83 不満
ホテルのロビーに、湯気の立つ鍋が運び込まれる。
リヤカーの上には雑炊の鍋が二つ並んでいた。
蓋を開けると、ふわりと湯気が立ち、魚の出汁の良い香りがする。
「うわ……あったかい……」
誰かがぽつりと呟いた。
それだけで、空気が少し緩む。
久しぶりだったのだ。
ちゃんとした温かい食べ物が目の前にあるという状況が。
子供や高齢者たちもロビーに下りて来た。
子どもたちは良い香りに笑顔になっている。
「並べ。全員分あるように配る」
高瀬の声に、自然と列ができる。
誰も押さない。
ただ静かに、順番を待っている。
紙皿の器に盛られた雑炊と木のスプーンと水の入った紙コップがセットで一人ずつに渡される。
湯気が立ち上り、魚の出汁の香りがロビーいっぱいに広がる。
「いただきます……」
誰かが手を合わせる。
それにつられて、ぽつぽつと同じ動きが広がった。
一口。
ゆっくりと口に運ぶ。
温かい。
――それだけで、少しだけ涙が出そうになる。
けれど。
「……あれ?」
ぽつりと、何処からか声が漏れた。
「これ……ちょっと、少なくないか?」
小さな声。
でも、それは確実に周囲に広がる。
「いや、でも……食えるだけありがたいだろ」
「ありがたいのは分かってるけどさ……」
スプーンを持つ手が止まる。
「米、少なくね?」
「水で増やしてるだけじゃねえか」
空気が、少しずつ変わる。
その時。
「おかわり、ある?」
子どもの声だった。
全員の視線が、そちらに向く。
すぐに母親が制する。
「こら、ダメでしょ。みんなで分けてるんだから」
「……でも」
「ママのあげるから」
黙る子ども。
その器は、他のものよりほんの少しだけ具が多い。
――気づく人間は、気づく。
「……あっちはいいよな」
ぼそり、と誰かが言った。
「子どもは優先かよ」
「そりゃそうだろ……」
「じゃあ俺たちは何だ?」
「なあ、高瀬さん」
あの男が口を開く。
「これで足りると思ってんのか?」
「……足りないな」
高瀬は即答した。
ざわつきが広がる。
「じゃあなんで――」
「だが、今あるのはこれだけだ」
言葉を遮る。
「向こうも余裕があるわけじゃない。分かるだろ。むしろ俺たちが来たことで、確実に足りない状況になってるのにこうやって食事を作って分けてくれている」
「分かるけどよ……」
「分かってない」
低く、切る。
「ここで文句を言うのは簡単だ」
「……」
「だが、じゃあどうする?外に自分で取りに行くか?」
「無理に決まってんだろ」
「向こうはどういう状況だったか、忘れたわけじゃないんだな」
誰も答えない。
「これは満腹になるための食事じゃない。今日を生き延びるための食事だ。ここでの避難は向こうの善意の上で成り立っている。それに文句を言うのはお門違いだ。向こうには俺たちを助ける義務なんか最初からないんだぞ」
静まり返るロビー。
「……ありがたく食え」
短く、それだけ言った。
誰も逆らわなかった。
だがその沈黙は、同意ではなかった。
食事を終えたあとも、ロビーには人が残っていた。
それぞれ壁にもたれたり、床に座り込んだりして、なんとなく動く気になれないまま時間だけが過ぎていく。
空になった紙皿を見つめて、誰かがぽつりと呟いた。
「……足りねえな」
小さな声だった。
だが、今の空気ではそれで十分だった。
「……まあな」
すぐに、別の声が返る。
「温かかったし、うまかったけどよ」
「うまいのと、足りるかは別だろ」
乾いた笑いが漏れる。
「……久しぶりだったな、食事が温かいって分かってる状態で食うの」
「新宿じゃ乾きもんしかなかったからね」
「ああ。だからマシなんだ、それは分かってるつもりなんだよ……」
その一言で、空気がわずかに沈む。
「……それ言うなよ」
「事実だろ」
短い沈黙。
誰かが、ホテルの奥――外の見えるガラス窓の方に視線を向けた。
「……向こうは、どうしてんだろうな」
ぽつりと落ちた言葉に、何人かが顔を上げる。
「向こう?」
「この島の連中だよ。俺たちに飯作ってる奴ら」
「ああ……」
少し考えるような間。
「同じもん食ってると思うか?」
「……どうだろうな」
「でもよ、あの感じだとさ」
言葉を選ぶように、男が続ける。
「俺たちに出してる分より、いいもん食ってそうじゃね?」
誰もすぐには否定しなかった。
「……まあ、管理してる側だしな」
「だよな。俺たち外から来た避難者だし」
その言い方に、わずかに棘が混じる。
「仕方ねえだろ。世話になってる立場なんだから」
「分かってるよ」
だが、声には、納得できない不満が混じっていた。
「分かってるけどさ……」
言葉が続かない。
代わりに、別の男が口を開いた。
「子どもは優先、ってのもな」
ちらりと視線が動く。
その視線の先では子どもたちが眠そうな目をこすっていた。
「……そりゃそうだろ」
「分かってるって。でもさ」
少しだけ声が低くなる。
「じゃあ俺たちは何だ?」
誰も答えない。
「働ける年齢の大人は後回し、ってことだろ?」
「いや、そういう話じゃ――」
「そういうことだろ」
遮るように言い切る。
「役に立つかどうかで決まるって話だ」
その言葉に、何人かが黙ったまま視線を落とした。
思い当たる節が、あるからだ。
――名前と、できることを書け。
高瀬の言葉が、頭の中に蘇る。
「……結局さ」
腕を組んでいたあの男が、ゆっくりと口を開いた。
「従うなら食わせてやるってことだろ」
空気が、はっきりと変わった。
「……言い方」
「違うか?」
誰も即答できない。
「善意だなんだって言ってるけどさ」
男は続ける。
「条件付きだろ、それ」
「……」
「ここで暮らしたいなら働け。役に立て。そうじゃなきゃ知らねえって」
「それは……当たり前だろ」
ようやく誰かが言う。
「当たり前か?」
男は鼻で笑った。
「じゃあなんで善意なんて言葉使うんだよ」
返す言葉がない。
「最初から取引だって言えばいいだろ」
しん、と静まる。
その沈黙の中で、誰かがぽつりと呟いた。
「……じゃあ、書いた方がいいのか」
ノートの話だ。
「書かなきゃ、どうなる?」
「さあな」
男が肩をすくめる。
「使えない奴って判断されるんじゃねえの?」
小さく息を呑む音がした。
「冗談だろ……?」
「どうだろうな」
軽く言ったその言葉が、妙に重く残る。
しばらくして。
別の男が、声を潜めて言った。
「なあ」
「……何だよ」
「ホテルの向こう、畑、あったよな」
一瞬で、数人の視線がそちらに集まる。
「近づくなって言われてたやつ」
「ああ」
少しだけ間。
「……夜なら、分かんねえんじゃねえか?」
誰も、すぐには否定しなかった。
その沈黙の中で、数人が目を合わせた。




