79 最後の避難者
夜。
空気が、昼の熱をまだ残している。
夏の夜の暑さは体力を奪う。
ハルは結花にもらった水を飲みながら、迦楼羅の隣で新宿を目指していた。
時々ビルの高い位置に見える光は闇の中では目立つ。
光のある方向から時折聞こえる大きな音は、そこに生存者がいると告げているようなものだが、全部無視する。
全員を助けられるわけはないのだから。
軽トラのヘッドライトだけが、道を切り裂く。
「……一番嫌な時間帯ね」
迦楼羅が低く言う。
「視界、悪いっすね」
「その分、あっちも鈍る。条件は五分よ」
「……そう願いたいっす」
ハルがスリングショットを握り直す。
雑居ビルが見えた。
分かってはいたが、周辺は異様なほど静かだ。
ゾンビも路地にはいない。音が聞こえる大通りのほうに集まっているようだ。
「……音と光のない新宿って怖いわね」
「ええ。あの賑やかな夜の街はもうないんですね……」
車を止める。
コン、コン、コン。
一拍。
コン、コン。
――ここを開ける合図。
一瞬の間。
「……来たか!」
シャッターが上がる。
高瀬の顔。
その後ろに、タツヤ。
そして――他、残っていた三人。
これで全員だ。
「遅かったな」
「そう?」
迦楼羅が軽く肩をすくめる。
「準備は?」
「できてる。あと、完全に暗くなる前にタツヤと二人で土産も用意した」
「土産?」
「ああ。おまえらがあのビルにはまだそれなりの物資があったって言ってただろ?だから、タツヤと二人で調達してきた。おかげでちょっとばかり残ってた俺とタツヤの財布の中身はすっからかんだ」
「あら、ちゃんとお金払ったの?」
「そうしないといけないんだろ?」
「ええ。ありがとう」
そこには、あのビルで見た色々な物資が積まれていた。ドラストのものや、服や靴まで……。
さっきは買えなかったサプリメントも色んな種類がある。
置いていった買い物分も含めるとかなりの量になるが、荷台に積めない量ではない。
「こんなものまだあったの?」
迦楼羅が驚いたのは、段ボールの中に詰められていたワインの瓶とカルピスの原液のケース。調理前のポップコーンとキャラメルソースなどの嗜好品だ。
「これは映画館まで上がって見つけた。さすがにすぐ食えるようなものはもうなかったが、これは残ってたからな。いらないなら置いていけばいい」
「いえ。子どもたちもいるし助かるわ。嗜好品はどうしても後回しになるからね」
「なら持っていくか?」
「ええ、もちろん」
思ってもみなかった土産ができた。これなら帰りに無理にドラストに調達に寄らずとも良さそうだ。
「じゃあ、みんな乗ってちょうだい。まずこの物資を乗せてね。大丈夫、全員乗れるわ」
余計な言葉はない。
全員が理解している。
――これが最後だと。
5人が荷台に乗り込む。
各々、武器となる長物を握りしめたまま。
「武器は持ってていい。でも使うなら“外に向けて”よ」
迦楼羅が釘を刺す。
誰も答えない。
だが、握る手に力が入るのが見えた。
「ハル」
「はい」
「前、頼むわ」
「了解」
エンジンが唸る。
「行くわよ」
軽トラが、闇の中へ滑り出し、暗闇の新宿の街を走る。
「……左!」
ハルの声。
影が飛び出す。
軽トラのライトに照らされたゾンビに向かって、ハルがスリングショットを構える。
――パシュッ!
一発。
顔面に命中し、動きが止まる。
その隙に、通過。
「数、多いっす!」
「分かってる!」
やはり音に引かれている。
夜の静寂の中、エンジン音は致命的だ。
「裏道を回るわ!」
「了解!」
大通りに出た瞬間。
「……来る」
前方。
群れ。
夜でも、分かる密度。
「……押し切るわよ」
「はい!」
加速。
エンジンとタイヤの音にゾンビが反応する。
ふらふらと動く。
手を伸ばす。
――ドンッ
――ガンッ
フロントガラスが弾く。
乗り上げて地面に転がり、頭部を潰されて動かなくなる。
「あと何分!?」
「一時間あります!」
「裏道で時間を稼ぐわ……!ガソリンもギリギリ持つと思う!」
そのときだった。
「……なんでだよ」
低い声。
荷台から。
「……なんで、俺たちだけなんだ」
新顔の男の一人。
目が、焦点を結んでいない。
「……おい」
タツヤが声をかける。
だが。
「まだ……まだいるんだ!戻って……!あいつらを迎えに……!」
男が立ち上がる。
「座れ!!危ない!!」
ハルが叫ぶ。
「立つな!!落ちるぞ!!」
だが、止まらない。
男の視線は――運転席。
「戻れないって言うなら俺がやる……!俺が……!」
荷台から、運転席を開けようとする動作。
「っ!!」
ハルが一瞬、迷う。
撃つか。
その一瞬――荷台にあった影が動いた。
「やめろ」
低い声。
その声のすぐ後に男の体が荷台で宙を舞った。
――ドンッ
荷台の荷物の上にその体がたたきつけられる。
高瀬がいつの間にか、中腰で男を押さえつけていた。
腕を取り、関節を極める。
「っ……ああああ!!」
男が悲鳴を上げる。
武器が落ちる。
「動くな」
低く、冷たい声。
完全に制圧していた。
無駄がないプロの動きだった。
「……なんでだよ……」
男が、呻く。
涙と、恐怖と、怒りが混ざった顔。
「……置いてきた仲間がいるんだな?」
高瀬が言う。
感情はない。
「……ああ」
短く。
そして。
「一度目は理解する」
腕に、さらに力が入る。
「だが――」
顔を近づける。
「……二度はない」
静かな宣告。
荷台の空気が凍る。
誰も、動けない。
誰も、何も言えない。
ただ一つ。
許可されたルールだけが、刻まれる。
「……ハル」
「は、はい!」
「前見てて。後ろは彼に任せて大丈夫」
「……はい!」
我に返る。
スリングを構える。
前方にまた群れがいる。
「行くわよ!!」
迦楼羅が叫ぶ。
アクセル全開で裏道に入り、時計を見ながら帰る場所へのタイミングを計る。
やがて鳥居が見えた。
「……多い」
鳥居の周りにゾンビが密集している。
昼よりも多い。
まるで壁のようだ。
「止まれないわね」
「突っ込みますか?」
「そうね。全員衝撃に備えて!あいつら跳ね飛ばすわ!」
迦楼羅の指示に全員荷台に捕まるようにして密集して落ちないように固まる。
「……賭けるわよ。ハル、時計見て」
「はい。あと10秒」
加速。
距離が詰まる。
「今来い……!」
迦楼羅が呟く。
――まだ。
「……まだ!!」
ゾンビが迫る。
手が伸びる。
荷台にしがみつき、悲鳴が挙がる。
「わああっ……!」
「落ちろ!!」
タツヤがバールを振りかぶり、荷台にしがみついたゾンビを叩き落とす。
だがさらに群がろうとするゾンビたちには間に合わない。
そのとき。
――滲む。
青白い光。
「……今よ!!」
アクセル全開。
――ドンッ!!
――ガンッ!!
何体も弾き飛ばしながら、青白い光のカーテンに突っ込む。
次の瞬間にはそこは夜の静寂の中だった。
聞こえるのは潮の音だけだ。
「……戻った」
ハルが呟く。
誰も、すぐには動けなかった。
荷台の男が、小さく震えた。
さっき高瀬に制圧された男だ。
もう、何もしない、できない。
ここに入った以上、結花の許可なしにあちらへ行くことはできない。
「……全員、降りて」
迦楼羅が静かに言う。
「武器は荷台に置いていきなさい。持って下りていいのは自分の荷物だけ。ここに武器を持ち込むことは絶対に許さない」
その指示に全員、手に持っていた長物を置き、最後に高瀬が腰にあったものを置き、それを見たハルがギョッとする。
「高瀬さん、それ……ニューナンブ……」
荷台に置かれたのはピストルだった。
「俺とタツヤは警察官だ。タツヤ、お前も出せ」
「……はい」
タツヤも腰から一丁のピストルを出し、荷台に置く。
「安全装置はついてるが、取り扱いには注意してくれ」
「分かりました……。厳重にお預かりします」
サバゲ―で使うエアガンとは違う、本物の殺傷能力のある「武器」だ。
ハルはこれをどこに保管すべきか結花と相談しなくてはと考える。
そんなことを考えていると、ツバサとシゲトが走ってきた。
「かるさん、ハル、お疲れでした!」
「みんな寝ないで待ってた。新入りたちは俺たちに任せて、2人は報告に行ってくれ」
「ありがとう、そうするわ。じゃあ後はお願いね」
ツバサとシゲトに後を任せて、迦楼羅は軽トラから降りた。
足元が、少しだけ揺れる。
気づかないふりをしていた疲労が、一気に押し寄せてきた。
この体になって体力的にはタフになったが、精神的なものはまた違うようだ。
「……大丈夫っすか」
ハルが横から小さく言う。
「大丈夫よ。まだ倒れるわけにはいかないでしょ」
軽く笑う。
だが、その声にはわずかな掠れがあった。
「ハル」
「はい」
「あれ、あとで結花に直接渡すわよ。あの子の判断で管理させるけど、ああいうものはあんたのほうが詳しいと思うから、管理に関しては結花の相談に乗ってあげて」
「……はい」
その目は真剣だった。
ここが「安全側」だと、全員が分かっているからこそ。
線引きは、絶対に必要だ。




