56 百合の学校にて
鳥居を抜けた瞬間、視界が一度白く弾けた。
次の瞬間には、見慣れたはずの“向こう側”の景色が広がっていた。
荒れた道路。放置された車。静まり返った街。
「……空気、重いわね。何ていうか、雨の後みたいな感じの湿り気って言うか」
「はい。……嫌な臭いもします」
二台目の助手席で、迦楼羅がぽつりと呟いた言葉に運転席の英二が応える。
「迦楼羅さん、行きますよ」
前にいるツバサが運転する軽トラから無線が流れてくる。
先日秋葉原で買ってきた無線がさっそく役に立つことになった。
先行するツバサたちの軽トラの動きを頼りに進んでいく。
高速に上がってみると、思ったより事故車も放置車も少なかったので、行けるところまで高速で行こうと話しあい、車道に残る車をよけながら、他に走る車がないことを慎重に注意しながら、埼玉方面へ向かう。
休憩に、と立ち寄ったSAでは建物内に閉じ込められて出てこられないゾンビを横目にガソリンを手動で給油した。
さすがに一時間では無理だったが、二時間ちょっとで目的の出口にたどり着けてホッとした。帰りもこれならいける。
「右です。この先の交差点を右に曲がってください」
百合の声は落ち着いていたけれど、指先はぎゅっと膝の上で握られている。
この辺りはよく知っている道だ。
でも――もう“知っているままの道”じゃない。
「……百合ちゃん、大丈夫か」
「はい。……大丈夫です」
ツバサへの短い返事。
けれどその目は、ずっと前を見ていた。
途中、何度か道を塞ぐ車を避け、時には英二の軽トラが前に出て押しのける。
エンジン音は、静まり返った世界ではやけに大きく響いた。
ゾンビがあちこちで頭を潰されて倒れているのは、この辺りに「お掃除」をしている生存者がいるということだ。
それでもまだゾンビは多い。さっきのSAもだったが、閉じ込められたままの個体も相当いるのだろう。
「長居は無用ね」
迦楼羅が低く言う。
「ええ」
英二も短く返す。
止まれば寄ってくる。
それが何かは、言うまでもない。
「……見えました」
百合が、息を呑む。
コンクリートの塀とフェンスに囲まれた広い敷地。
見慣れたはずの校門。
その向こうに、校舎が見える。
――通っていた高校だ。
『埼玉県立三輪農業高校』
という校門に書かれた校名の前で二台とも一度車を停めた。
「……静かすぎるな。やっぱり誰もいないのか?」
門はぴったりと閉められている。校庭にも見える範囲の校舎にも人影はない。
「入るわよ」
後ろから来た英二の軽トラが並ぶ。
迦楼羅が周囲を一瞥してから、はっきりと言った。
「ツバサ、先行。百合はそのまま案内」
「了解」
門を開け、二台はゆっくりと校内へと入っていく。
グラウンドは荒れ、雑草が伸び放題になっていた。
「……」
百合の視線が、ある一点で止まる。
校舎の裏手。
家畜小屋の方。
「……煙?」
細く、白いものが上がっていた。
「誰かいる」
ツバサが即座に言う。
英二もアクセルを踏み直した。
「行くぞ!」
軽トラが土を蹴って走る。
その音に気づいたのか。
家畜小屋の影から――人影が飛び出してきた。
「――っ!」
百合が、思わず前のめりになる。
「百合ちゃん危ない!」
ツバサが制する。
だが車を停めると百合はシートベルトを即座に外し車を飛び降りた。
「――美奈子!」
名前を呼んだ瞬間。
その場にいた全員の時間が、ほんの一瞬だけ止まった。
ヘルメットを放り出し、叫びながら駆け寄る百合に、飛び出してきた少女も目を見開く。
「……百合!?」
次の瞬間、二人は勢いよく抱き合った。
「よかった……っ、よかった……!美奈子……!生きてた!」
「百合こそ……生きて……っ」
震える声。お互いに押し殺していたものが一気に溢れ出す。
だが――。
「待て!!」
鋭い声が飛んだ。
家畜小屋の陰から、もう一人。
さらにその後ろから、大人の男女が現れる。
「岡部!その人たちから離れなさい!」
男性教師が、手にした鉄パイプを構えたまま叫ぶ。
百合の体がびくりと震える。
「遠藤先生……。先生も無事だったんですね……良かった……」
「中里か!無事だったのか……!」
一瞬だけ彼の顔に安堵の色が浮かぶ。
だがすぐに、その視線が後ろ――軽トラの方へ向いた。
英二と、そして。
迦楼羅へ。
「……誰だ、その人たちは」
警戒。
はっきりとした拒絶。
それを受けて。
「――あら」
迦楼羅が、軽トラのドアにもたれたまま、ゆっくりと口を開いた。
「その言い方、感じ悪いわね」
「……」
「助けに来た人間に向ける顔じゃないと思うけど?」
「助けに?だと?自衛隊か何かか?」
「あいにく一般人よ」
空気が、一気に張り詰める。
「先生、違うんです!」
百合が慌てて振り返る。
「この人たちが、私を、私たち家族を助けてくれて――」
「中里」
低く、遮る声。
「その人は……“普通”なのか?」
その一言で。
空気が変わった。
分かっている。
何を見て、何を感じて、そう言っているのか。
だからこそ。
「……へえ」
迦楼羅が、わずかに笑う。
「いい勘してるじゃない」
「迦楼羅さん……!」
ツバサが小さく制する。
だが迦楼羅は視線を外さない。
「安心しなさいよ」
一歩、前に出る。
「アタシが”そう”で、アンタたちを襲う気があるなら、とっくにやってるわ」
「……」
「それでも怖いなら、百合だけ連れていく?」
静かに、突き放すように言う。
百合が息を呑む。
「――違います!」
その声は、はっきりと響いた。
全員が、百合を見る。
「この人たちは……私を助けてくれてここまで連れてきてくれた仲間なんです!」
迷いのない言葉。
その一言で。
場の空気が、わずかに揺らいだ。
「先生。私たちの話を聞いてください」




