109 結花の過去
一休みのあと、簡単な報告会が開かれた。
市庁舎の前に焚火台を作っていて、最近では、夜になるとそこで火を囲むようになっていた。
これが今この島にいる住人とのコミュニケーションの一つになっている。
焚き火を囲むように、今夜も自然と人が集まる。
子どもたちはもう眠っている時間だから、ここにはいない。
少しのんびりした空気になるのがいつものことだったが――今日は違った。
誰も、先に口を開こうとしない。
空気を割ったのは、迦楼羅だった。
「……報告するわ」
短い一言。
それだけで、全員の視線が集まる。
「資材、医薬品、食料。ほぼ予定通り回収できた」
そこまでは、いつも通り。
だが。
わずかな間が落ちる。
「……それと」
その間で、何人かが気づいた。
――何かある。
「米ぬかを取りに行ったコイン精米機のあるゲームセンターに、生存者が三人いた」
ざわ、と小さく空気が揺れる。
「助けを求められた」
誰かが、息を呑む。
そして。
「……でも、見捨てて来た」
音が、消えた。
風の音と火が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
誰も、すぐには言葉を返せない。
責めることも。
肯定することもできない。
沈黙の中で、桃がぎゅっと自分の手を握りしめた。
「……水と、少しだけ食べ物は置いてきた」
絞り出すような声。
「でも……連れては来なかった」
視線は上がらない。
「……あのままじゃ、多分……」
最後までは、言えなかった。
分かってしまうから。
聞いている側も。
言っている側も。
その時。
「……そうか」
低い声。
年長の男が、ゆっくりと頷いた。
それ以上、すぐには続けない。
言葉を選んでいるのが、分かる。
「……よく帰ってきた」
出てきたのは、それだった。
正しいかどうかじゃない。
まずは、帰ってきたことへのねぎらいの言葉。
それを聞いた瞬間。
桃の肩が、わずかに震えた。
だが。
「……それでいいのかよ」
別の声が、ぽつりと落ちる。
若い男だった。
視線は逸らしたまま。
「助けられたかもしれないのに」
責めるでもなく。
ただ、引っかかりを吐き出すように。
空気が、また揺れる。
正論だ。
でも――。
「じゃあ、お前だったら、連れて帰れたか」
高瀬さんが、静かに返す。
声は低い。
だが、はっきりと届く。
「水も食料も足りない。移動手段も限られてる。状態は衰弱しきってた」
一つずつ、積み上げる。
「それでも全員生かせるって判断できるなら、そうすればいい」
言い切る。
突き放すようでいて。
現実を、そのまま置くだけの言葉。
若い男は、何も言えなくなる。
沈黙。
その中で。
「……でもさ」
ハルくんが、ぽつりと口を開いた。
空気が少しだけ、緩む。
「水あげたんでしょ?お菓子も」
「……うん」
桃が小さく頷く。
「じゃあ、それでいいじゃん」
あっさりとした言い方。
だけど。
「ゼロじゃないなら、ちゃんとやったってことだよ、桃ちゃん」
「……」
真っ直ぐな目。
逃げない言葉。
「全部は無理でも、できる分はやったんだからさ」
それは、慰めじゃない。
基準の提示だった。
この世界での、線引き。
桃が、ゆっくりと顔を上げる。
目はさっきよりも揺れていない。
「……そっか」
小さく、息を吐く。
その横で、迦楼羅が一言。
「もし、同じことが今後あったら、次も同じ判断をするわ」
迷いはない。
だが。
「……でも、次はもう少しマシな余裕を作る」
ほんの少しだけ、付け足す。
それが、このチームの答えだった。
正しさじゃない。
――次に繋げるための答え。
焚き火の火が、ぱちりと音を立てる。
誰も笑わない。
でも、誰も崩れない。
その静かな均衡の中で。
島の夜は、ゆっくりと深くなっていった。
「……そろそろ私の話もしないとね」
私は焚火に木を放り込みながら少し笑う。
「結花?」
「私が防災オタクになった理由。皆聞いてくれる?」
全員その場を立とうとしないのが答えだった。
「そんなに長い話じゃないわ」
12年前の災害、覚えてる?
そう、あの大火事。山火事からの延焼で、町が一つ丸々燃えちゃったやつ。
私ね、あの時の被災者なの。あの火事で私の両親は亡くなった。
私はまだ中学生で、そのまま通っていた中学校で避難生活を送ることになったの。
でも何もない。
だって家も燃えちゃって何も残ってなかったの。両親との思い出も全部。
そんな状態で体育館でごろ寝だけする毎日。
毛布は足りなくて、順番だった。
食べ物も、水も、全部配給。
――生きるのに必要なものが、全部誰かの判断で回ってくる。
「……その時ね」
火にくべた木が、ぱちりと弾ける。
「選ばれる側って、こういうことなんだって思ったの」
誰も、口を挟まない。
「怪我してる人、子ども、小さい子を連れた人……優先される人がいて」
当たり前のこと。
正しいこと。
「私は、中学生で、元気で、一人で」
少しだけ、笑う。
あの頃の悲しさと寂しさとやるせなさはまだずっと私の中にある。消えることは決してないのだろう。
「……常に後回しだった」
風が、焚き火の煙を揺らす。
「水も、食べ物も、あとでねって言われるの。着替えもなくて、お風呂も入れなくて」
声は穏やかだ。
でも、その奥にある温度は消えていない。
「本当は、すごく怖かったのに」
ぽつり、と落ちる。
「でも、元気だから大丈夫でしょって言われるのよ」
誰もが、息を潜めて聞いている。
「……あの時ね」
少しだけ、間。
「私、思ったの」
焚き火の火を見つめたまま。
「ああ、これで私は死ぬんだなって」
死を近くに感じて、ああ、パパとママのところに行くならせめてその前にお風呂に入って綺麗にしたいな、なんて思った。
「誰も悪くないの。ちゃんとルールがあって、ちゃんと優先順位があって、その中で精いっぱい回してた。時々、物資を盗む人もいたわ。女性にひどいことをする人も」
千里が私の隣で、ぎゅう、と自分を抱きしめる。
「……でも」
ゆっくりと顔を上げる。
「それでも、切り捨てられる側って、ああいう気持ちになるのよ」
桃ちゃんが、小さく息を呑むのがわかる。
自分が見た光景と、重なったのだろう。
「だからね」
結花は、少しだけ肩をすくめた。
「私、防災オタクになったの」
空気が、ほんの少しだけ動く。
「どんな災害が起きても、後回しにされても死なない準備を、自分でしようと思って」
乾いた笑い。
「それで防災用品の会社にも就職したの」
誰も笑わない。
笑えない。
「……でも」
そのまま、少しだけ声を落とす。
「今日の話聞いて、思った」
視線が、迦楼羅と桃ちゃんに向く。
「ちゃんと、その人たちに水と食料あげたんだなって」
桃ちゃんの肩が、ぴくりと揺れる。
「それってね、結構違うのよ」
断言する。
「ゼロと、少しある、は」
ハルの言葉を、静かに引き取る形での想い。
「ああ、完全に見捨てられたわけじゃないって思えるかどうか」
焚き火の火が、揺れる。
「それだけで、人ってもう少しだけ踏ん張れるの」
誰も、否定しない。
できない。
「……だから」
私は、最後に少しだけ笑った。
「いい判断だったと思うわよ」
優しさじゃない。
経験からの言葉。
それが、一番重い。
静かな沈黙が落ちる。
さっきまでとは違う沈黙。
重いだけじゃない。
どこか、芯が通ったような。
その中で桃ちゃんが、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか」
今度は、ちゃんと前を向いている声だった。
「あれがあの人たちの生きる力になるのなら良かった……」
桃ちゃんの声は、まだかすかに揺れていた。
でも、さっきまでのような暗い迷いではない。
ちゃんと、前を向いた揺れだった。
「……なるわよ」
隣りにいる桃ちゃんの手に自分の手を重ねる。
「少なくとも、何もなかった、よりは、ずっと。だってその人たちは、外に出られたんでしょ?それは、まだ生きる気があるってことだよ」
焚き火の火が、静かに揺れる。
「……じゃあ」
ゆっくりと、桃ちゃんが目を開く。
「次は、もう少し渡せるようにする」
小さな声。
でも、はっきりとした意思。
それは後悔じゃない。
――次に向けた選択だった。
「いいね、それ」
ハルくんが笑う。
「ゼロじゃなくて、ちょっとずつ増やしてくやつ」
「……ええ」
迦楼羅も、短く頷いた。
「余裕は作るって言ったでしょ」
視線は火に向けたまま。
でも、その声は固い。
決めた者の声だった。
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
誰も大きくは笑わない。
でもさっきまでより、ほんの少しだけ空気が軽い。
重さが消えたわけじゃない。
抱えたまま――進める形に変わっただけ。
その変化が、全員に伝わっていた。
夜は、静かに更けていく。
だがもう、その静けさは。
ただ重いだけのものじゃなかった。
私も話すことができて、少し心が軽くなったのは確かだった。




