111 脱走
その日の夕方、全体の作業がひと段落し、島に少しだけ穏やかな空気が戻ってきた頃。
「……あの、ツバサさん」
ハルが、小さく声を落とした。
「ん?」
ツバサが振り向く。
「さっきさ」
周囲を一度見てから、さらに声を潜める。
「見張りの交代のとき、あの人……ちょっと変じゃなかったですか?」
「あの人?」
「新宿から来た……ほら、途中で合流した人」
名前が出てこない。
それくらいの距離の人物。
高瀬やタツヤのように近しくはない人物だ。
ツバサは少しだけ考えてから。
「……ああ」
短く、納得したように頷いた。
「気づいたか」
「やっぱり?」
ハルの声が、わずかに固くなる。
「何が?」
横から店長が割って入る。
ツバサは、少しだけ間を置いてから言った。
「なんていうか、行動が気になるやつがいるんですよ」
ツバサとハルで交互にその男の行動を口にする。
「妙に、鳥居のほうを気にしてる。いや、見張りなんだし、気にしててもおかしくはないんですけど、なんていうか目つきが……」
「ええ。目つきが切羽詰まってるって言うか……」
「……それだけか?」
「今のところは」
「……警戒、した方がいいか」
店長が低く言う。
「まだ断定はできないけどな」
ツバサは肩をすくめる。
「ただ――」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「何もないって顔じゃなかった」
その言葉は、軽くなかった。
同じ頃。
その男は、一人で海の方を見ていた。
島の外のその先。
ここからでは見えないはずの場所を、じっと見つめている。
(……あそこに、まだいる)
新宿に置いてきた人間たち。
高瀬達のところに逃げ込めたのは、たまたま物資調達に出ていた自分たち三人だけだった。
でも自分たちの拠点にはあと何人か残っていたのだ。
それを申告しなかったのは自分たちのミスだ、分かってる、分かっているけど。
あの時申告していたら、自分たちも切り捨てられただろうという恐怖には勝てなかった。
ここに来てから見た光景。
――家がある。
――食べ物がある。
――守られている。
握った手に、力が入る。
(……こんなの、おかしいだろ)
喉の奥で、何かが軋む。
(あいつらは……あのまま死ぬのに)
正義感か。
罪悪感か。
それとも。
もっと単純な――焦りか。
判断は、まだついていない。
ただ一つ。
心のどこかで。
(……知らせないと)
そう思ってしまった。
島の中では。
「ほら、もう一回!」
「当たんねえってこれ!」
スリングショットの練習に、まだ笑い声が残っていた。
石が外れて、地面に転がる。
それを子どもが拾って、また渡す。
誰かが笑う。
誰かが褒める。
誰かが、次は当たると言う。
――守られている場所の音。
そのすぐ外で。
静かに、ひとつの選択が形になり始めていた。
その選択が、形になったのは――夜だった。
鳥居の見張りの交代の隙をついて、男は誰にも気づかれないように鳥居の方へ向かった。
足音を殺し息を潜め。
何度も後ろを振り返る。
背負ったリュックにはここで手に入れた水と食料と簡単な医療品が詰まっている。
腕時計を見る。午前12時のゲートが開く時間まであと1分。
戻る気は、なかった。
(……これでいい)
そう思い込むしかなかった。
そして午前12時のゲートが開いた。
――翌朝。
「……いない?」
朝まで見張りをしていた男が戻ってきて報告する。
「昨日の夜、交代の時間だな、と思って見張りに行ったときにはもういなかった。引継ぎせずに戻る奴なんて今までにもいたから気にしてなかったが、今朝になってもいない」
その一言で。
空気が、すっと冷えた。
ツバサが、ゆっくりと息を吐く。
「……やったな」
ハルの顔が、強張る。
「マジで……?」
店長が、短く言う。
「高瀬に報告だ」
数分後。
ホテルのロビーにいる全員の前に、高瀬が立っていた。
「……状況は?」
「一人、失踪。タイミング的に、12時のゲートで外に出てる可能性が高い」
「水と食料もいくつか消えてる」
「そうか……。おい、あの時、あいつと一緒にいた二人、前に出ろ」
高瀬に言われ、ビクビクした様子の男が二人それでも前に出る。
「おまえら何か知らないのか?」
単刀直入な問いかけだ。
「……あの」
「言え」
「確かじゃないですけど、あいつ、向こうの拠点に残してきた仲間のこと心配してて、こっちに連れてきたいとは言ってました」
「まだ仲間がいたのか。なんであの時言わなかった」
「……」
「……まあ分からなくもない。あの時点でそれを言われたら、俺もこっちへの避難へさらに追加してくれとはさすがに頼めなかったし、救出に行くリスクもあったからな。出て行った奴に鳥居の入り方は知られてる。あとは――向こうに合流するか、誘導するか、だな」
高瀬が言葉を継ぐ。
誰も、否定しない。
「……どうする」
誰かが、問う。
ほんの一瞬の沈黙。
そして。
「帰ってこないならそれでいい。もし誰か連れて帰ってくるようならまとめて追放だ。二度目はないと言ってある。それにこの島のルールを破るものは追放一択だ」
「それは……厳しすぎないか?」
「俺はそうは思わない。ここは秩序がある場所で、そうあろうとしている最中だ。そこにルールを守れず、自分の感情だけで行動する奴は地雷でしかない」
高瀬の言葉に全員静まり返る。
誰も、反論できなかった。
その「厳しさ」が、どれだけのものを守っているのか。
全員が、もう知っているからだ。
沈黙の中で。
高瀬は、もう一度周囲を見渡す。
「……繰り返す」
低く、はっきりとした声。
「この島は、助け合う場所だ。そう決められた場所に俺たちは助けてもらった。ここは――無条件で誰でも受け入れる場所じゃない」
視線が、一人一人に向けられる。
「ルールを守る限りは守る。守らないなら、切る」
それだけ。
単純で。
逃げ道のない線引き。
「以上だ」
短く告げて、高瀬は背を向けた。
その場に残された空気は、重い。
だが、崩れない。
むしろ――固まる。
「……やっぱ、あの人すげえな」
ぽつりと、誰かが呟いた。
「怖えけどな」
小さな苦笑が混じる。
「でも、ああいうやつがいないと、まとまんねえよ」
それもまた、誰も否定しなかった。
その日は何もなかった。
だが、その翌日、事態は動く。




