90 生活が戻る家
翌朝。
良い天気になってよかった。雲一つない夏の日差しは少しきつくて、全員に帽子をかぶってもらう。これは、迦楼羅とハルくんが新宿で買ってきてくれたものだ。正直助かってる。
今日の潮の匂いは、昨日よりも少しやわらかい気がした。
「いい天気ですね」
「ええ、走りやすそうで助かります」
戸塚さんが小さく笑う。
用意した自転車は私が乗るもの以外は二台。
私は先頭に立ち、戸塚さんが隣に並ぶ。
後ろでは、旦那さんが茉奈ちゃんを後ろに乗せていた。
「ママのおうち、どんなとこ?」
「うーん、畑があってね。裏に山があって……お花がいっぱい咲いてたよ」
「お花!お花見たい!」
「咲いてたらいいわね」
そんな会話が、風に流れていく。
島の道は狭い。
舗装もところどころ割れている。
それでも、車がほとんど走らない今は、静かなものだ。
海が見える。
畑がある。
草の中を、虫が跳ねる。
ただ、それだけの風景。
それなのに。
「……静かですね」
ぽつりと、戸塚さんが言った。
「はい。夜も、だいぶ静かですよ」
「海の音しかしない島ですからね」
それ以上は、何も言わなかった。
けれど、その一言に含まれているものは、分かる気がした。
少し走ると、道はゆるやかな上りになる。
「この先です」
戸塚さんが指さした先に、少し開けた土地が見えた。
山肌を切り開いた場所に朽ちかけた家が建っていた。
家の前には草ぼうぼうの畑の痕、手づくりらしい倉庫が庭に建っていた。
畑のそばには井戸もある。
「あそこです。ちょっと草が多いですね。玄関までの道を確保しないと」
自転車を停めて、軍手をはめた戸塚さんが玄関に向かう道の雑草を乱雑に抜いていく。
とりあえず歩く道さえ確保できればいいということか。
そのまま15分くらいで何とか歩けるだけの道の確保が終わる。
「どうぞ入ってください」
手招きされ、お父さんに抱っこされた茉奈ちゃんたちと一緒に家へ続く道を歩く。
「玄関は閉まってますが開きそうなので開けてみます」
「はい」
ガタガタと何度か引き戸と揺らすと埃と一緒に引き戸が開いた。
――古い家の匂い。
乾いた木と、閉ざされた空気。
それでも、腐臭はない。
「……思ったより、きれいですね」
「誰も入っていない分、荒れてないのかもしれませんね」
戸塚さんが靴のまま上がる。
しまった、スリッパかサンダルを持ってきておけばよかった。
畳は色あせているが、踏み抜けるほどではない。
家具もそれなりに残っている。
生活の名残が、そのまま止まっていた。
「ママのおうち……?」
茉奈ちゃんが、小さな声で呟く。
その声に、戸塚さんが一瞬だけ言葉を失った。
けれど、すぐに笑う。
「そうだよ。ママが昔住んでたおうち。茉奈も赤ちゃんの頃一度来たんだよ」
「ほんと!?」
「ほんとだぞ。ママとパパと茉奈で来たんだ」
やわらかい声だった。
「養蜂箱は裏手にありました」
「行ってもいいですか?」
「はい」
「……一緒に行きましょう」
「……はい」
家の裏に回る。
そこは、少しだけ開けていた。
山に面した斜面がある裏庭。
草は伸びているが、完全に飲み込まれてはいない。
「あそこです」
戸塚さんが指差した先。
木と草の間に見えるのは、テレビで見たことがある養蜂箱だった。
崩れているもの。
形を保っているもの。
いくつかまだそこにあった。
「……思ったより残ってる」
戸塚さんから思わず声が漏れた。
もう全部ダメになってると思ってたと言ってたもんね。
「……完全にダメだと思ってたんですけど……」
戸塚さんも、少し驚いたように目を細める。
そっと、一つに近づく。
蓋は歪んでいる。
隙間もある。
けれど――
「……音」
微かな羽音。
「……いる?」
「……いますね」
戸塚さんの声が、少しだけ低くなる。
「そうか、木や草が日よけや風よけ代わりになってたのかもしれない。それに全部柿渋を塗ってある」
「それ大事なんですか?」
「はい。夏は巣箱を日陰にしていないと、この中で蒸し焼きになります。それから巣箱に塗ってあるこれ。柿渋って言うんですけど、ものすごく保ちがいいんです。その上から蜜蝋も塗ってる跡があるから、朽ちなかったのかもしれません。でも古くなってるのは間違いないから、新しい巣箱を作ったほうがいいと思います」
「じゃあ、これからここを整えれば……」
「いけると思います。できればこの周辺に蜜になるような花を育てていくのもいいかと。山から山桜を植樹するとか」
「なるほど」
「もともとミツバチは野生生物です。ですから、人間には近寄りたがりません」
「それって、危ないですか?」
「刺激しなければ大丈夫です。でも……ちゃんとした管理は必要ですね」
つまり。
――ゼロからじゃない。
ここには、もう資源がある。
「……いけそうですか?」
「箱を作り直して、環境を整えれば……十分いけます。ただ、柿渋を作るには青柿が必要なので、今のうちに庭にある柿の木の柿を採っておいたほうがいいですね」
と、戸塚さんが表の庭先にある実がつき始めた柿の木を指す。
「柿渋の作り方は覚えてます。よく祖父母と一緒に作っていたので。家の外壁に祖父が使ってたのでかなり多めに作ってました」
「それは頼もしいです、ありがとうございます」
「いいえ。家族で命を助けていただいたことを思えば小さなことです」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
甘味。
保存。
医療。
そして――継続可能な資源になりえるものがある。
「……これは、大きいですね」
「はい。かなり」
誰か養蜂について知っている人がいないか聞いてみよう。
そして。
「あの、戸塚さん」
「はい」
「よければ、この家を直して、ご家族で住むのはどうですか?」
「え?」
「ちょっとここは島の表側から距離があるので、皆さんには足代わりに自転車を支給します。ここを直すのは、こちらの大工組の下見しだいになりますが、見た感じ、屋根も落ちてないし井戸もあるし、庭もあるし寝泊まりするレベルになら直せるんじゃないかと思うんです」
「……」
「いかがでしょう?」
「……どうして、どうしてそこまでしてくださるんですか?私たちは勝手に来ただけなのに」
「私が受け入れると決めました。そして受け入れた以上は、皆さんはここの住人です。だからできるだけちゃんと暮らしてほしいと思ってます」
「……」
「それに、茉奈ちゃんはすっかりこの家が気にいったみたいですよ?」
茉奈ちゃんが家の中を縦横無尽に走り回っていて埃がすごい。
縁側と玄関を開けておいてよかった。
「ねえ、ママ!私、このおうち好き!」
「……茉奈」
「茉奈ちゃん、このおうち気に入った?」
「うん!なんかね、あそこの写真のおじいちゃんとおばあちゃんがすごく優しい顔してるからいいなぁって」
茉奈ちゃんが指さしたのは、仏壇の上にある古い写真だった。
「……あれはね。茉奈のひいおじいちゃんとひいおばあちゃんよ。ママのおじいちゃんとおばあちゃん」
戸塚さんが、ゆっくりと答える。
声が、少しだけ震えていた。
「ここでずっと暮らしてたの。畑をやって、海に出て、蜂の世話をして……」
視線は、写真から動かない。
「……優しそう」
茉奈ちゃんが、ぽつりと言う。
「うん。優しい人たちだったよ。ママ、すごくかわいがってもらってた」
短い言葉だったけれど、それで十分だった。
家の中に、少しだけ空気が戻る。
止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出したみたいに。
「あの、良ければここを直してもらえますか?ここで家族で住むことを前向きに考えたいです」
旦那さんが言った言葉に、戸塚さんが一瞬泣きそうになる。
「はい。では明日にでも大工組とインフラ組にここを見てもらおうと思います」
「……ありがとうございます」
茉奈ちゃんを真ん中にしたご夫婦が深く頭を下げる。
その仕草は、昨日よりも少しだけ力が抜けていた。
こちらを頼っていいと、ほんの少し思えた顔だった。
「じゃあ今日は、軽く確認だけにして戻りましょうか。まず草刈りですね。人手を集めましょう」
「はい。それがいいと思います」
その時。
「ねえ、ママ!」
茉奈ちゃんが、縁側から顔を出す。
「ここでごはん食べたい!」
全員が、一瞬だけ固まって、それから小さく笑った。
すっかりこの家が気に入ったみたいだな、茉奈ちゃん。
「……いいわね」
戸塚さんが、今度ははっきりと笑う。
「じゃあ、今度来るときはお弁当持ってこようか」
「やったー!」
ぱたぱたと走る足音。
その音が、この家にやけにしっくり馴染んでいた。
――住める。
この場所は、ちゃんと戻せると思えた。
外に出ると、蝉の声が一気に耳に入ってくる。
さっきまで気づかなかった音。
世界がまだ生きている音。
「……ここ、いい場所ですね」
思わず、そう口にする。
「はい。不便ですが」
「今はどこでも不便ですよ」
「そうですね」
私はもう一度、裏手の養蜂箱の方を見る。
あそこには、未来がある。
この家には、生活が戻る。
そして、この島には――少しずつ、人の時間が増えていく。
「……やること、増えましたね」
「ええ。でも、いい意味で。養蜂については、家の中に祖父母の遺した日記やメモがあると思うので、私が探してみます」
「それ、すごく助かります。お任せしていいですか?」
「はい」
戸塚さんが、笑う。
その笑顔は、昨日よりもずっと自然だった。
「帰りましょうか」
「はい」
自転車にまたがり、来た道を戻る。
風が、少しだけ軽い。
昨日までよりほんの少しだけ、この島が広がった気がした。




