93 台風の後
――どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
気がつくと風の音が消えていた。
耳が、痛いくらいに静かになっていた。
誰かが、そっと息を吐く。
「……止んだ?」
迦楼羅が恐る恐る言うのが聞こえた。
誰もすぐには動かなかった。
あれだけの風が、突然消えるはずがない。
そう思って、しばらく全員が耳を澄ませる。
――音は、戻ってこない。
「……朝、だな」
誰かの声。
外から、かすかに光が差し込んでいる。
夜が、終わっていた。
結局徹夜をしてしまった。
ランタンを消し、入口に貼っていたブルーシートを外すと、朝の光が差し込んできた。
台風一過とは良く言ったものだ。
真っ青な夏の空と、朝の日差しと、台風と言う猛威が振るわれた痕がそこにはあった。
折れた枝。
飛ばされた板。
転がるバケツ。
出しっぱなしにしていた倒れた自転車。
ひっくり返った道具。
台風が起こしたことが、そのまま風景として残っていた。
「……結構やられてるな」
ナオトさんが低く言う。
けれど、その声は重くない。
まだやれる、と確信している側の人間の声。
「怪我人は?」
「こっちは大丈夫!」
「こっちも子どもたち含めて全員無事だ!」
中里家から出て来た英二さんが叫ぶ。
それから次々に上がる声。
その一つ一つに、空気が少しずつ緩む。
――みんな生きている。ケガもない。
それが、まず一番大事だ。
「よし、状況確認だ」
「誰かホテル側に行って向こうの状況を確認してきて!」
「俺が行きます!」
そうして全員が動き出す。
まず、市庁舎の建物の確認。特に問題はない。
ただ、親方が、市庁舎の屋根に上がり、屋根のコンクリートの状態を見て「ちょっと水がしみそうになってる箇所がいくつかある。防水処理をしたほうがいい」と言うので任せることにした。
屋根。
壁。
畑。
そして――私がどうしても気になっていたところ。
「戸塚さんち、行きましょう」
自然と、その言葉が出た。
あそこには、守るべきものがある。
市庁舎の裏から軽トラを出す。
昨日までと同じ道。
雨でぬかるんではいたけど、水は大きくはたまっていない。
けれど、景色は少し変わっていた。
枝が落ち、葉が散り、草がなくなった道の端には海から打ち上げられたものが混ざっている。
それでも――道は、残っている。
それだけで十分だった。
坂を上り、あの家が見えたとき。
思わず、息を止めた。
「……どうだ?」
荷台で誰かが呟く。
屋根。
ブルーシート。
――外れていない。
ロープも、まだ張っている。
「……大丈夫そうだな」
ナオトさんが、安心したように言う。
その一言で、一緒に来ていた全員が一気に息を吐いた。
車を降りて、全員で裏手に回る。
草は倒れ、地面はえぐれている。
養蜂箱は――そこにちゃんと立っていた。
「……ある」
崩れていない。
石も、ロープも、そのままだ。
そして。
――中から聞こえる微かな羽音。
台風を無事に超えたのはここにいる蜜蜂たちもだ。
「……生きてる」
「うん、良かったわ。結花、あんた泣いてるわよ?」
「はは……嬉しいと泣きたくなるんだね、人間って」
迦楼羅に言われて、私は自分が泣いてることに気づいたけど、本当に本当に嬉しかったから。
けど、それでもいいと思った。
本当に嬉しかったから。
風は、全部を壊すわけじゃない。
ちゃんと守れば、残るものもある。
この三日間で、それを知った。
家も。
畑も。
そして――命も。
守れたのだから。
小さな羽音が、静かに続いている。
それは、ただの音じゃない。
これから先の、この島の生活の音だ。
養蜂箱の無事を確認して、市庁舎へ戻る。
さっきまでの静けさとは違う音が、そこにはあった。
人の声。
足音。
道具の音。
――復旧へ向かう音だ。
「屋根はあとでやる!先に倒れたやつどかせ!」
「水、こっち足りてるか!?」
「バケツ回してくれ!」
全員がもう動いている。
迷いはない。
次に進んでいる。
「結花さん!」
呼ばれて振り返ると、ホテル側から戻ってきたツバサくんが息を切らしていた。
「向こうも全員無事です!ただ……」
「ただ?」
「窓が何枚か割れてて、あとホテルの中庭のトイレが飛ばされてます!」
やっぱり、か。
「人的被害は?」
「ありません!」
その一言に、胸の奥の力が少し抜ける。
「分かった。じゃあ行きましょう」
ホテルへ向かう道は、いつもよりも荒れていた。
枝が増え、倒木もいくつかある。
山から飛んできたものがたくさん落ちていた。
けれど、通れないほどじゃない。
ホテルに着くと、向こうもすでに動いていた。
割れた窓に板を当てている人。
飛んだ物を集めている人。
中庭のトイレを直している人。
その中心に、高瀬さんがいた。
「高瀬さん、おはようございます!」
高瀬さんがこちらを振り返る。
「おはようございます、結花さん。無事で何よりです」
「そちらも」
短いやり取り。
それで十分だった。
「状況は?」
私が聞くと、高瀬さんはすぐに答える。
「人的被害はゼロです。ただ、窓ガラスが数枚破損。中庭のトイレが転がってしまってます。雨漏りなどはありませんでした」
「そうですか、大事なくて良かったです」
「はい。自然災害には逆らえないですからね。やり過ごすのが正解だと私も思います」
「ええ」
そこまで聞いて、私は一度頷く。
「こちらも市庁舎含めて大きな損壊はありません」
「はい」
「でもこれから島の被害を一つ一つ確かめる必要があります」
高瀬さんの目がわずかに動く。
「なので、お願いです。手伝ってください」
数秒の沈黙のあと。
「……この島の情報をこちらに渡しても良いと?」
静かな問いだった。
けれど、それは――とても重い言葉だ。
「渡す、というのは少し違います、共有です」
私は即答した。
「ただし条件があります」
場の空気が、少しだけ締まる。
「人員の一部をこちらに回してください。復旧と整備に人手が必要です」
高瀬さんは少しだけ考え、すぐに頷いた。
「合理的ですね。問題ありません」
「あともう一つ」
「はい」
「今回の台風で分かったと思いますが、この島では分断して生きるのは無理です」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「情報も、水も、労働力も。共有しないと、どこかが崩れたときに全体が崩れます」
まっすぐに見る。
「協力体制を、正式に組みましょう。こちらからは住む場所の提供をホテルも含め考えます」
数秒の沈黙。
風はもう吹いていない。
けれど、何かが動く気配があった。
「……いいでしょう」
高瀬さんが、はっきりと言った。
「この島で生き残るための体制として、受け入れます。まずは私から皆に説明をします」
「はい、お願いします」
それは、ただの合意じゃない。
この島にとっての――新しい形だった。
だけどまだその時の私は気づいていなかった。
鳥居に残された侵入の痕跡を。




