84 荒らされた畑
翌朝。
天気がいいので、全員で畑に来た。
畑仕事が大好きなユウキは、100均で買ってきてもらった麦わら帽子と虫よけの手作りのお酢スプレーの霧吹きを手に楽しそうに畑に走っていく。夏の日差しで虫が増えるので、朝夕の虫よけのための作業は必須だ。
同じものを持った彩羽ちゃん、当麻くん、舞ちゃんもユウキの後をついて走っていく。
ユウキを始めとした子どもたちには、畑での仕事として虫よけスプレーをする仕事を任せていた。
あまり力が必要でなく、子どもたちの低い目線のほうが、細かいところまで作業が捗る。
そんなに虫よけの効果が強いものではないため、こまめにしないといけないのが難点だけど、子どもたちは自分達ができる仕事があることに張り切っていて、いつもまじめにやってくれる。
畑に着いた瞬間、私は足を止めた。
「……あれ?」
いつも通りの光景のはずだった。
朝露をまとった葉。湿った土の匂い。
風に揺れる支柱。
海からの風。
その風の中に揺れる育った野菜。
――なのに。
その景色に、違和感があった。
ゆっくりときゅうりに歩み寄り、しゃがみ込み目線を落とす。
「……ない」
昨日、確かにここに実っていたはずのキュウリが消えている。
まだ少し細いが、収穫してもいいか迷うくらいには育っていたものだ。
隣のトマトも同じだった。
青から赤に変わりかけていた実が、いくつかなくなっている。
代わりに残っているのは――不自然にちぎられた痕。
「……風で落ちたわけじゃないよね」
断面は新しい。
しかも、複数箇所。
明らかに野菜をもいでいった痕跡だ。
ゆっくりと、息を吐く。
「……誰か、入ったね」
背後から足音がした。
「どうかしたのか?」
声に振り返ると、遠藤先生がいた。
「畑、見てください」
短く言う。
遠藤先生は数歩近づき、同じようにしゃがみ込む。
そして、すぐに理解した。
「……持っていかれてる」
「ですよね」
少しだけ間。
「昨日の夜……ですよね」
「おそらく」
「ホテルに出した食事、足りなかったんだと思います」
静かに言う。
怒ってはいない。
ただ、事実を並べるように。
そりゃ確かに満足できる量ではなかったと思う。でも私たちだって同じものを食べて同じくらいの量だ。
「でも」
そこで一度、言葉を切る。
「だからって、勝手に入っていい理由にはならない」
「……」
遠藤先生は何も言わなかった。
言えなかった、が正しいのだろう。
立ち上がり、畑全体を見渡す。
夏野菜がそろそろ実ってきていて、私たちにとっては貴重な食糧だ。
踏み荒らされた形跡は少ない。
慣れていない人間が、慎重に入った跡。
「……一人じゃないね」
「足跡、複数あるな」
「ですね」
小さく頷く。
そして。
「ルール、破られた」
その一言だけが、やけに重く落ちた。
島の風は、いつも通り穏やかだった。
――だからこそ。
その静けさが、少しだけ不気味に感じた。
その日はとりあえず、いつも通りの畑仕事をまずしようと思った。
分かってる、飢えは何より怖いし、人の理性を簡単に壊す。
それでも、ここのルールでそれは許されない。
何より、畑には近寄るな、というルールは最初に提示している。
それを守らなかったのなら……。
見過ごすことはできない。きちんと責任を取ってもらう必要がある。
それから今日の畑仕事を終わらせて、帰ろうか、と言うときに。
「ねえ、誰か」
私の低い声に畑にいた皆が振り返る。
「ホテルに行って、高瀬さん呼んできて。ここに」
ほんの一瞬、誰も動かなかった。
子どもたちも、大人も。
畑に流れていたいつもの空気が、そこで止まる。
「……俺が行きます」
ツバサくんが短く言って、すぐにホテルの方向へ走り出した。
その背中を見送りながら、私は何も言わずに立っていた。
誰も、軽口を叩かない。
さっきまで聞こえていた子どもたちの笑い声も、もうない。
風の音だけが、やけに耳についた。
――少しして。
足音が戻ってくる。
「連れてきました」
ツバサくんの声に振り返ると、その後ろに高瀬さんがいた。
視線が、畑を一度なぞる。
そして私に止まる。
「……何かあったんですか」
私は答えず、足元を指さした。
「ここを見てください」
高瀬さんは近づき、しゃがみ込む。
キュウリの断面に触れた指が、わずかに止まった。
それで十分だった。
「私たちは今日、ここで野菜の世話をしただけで、何も収穫はしていません。むしろ今日収穫しようと思っていた野菜がここにありました。昨日の夜、誰かがここに入ってます」
静かに告げる。
「いくつか、持っていかれてます」
「……」
「畑には近寄るなって、最初に言いましたよね」
高瀬さんはゆっくり立ち上がり、息を吐いた。
「食料が足りていないのは、分かっているはずです」
「分かってます。それは私たちも同じです」
間を置かずに返す。
「だからって、勝手に入っていい理由にはならない」
視線を逸らさない。
高瀬さんも、逸らさなかった。
「……全員を管理しきれているわけじゃない」
「でしょうね」
「だから、誰がやったかまでは――」
「そこは問題じゃないです」
言葉を切る。
少しだけ、間を置いて。
「問題は、起きたことです」
風が吹く。
葉が擦れる音が、小さく鳴る。
「ルールが破られた」
その一言で、場がさらに静かになる。
「これを見過ごしたら、次も起きる」
「……」
「一度許せば、やっていいことになってしまいます。今回とは違う人もやっていいと考え行動してしまう。そうなるとここは無法地帯へと踏み出してしまいます」
一歩、踏み出す。
「だから」
声を落とす。
「見過ごすことはできない」
高瀬さんの表情が、わずかに硬くなる。
「……どうするつもりですか」
「まず、確認します」
はっきりと言う。
「関わった人、全員」
「それは――」
「言い出せないなら、こちらで線を引く」
ぴたりと止める。
「今日中に、全員ここに連れてきてください」
少しだけ間を置く。
「来なければ、こちらで対応します」
それ以上は言わない。
言葉にしなくても、伝わるはずだ。
高瀬さんはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
それだけ言って、踵を返す。
あの人への信頼が揺らがないことを祈るばかりだ。
「……ゆかねえ。怒ってる?」
ユウキが私の服のすそを引っ張る。
「怒ってるよ。怒ってるゆかねえは、ユウキは嫌?」
「……嫌じゃないよ。ゆかねえが怒るときは、ゆかねえが怒るようなことをした人がいるときでしょ?」
少しだけ考えるようにして、ユウキが言う。
私は一瞬、言葉に詰まった。
――違う。
そう言いかけて、やめる。
「……そうだね」
代わりに、ゆっくりと頷いた。
本当は違う。
怒るようなことをした人がいるから怒っているんじゃない。
そうしないと、守れないからだ。
ルールを。
ここでの生活を。
――この子たちを。
子どもたちを守れない大人にはなりたくない。ある意味私のエゴの怒りでもある。
「でもね」
しゃがんで、ユウキと目線を合わせる。
「怒るって、ちょっと怖いことでもあるんだよ」
「……こわい?」
「うん」
小さく笑う。
「怒るとね、誰かが悲しい思いをすることもあるから」
ユウキは少しだけ考えてから、こくんと頷いた。
「……じゃあ、ゆかねえも、ちょっとだけ悲しいの?」
思わず、息が止まる。
子どもは、時々こういうところを真っ直ぐに突いてくる。
「……そうかもね」
苦笑しながら答える。
「でも、それでもやらないといけない時もあるの」
「……ふーん」
完全には分かっていない顔で、それでも納得しようとする。
その頭を、軽く撫でた。
「ユウキたちは、何も気にしなくていいよ。いつも通りでいい。さあ、みんなのとこに行きなさい」
「うん」
元気よく返事をして、ユウキはまた他の子たちの方へ走っていった。
その背中を見送りながら、ゆっくりと立ち上がる。
遠くで、高瀬さんたちの姿はもう見えない。
これから、誰が来るのか。
それとも、誰も来ないのか。
どちらにしても――今は最初に約束した関係には戻れないことにならないことを祈るのみだ。
海からの風が吹く。
夏の風なのに、少しだけ冷たく感じた。




