92 台風の準備
おそらく台風が近い、という私の予想をすぐに翌日のミーティングで言うと、今の季節を考えるとあり得る、と全員に納得してもらえた。
「天気予報って便利だったんだなぁ……」
とハルくんがため息をつく程度には、現代の気象予報の精度がうらやましくなる。
でも台風は待ってくれない。なら、対策を練るしかないじゃないか。
「中里家と、ハル君たち四人の家と、直しかけの美奈子ちゃんたちの家にはブルーシートを使いましょう。あとはこれから直す予定の戸塚さんちの家にも。あそこには養蜂箱がある。あれが壊れないように守らないと」
私の言葉に、数人が頷いた。
「蜂は風に弱い。巣箱が倒れたら、それで終わりです。作り直してまた蜜蜂が入ってくれる春を待つしかないです」
ミーティングに参加してくれた戸塚さんが静かに言う。
「じゃあ戸塚さんちの優先順位は決まりだな」
ナオトさんが指を折る。
「一つ、屋根の補強と巣箱の補強と風よけ。二つ、飛ばされるものの固定。三つ、水の排水だ」
「排水?」
誰かが聞き返す。
「大雨になると地面が水を吸いきれなくなる。低い場所は溜まるし、最悪、家に流れ込む」
「……戸塚さんの家、山の斜面でしたよね」
「ああ、それはラッキーだ。水がたまらないで済む。でも今は草がいっぱいだから滞留すると思う。だからまずは台風が来るまでに草刈だ。水の逃げ道を作る」
なるほど。
守るだけじゃなくて、流す必要があるのか。
「じゃあ、やること分けましょう」
私は手元のメモに書き出す。
「大工組は各家の屋根と壁の補強と風よけ対策。ブルーシートとロープで固定。あるだけ使ってくれていいです」
「了解」
「シゲトさんは排水路の確認と、必要なら簡易の溝掘り」
「ああ」
「農業組は畑の保護。倒れそうな支柱は補強、収穫できるものは先に収穫。鶏と山羊の避難。向こうの畑をしている人たちの分も用意してあげてください」
「分かった」
「それから――戸塚さんちの養蜂箱」
一瞬、空気が締まる。
「あれは戸塚さんと一緒に対処してください。重石を乗せるか、固定できるならベルトかロープで固定しておきたい」
「石ならいくらでもあるな」
「ロープも十分ある」
そして。
「子どもたちは、今日から三日間は全員室内待機にします。みんなで遊べないのもつらいだろうから、全員、中里さんちでいいですか?」
「ああ、構わん。台風なら、子どもたちは大人といたほうがいいからな。寝床も用意しておかないとな」
「そうだな、万が一がある」
「台風……どのくらいの規模でしょうかね?」
誰かの声に、少しだけ空気が張る。
「分かりません。でも――」
私は一度言葉を選んでから、続けた。
「屋根が飛ぶ可能性もあります。窓が割れることもあります。外に出たら、立っていられない風になるかもしれません」
予想しえる災害。台風を経験していないものは誰もいないから、どういった状況になるのか皆想像しやすい。
「だから、準備をします」
頷きが重なる。
全員が、嵐が来る前提で動き始めている。
もう、誰も状況を楽観していない。
「あと一つ、事前準備をしておいたほうがいいことがある」
ナオトさんが言う。
「明りの確保だ。夜は真っ暗になる。嵐となると、暗闇は一層濃い。明かりがないのが精神的に一番まずい」
その一言で、背筋が少し冷える。
そうだ。
電気は、当たり前じゃない。
実際、今は充電池や乾電池を使ったランタンや取り付けライトが夜の灯りのメインで、今の精いっぱいの現実だ。
「ランタンの在庫、まだあるわよね?」
「100均で買ってきた取り付け型のライトとキャンプランタンがあと10個あるわ」
と迦楼羅が物資の在庫ノートを見て確認してくれる。
「了解。じゃあ誰かお願い、高瀬さんを呼んできてくれる?」
「はい」
ツバサくんの短い返事。
すぐに高瀬さんはやってきた。
「何かありましたか?」
「あったというより、これからあります」
「え?」
「台風が来ます」
「台風……?」
「ええ。風が強くなってきていて、湿り気があります。おそらく数日以内に台風がこの島に来ます」
「……そうか。地域的に考えたら、台風の直撃コースになってもおかしくはない場所だな」
「はい。なので、今日から三日間は、台風対策に費やします。天気予報がない以上、勘で動くしかないです。なので、ホテル側のほうでも、台風対策をしてほしいんです。具体的に言うなら、まず畑を守ること。それはこちらと手分けして一緒に行いましょう。それから充電池で使うランタンを追加で配布するので、夜の明かりを増やしてください。転倒して怪我などしないように。対策が終わったら、台風が過ぎ去るまでは外に出ないようにお願いします」
「分かりました」
「台風は乗り切るものです。戦うものじゃない」
少しだけ、間を置く。
「無理はしないでください。危険だと思ったら、すぐ安全な場所に避難してください。人が一番大事です」
静かに、全員が頷いた。
その頷きは、誰か一人に従うものじゃない。
――この島で、生き残るための合意だった。
それからの三日間は、ほとんど記憶がない。
朝から晩まで、全員が動き続けた。
屋根に上がり、釘を打つ音。
ロープを引く声。
ブルーシートが風に鳴る。
――一日目。
大工組が各家を回り、屋根を覆い、飛びそうな場所を打ち付けていく。
ナオトさんたちはスコップを手に、戸塚家の周囲に溝を掘る。草刈も並走。みるみるうちに地面が見えてくる。
土は固く、思うように進まない。
それでも、止まらない。
農業組は畑を回り、支柱を立て直し、倒れそうなものから収穫していく。
鶏は小屋へ。山羊は風の当たりにくい場所へ移動。
ソーラーパネルと蓄電器を使って、充電池への充電を満タンにしてランタンとライトにセットしていく。
それをホテル側とこちらで分けていく。
充電池を満タンにしておけば、半日くらいは使える。一応、それなりに数はあるので、いざと言うときの交換用も渡しておいた。
子どもたちは中里家に集められ、最初は不満そうだったが――やがて、誰かが持ち込んだトランプで騒ぎ始めた。
笑い声が、かすかに聞こえる。
晴れてはいるけど、少し雲が多くなってきた。
――二日目。
朝から、ずっと生ぬるい風が吹いている。
肌にまとわりつくような空気。
空は晴れているのに、雲が昨日より多くなってきた。
海を見ると、打ち寄せる波が高くなってきているように見えた。
「急げ」
誰かが言う。
言われなくても、全員が分かっていた。
戸塚さんの家では、養蜂箱に石を積み、ロープで固定する。
慎重に、でも急いで。
箱の中から、わずかな羽音がした。
――守らないといけない。
それが、全員の共通認識になっていた。
水も確保する。
湧き水は飲用として多めに汲んでおく。
使えるバケツも、鍋も、全部使う。
市庁舎のほうでも水は生活水も含めて最大限に確保。ホテル側でも水の確保は最優先にしてもらった。
畑のほうは、支柱を立てて防風ネット代わりのブルーシートを固定する。
夜。
ランタンの明かりが、いつもより多く灯る。
その分、影も濃い。
――三日目。
朝から風が強い。
ブルーシートが大きく鳴る。
ばたん、ばたん、と不安な音。
海の音が、近い。
波が砕ける音が、いつもより重く白波は高い。
海には近寄らないように通知を出した。
空を流れる雲が速いのがよくわかる。
「……今夜あたり来るな」
ナオトさんが言う。
誰も否定しない。
最後の確認作業をそれぞれ始める。
ブルーシートとロープの締め直し。
戸締まり。窓の補強。
飛びそうなものの最終撤去。
子どもたちは、すでに中里家に集められている。
外に出る人間は、最小限。
夕食はホテル側にもこちら側にも野菜と味噌のすいとんを作った。
まだ明るいうちに夕食を済ませることにして、夕食後は中里家と子どもたち以外は市庁舎に集まった。
そして――夕方。
風が、一段と強くなった。
音が変わる。
ただの風じゃない。
押してくる。
叩きつけてくるような勢いがある。
その最初の一撃で。
バンッ!!
何かがぶつかる音がした。
全員の動きが、一瞬止まる。
「どこだ!?」
「表だ!」
「ダメだ、危ない、出るな!」
「確認は明日の朝でいいわ、今日はとにかく台風をやり過ごすのが最優先よ」
建物の向こうでは風が渦巻いている音がする。
この災害は戦えない災害だ。だから過ぎるのを待つのが一番だ。
分かっている。
頭では、全員が理解している。
それでも――風は、容赦なく叩きつけてくる。
ミシ、とどこかで軋む音。
入口に貼ってあるブルーシートが裂けそうなほど鳴る。
建物全体が、わずかに震えているのが分かる。
外は、もう見えない。
音だけが、すべてを支配している。
ゴウ、と唸る風。
何かが転がる音。
どこかで、何かが壊れる音。
――それでも。
誰も、外に出ようとは言わなかった。
全員が知っている。
今は動くな。
今は耐えろ。
それが、生き残るための唯一の選択だと。
ランタンの灯りが、わずかに揺れる。
その小さな光の中で、誰もが息を潜めていた。
ただ――嵐が過ぎるのを、待ちながら。




