闇の中の一筋の光のように思えた。


(私を肯定してくれて、私の苦しみに寄り添ってくれる人がここにいる……)


 リリアナはゆっくりと手を持ち上げた。緊張からか、微かに震えている。


(助けて、誰でもいいから、私のこの苦しみを理解して!)


 その手に、リリアナの指先が触れようとした――


 その時、荷馬車の後方から馬の嘶きが聞こえた。

エリオスが扉を開けようとした、その瞬間。


 ドンッ!


 外側から何かが扉にぶつかり、エリオスが思わず後ずさった。


「リリアナ! 無事ですの⁉」


 そして、荷馬車の扉が勢いよく開かれた。外からの光が、一気に荷馬車の中へと差し込む。


 暗闇に慣れた目にはあまりに眩しくて、リリアナは思わず目を細めた。逆光で、扉に誰が立っているのか、よく見えない……


(……この声……ジゼル・エヴァレット……?)


 リリアナは、すぐにまさかと頭の中で否定した。


「走行中の荷馬車に、いきなり飛び乗ろうとする奴がいるか!」


 続いて、地面を強く蹴る蹄の音と共に、男性の声が飛んできた。


「きっとディランが助けてくれると信じていましたわ!」

「そりゃ全力で助けるけど! 心臓に悪すぎる!」


 謎の男女の会話を聞きながら、リリアナの視界に段々と景色が戻って来る。


 するとそこには、ジゼルが立っていた。ジゼルとリリアナは真っ直ぐに目が合った。


「助けに来ましたわよ!」


 その人は……リリアナがずっと恐れていた女だった。ずっと比べられてきた女だった。かつて、自分を憎んでいた女だった。


「……どうして……」


 リリアナは無意識に尋ねていた。


「どうして貴女が来たの……?」


 想像もしていなかった。まさか、自分がどん底で苦しんでいる時に、一番最初に助けに来てくれたのが、リリアナがこの世で一番恐ろしく思い、羨望してやまない大嫌いなジゼルだったとは。


 ジゼルは少しだけ目を丸くした後、自信に満ちた笑顔を浮かべて言った。


「なぜって……決まっていますでしょう。仕事ですわ!」


 その時、走っていた荷馬車が急停車する。荷馬車の中にいた三人は、勢いよく前のめりになった。


「⁉︎ なぜ、馬車を止めるのですか⁉︎」


 先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていたエリオスは、打って変わって険しい表情で御者をしている部下の神官に怒鳴るように尋ねた。


「ち、ちがっ……! 捜査官の男が突然現れて!」


 すると、情けなく震える声で神官が返した。どうやら、ディランが神官を制して、馬車を止めさせたようだ。


 エリオスは、ぎりっと音を立てて歯軋りした。


 その隙に、ジゼルがリリアナのもとへ駆け寄る。


「リリアナ! 立てますの⁉」

「え、えぇ……」


 リリアナは、戸惑いながらもジゼルの手を自然と取る。

 不思議と、今はジゼルのことが怖くなかった。まだこの状況に実感が湧いていないからなのかもしれない。

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