87 買えた主食と買えなかった主食
青白いカーテンを抜けた瞬間、空気が変わる。
島の海の香りとは縁遠い熱気だけの場所。
熱気の暑さは同じなのに、匂いが違う。
人の気配が薄い、街の匂い。
代わりに立ち込めるのは夏の熱気に満ちる腐臭。
マスクをしていてもこれはきつい。
「……静かだな」
ナオトが呟く。
「朝だからだろ」
高瀬が短く返す。
「動くなら、今が一番マシな時間帯だな」
車はそのまま、秋葉原へ向かって走り出す。
途中、何体かは見た。
路肩に倒れているもの。
ゆっくりと歩いているもの。
だが――追ってくる個体はいない。
「……思ったより、少ないわね」
迦楼羅がバックミラー越しに言う。
「時間帯とルートだな。ここはゾンビが出てくるような道じゃない。幹線道路だからな」
高瀬さんは周囲を見ながら答える。
「ゾンビは日が昇ると動きが鈍る。あと、これは俺の考えだが、どうも奴らは自分がかつていた場所に帰ろうとする習性があるように見える。だから夕方の新宿駅はいつもゾンビが押しかけていて、その時間は町の中は少し安全ではあった」
「なるほど……。生きていた時の名残、みたいなもんか」
「ああ」
無駄話は、それで終わりだった。
やがて。
「この先です」
ハルが短く言う。
細い路地に入る。
店の裏手の人通りの少ない場所。
三件並んだレストランが見えた。
軽トラを止める。
「ハル、どう?」
軽トラから双眼鏡で倉庫の扉を見る。
「はい、カギはかかっているように見えます」
「分かった。じゃあ行きましょう」
「了解」
全員が車を降りる。
周りには人の気配はない。
それでも武器を手に持つ。
――静かだ。
ハルが、小さく言った。
「……開けます」
鍵は――かかっていない。あの時、ドアノブにかけたままの状態だった。
ハルがゆっくり扉に手をかける。
きい、と音を立てて開く。
全員が一瞬、息を止める。
――大丈夫、ゾンビも敵もいない。
中に入る。
「これか……」
高瀬が倉庫の中を見る。
そこにあったのは――
袋。
袋。
袋。
積まれた米袋。
未開封の小麦粉。
狭い倉庫にぎっしりと。
「……そのままだ」
ハルが呆然と呟く。
「あれから誰も気づいてなかったんですね、これ」
「まあ、食料欲しけりゃ、まずそこの店に行くわな」
実際、レストランは三軒とも入り口を破られ中は荒らされているようだった。
「誰も気づいてねえな、これ」
ナオトが一歩入って、周囲を確認する。
「……急ぐぞ」
高瀬が言う。
「こういう運がいい場所は開けてしまうと、長く持たない」
その一言で、全員が動いた。
袋を担ぐ。
運ぶ。
軽トラの荷台に積まれていくのは今日からの希望だ。
汗が一気に噴き出すが体を動かすことで確実に確かになる報酬がただ嬉しい。
「重っ……!」
「黙って運べ」
短いやり取り。
だが、手は止まらない。
二台の軽トラの荷台に、次々と積まれていく。
米。
小麦粉。
何よりほしかった主食だ。
「……これで、どれくらいもつ?」
ナオトさんが息を整えながら言う。
「かなり延びるわね」
迦楼羅が即答する。
「お米だけで一袋30キロが25袋、750キロあるわ。これだけあれば、今の人数なら一日に二食にすれば4か月くらいはもつ。その間にサツマイモが収穫できる。軽トラの積載量をオーバーするけど、スタックしないギリギリまで乗せましょう。小麦粉は25キロだった。これはもう一度取りに来るとして5袋くらいにしましょう。ハル、鍵もう一回ひっかけておいて」
「はい!」
「スリングショットはもう一度来た時にしましょう」
「分かりました!」
最後の袋を積み込む。
荷台は、ほぼ満載。少しタイヤが沈んでいる。
どうせ、さしてスピードを出して走れるわけもないのだ。これくらいならいける。
目隠し代わりにブルーシートをかぶせ、その上からベルトで固定する。
「……よし」
高瀬が一度だけ周囲を見渡す。
「誰もいない、大丈夫だ。撤収」
誰も異論はない。
そのまま、来た道を戻る。
振り返らない。
そして――午前九時の青白いカーテンをくぐる。
吸い込む空気が変わる。
海の匂いがする島の空気が心地よかった。
「はぁ……」
誰かが、ようやく息を吐いた。
緊張が、そこで初めてほどける。
「……成功、ね」
迦楼羅が笑う。
「いや」
高瀬が首を振る。
「まだだ」
荷台を軽く叩く。
「これを無事に降ろして、残りをもう一度取りに行って戻って初めて成功だ」
その言葉に、全員が小さく頷いた。
確かにそうだ。
これは、終わりじゃない。
繋いだだけだ。
それでも確実に、飢えから少しだけ遠ざかったのは間違いなかった。
それから荷台の荷物を下ろし、そのまま12時のゲートでもう一度秋葉原へ。
あんな狭い路地の倉庫が数か月誰にも見つからず無事だったことを少し過信していた。
小麦粉を買いに向かった秋葉原で、彼らは現実と向き合うことになった。
再び、青白いカーテンを抜ける。
同じ場所。
違う時間帯。
「……さっきより、匂いが強いな」
ナオトが眉をしかめる。
「風向きが変わったか」
高瀬が短く言う。
だが。
それだけじゃない。
さっき通った道に――何かが増えている。
「……増えてるわね」
迦楼羅が低く言う。
路肩に倒れていたはずのものが、動いている。
遠くにいた個体が、こちらに寄ってきている。
明らかにゾンビが増え始めていた。
「……集まり始めてる?」
ハルが小さく呟く。
「可能性はある」
高瀬は即答する。
「音か、匂いか……どちらにせよ、長居はできない」
軽トラは速度を落とさず、そのまま進む。
問題の路地に入る。
――その瞬間。
「……待て」
無線から高瀬の声。
運転席のナオトが、すぐにブレーキを踏む。
倉庫の前に――人影が、二つ見えた。
「……ゾンビじゃないわ。人間ね」
迦楼羅が小さく言う。
相手も、こちらに気づいていた。
視線が合う。
一瞬の、静止。
「――隠れろ!」
無線から響く高瀬の低い声。
同時に、全員が動く。
軽トラを物陰に寄せる。
エンジンは切らない。
相手の声が、風に乗って届く。
「……今、車こなかったか?」
「ああ、見えた」
足音が近づいてくる。
複数。
少なくとも、2人以上。
「……数が増えてる」
ナオトが小声で言う。
「戦う?」
迦楼羅。
「――ダメだ」
高瀬からの即答だった。
「ここでやれば、音で全部寄ってくる」
ゾンビも、人も。
「じゃあどうするの?」
「やり過ごす」
短く。
「倉庫は諦める」
その一言に、ハルが息を呑む。
「……でも、まだ中に」
「命より重いか?」
ぴたりと、言葉が止まる。
高瀬は視線を動かさない。
「今回は取れた」
「……」
「それで十分だ」
判断は、終わっている。
その間にも、足音は近づく。
「……分かった」
迦楼羅が短く頷く。
全員が、動きを止める。
息を潜める。
やがて。
路地の奥に、人影が現れる。
三人。
武器を持っている。
明らかに、警戒している動き。
「……やっぱり誰かいるな。ここら辺りの店に回収に来たのか?」
「車の音、したもんな」
倉庫の前で止まる。
ドアに目を向ける。
「……ここ、鍵、かかってるか?」
「いや、これ……」
ハルが掛け直したドアノブの鍵を、男の一人が触る。
――カチャ。
「開くぞ」
その一言で、全員の心臓が一瞬止まる。
だが。
高瀬は、動かない。
動かせない。
ここで飛び出せば、終わる。
男たちは、倉庫の中へ入っていく。
「――あったぞ!!」
興奮した声。
「小麦粉だ!まだ残ってる!」
空気が、一気に変わる。
「マジかよ……!」
「運がいいな!」
笑い声。
安堵。
――そして。
それは、もうこちらのものではないという現実。
ハルが、拳を握る。
でも、何も言わない。
言えない。
高瀬が、わずかに視線を動かす。
動くな、の合図。
それで十分だった。
数分後。
男たちは袋を抱えて出てくる。
「全部は無理だな」
「また来るしかねえな」
そう言いながら、去っていく。
足音が遠ざかる。
完全に気配が消えるまで、誰も動かない。
――やがて。
「今なら回収いけます」
「なら一台だけだ。もう一台は警戒に回る」
「はい」
高瀬の指示で、迦楼羅とハルの軽トラが倉庫の前に停まる。
「急げ」
迦楼羅とハルの二人がかりで小麦粉を二台に分けて14袋ずつ積む。
全部ではないが、これくらいあればいい。欲張らない、それが結花からの指示だ。
さっきの人間たちは戻ってくれば減っていることに気づくだろうが、仕方ない。
「……行くぞ」
高瀬の声。
全員が、ゆっくりと息を吐く。
軽トラを動かす。
今度は、迷わずその場を離れる。
「あとはそっちの路地裏のサバゲ―ショップへ」
「スリングショットがある店?」
「はい。店長が好きで色んなスリングショット集めてたんです。俺はエアガンばっかりだったけど、その店長がすごくいい人でよく店に遊びに行ってました」
「そう……無事だといいわね」
「はい」
そうして軽トラ二台は路地裏へ向かった。




