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伝書人は今日も旅をする  作者: 金麦
第一部 風の向こうへ
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8/30

第8話 雨宿りの夜



 翌朝。


 カナタは、窓を叩く雨音で目を覚ました。


「……雨か」


 昨日までとは違う。


 空は灰色に覆われ、窓の向こうには細かな雨が降り続いている。


 カナタはベッドから起き上がった。


 まだ少し眠い。


 けれど、今日は昨日とは違う。


 自分から魔導灯をつけてみようと思った。


「……よし」


 ベッドから降りる。


 壁際の魔導灯へ向かう。


 手を伸ばす。


 昨日、リーゼから教えてもらった感覚を思い出す。


 大量に流さない。


 ほんの少し。


 蛇口を少しだけ開くように。


 カナタはゆっくり息を吸った。


 そして。


 吐く。


「……」


 手のひらへ意識を集中する。


 自分の中にある巨大な力。


 そのほんの一欠片だけを取り出す。


 魔石が――


 淡く光った。


「……ついた」


 カナタは思わず笑った。


「できた」


 昨日までできなかったこと。


 たったそれだけ。


 それでも、嬉しかった。


「カナタ」


 扉の向こうから声がする。


「起きていますか?」


「起きてる」


 扉を開ける。


 そこにはリーゼが立っていた。


 今日も少し眠そうだ。


 髪もほんの少しだけ乱れている。


「おはよう、リーゼ」


「おはようございます、カナタ」


「今日も眠そう」


「……雨の日は、少し眠くなるんです」


「雨の日も?」


「はい」


「じゃあ、リーゼは晴れの日しか元気じゃないの?」


「そんなことはありません」


 リーゼは眠そうな目で言い返す。


「仕事になれば、ちゃんとします」


「それは知ってる」


 カナタが笑う。


 リーゼは少しだけ頬を膨らませた。


「ところで」


「ん?」


「魔導灯、ついてますね」


「ああ」


「自分で?」


「うん」


 リーゼが目を見開く。


「本当ですか?」


「見れば分かるだろ」


「昨日まで、まったくできなかったのに」


「ちょっとだけコツが分かった」


 カナタが魔石を指差す。


「蛇口みたいに、少しだけ出す感じ」


「なるほど」


 リーゼが嬉しそうに微笑む。


「上達しましたね」


「やった」


「では、次は消してみましょう」


「それはできる」


 カナタが器具の下にある刻印へ触れる。


 魔導灯が消える。


「完璧です」


「よし」


 リーゼが笑う。


「では、今日は水回りも一人でできるか試してみましょう」


「分かった」


 二人は一階へ降りる。


 朝食を取っている間も、雨は降り続いていた。


「今日は雨が強くなりそうだね」


 セレナが窓の外を見ながら言う。


「そうですね」


 リーゼも空を見る。


「今日は遠くへ行く予定はありませんが、念のため雨具を持っていきましょう」


「雨具?」


「伝書人用の外套です」


「なるほど」


 食事を終える。


 二人は宿を出た。


 外は思った以上に寒かった。


 雨が石畳を濡らしている。


 人通りも昨日より少ない。


「今日も仕事?」


「はい」


 リーゼは当然のように答える。


「手紙は、天気を待ってくれませんから」


「なるほど」


 カナタは少し感心した。


 伝書人は、雨だから休みというわけではない。


 誰かが待っている限り。


 届けるべき手紙がある限り。


 仕事は続く。


 伝書院へ到着する。


 中へ入ると、いつもとは少し違う空気が流れていた。


 職員たちが忙しそうに動いている。


 机の上には、普段より多くの手紙が積まれていた。


「雨で遅れている便があるんです」


 リーゼが説明する。


「街道を使う伝書人が、いくつか足止めされています」


「そういうこともあるのか」


「はい」


 カナタは積まれた手紙を見る。


「今日は大変そうだな」


「そうですね」


 リーゼが袖をまくる。


「頑張りましょう」


「おう」


 午前中。


 二人は分類作業を続けた。


 雨のせいで仕事量が多い。


 届いた手紙を整理する。


 遅れて届いた荷物を確認する。


 行き先を再確認する。


 カナタも少しずつ慣れてきていた。


「これは北部」


「正解です」


「こっちはエルナ地区」


「はい」


「これは……西側」


「正解です」


「だいぶ覚えてきたな」


「はい」


 リーゼは嬉しそうだった。


「この調子なら、もう少し複雑な分類も任せられそうです」


「ほんと?」


「はい」


「じゃあ頑張る」


 そのとき。


 伝書院の奥から、一人の職員が出てきた。


「リーゼ」


「はい?」


「院長がお呼びです」


 リーゼの手が止まる。


「……院長が?」


「はい。カナタさんも一緒に」


 カナタは顔を上げた。


「俺も?」


「はい」


 職員は少し緊張した様子だった。


「二人とも、執務室へ来てください」


「分かりました」


 リーゼはカナタを見る。


「行きましょう」


「……何かしたかな」


「たぶん、そういう話ではないと思います」


「でも、伝書院の院長なんだろ?」


「はい」


「どんな人?」


 リーゼは少し考えた。


「厳しい方ではあります」


「怖い?」


「怖い……というより」


 リーゼは言葉を選んだ。


「よく見ている方です」


「何を?」


「人を」


 その一言だけだった。


 二人は伝書院の奥へ進む。


 普段は職員しか入らない区画。


 廊下の壁には、古い伝書人たちの記録や、歴代の伝書院長の肖像画が飾られている。


 その中でも、一枚だけ。


 妙に古びた額縁があった。


 描かれているのは、一人の女性。


 白い髪。


 長い外套。


 胸元には、銀色の徽章。


「……この人、誰?」


 カナタが立ち止まる。


「初代院長です」


 リーゼが答えた。


「名前はエレナ・リューネ」


「初代?」


「はい」


「どんな人だったの?」


「最初の伝書人の一人だと言われています」


 リーゼは少しだけ声を落とした。


「今の伝書院の制度を作った人物でもあります」


「へえ」


 カナタは肖像画を見つめる。


 なぜか胸元の青い羽根が、ほんの少しだけ熱を持った。


「……」


 カナタは無意識に胸元を押さえる。


「カナタ?」


「いや、何でもない」


 羽根はすぐに冷たく戻った。


「行きましょう」


「うん」


 二人は執務室の前へ到着する。


 リーゼが扉を叩く。


「リーゼ・アルヴァリアです。カナタを連れて参りました」


「入りなさい」


 落ち着いた女性の声が返ってきた。


 リーゼが扉を開ける。


 部屋の奥。


 大きな机の向こうに、一人の女性が座っていた。


 年齢は四十代半ばほど。


 黒に近い茶色の髪を後ろでまとめている。


 眼鏡の奥から、静かな瞳がこちらを見つめていた。


 派手な装飾はない。


 だが、胸元には銀色の徽章がついている。


「初めまして」


 女性が言う。


「私が伝書院院長、セレフィナ・アルヴァリアです」


「……」


 カナタは少し驚いた。


 リーゼの姓と同じ。


 それに気づいたのか、セレフィナが微笑む。


「リーゼと同じ姓なのが気になりますか?」


「え?」


 リーゼを見る。


 リーゼは少し困ったような顔をした。


「院長は、私の叔母です」


「叔母さん?」


「はい」


「そうだったの?」


「まだ話していませんでしたね」


 リーゼは少し申し訳なさそうに言った。


「必要があるまでは、話さなくてもいいと思っていましたので」


「そうですか」


 セレフィナが小さく笑う。


「リーゼは昔からそういうところがあります」


「どういうところ?」


「自分のことをあまり話さないところです」


「……叔母様」


 リーゼが少しだけ頬を膨らませる。


「仕事中です」


「分かっています」


 セレフィナは笑った。


「今日はあなたたちに聞きたいことがあります」


 カナタが椅子に座る。


「俺に?」


「はい」


 セレフィナは机の上に一枚の書類を置いた。


「昨日、魔法適性の測定を行いましたね」


「うん」


「結果を確認しました」


「……」


 カナタは少し身構える。


「測定不能」


 セレフィナが静かに言った。


「魔力量が測定器の上限を超えたそうですね」


「はい」


 リーゼが答える。


「二つの器具で確認しましたが、どちらも正常な測定ができませんでした」


「そうですか」


 セレフィナはカナタを見る。


「カナタさん」


「はい」


「あなた自身は、自分の魔力量についてどう思っていますか?」


「正直、よく分からない」


「そうでしょうね」


「俺、昨日まで魔法なんて使ったことなかったし」


「それも聞いています」


 セレフィナは書類を閉じた。


「だから、今日は一つだけ伝えておきます」


「何?」


「あなたの魔力は、現在の伝書院が確認している中でも、極めて異常な規模です」


「……」


「ただし」


 セレフィナは続ける。


「それだけで、あなたを危険人物と判断するつもりはありません」


 カナタは少し驚いた。


「いいの?」


「力の大きさと、その人が何をするかは別です」


 セレフィナは穏やかに言った。


「今のあなたは、魔力を持て余しているだけです」


「……その通りだと思う」


「ならば、必要なのは監視だけではありません」


 セレフィナはリーゼを見る。


「教える人間が必要です」


「はい」


 リーゼが頷く。


「私が引き続き担当します」


「お願いします」


 セレフィナは一度だけ頷いた。


「ただし、カナタさん」


「うん」


「あなたの魔力については、しばらく外部へ漏らさないようにします」


「ありがとう」


「理由は二つあります」


「二つ?」


「一つは、あなた自身を守るため」


 セレフィナの目が鋭くなる。


「もう一つは、伝書院としてあなたを不用意に利用しないためです」


「利用しないため?」


「はい」


 セレフィナは机の上の書類を指で整えた。


「巨大な魔力を持つ者を、国や軍が知れば、何らかの利用を考えるでしょう」


「軍……」


「魔法兵として。


 兵器として。


 あるいは、研究対象として」


 カナタの顔が曇る。


「俺、戦争なんかしたくない」


「そうでしょうね」


 セレフィナは静かに答えた。


「あなたが望まない限り、伝書院はあなたを戦うための道具にはしません」


 カナタは黙った。


 その言葉は、不思議と信じられた。


「ただし」


 セレフィナは少しだけ表情を緩める。


「伝書人として力を使うことは、勧めます」


「伝書人として?」


「はい」


「魔法を?」


「伝書人の仕事には、魔法が役立つ場面が多くあります」


 セレフィナは説明する。


「遠距離通信。


 結界。


 天候への対策。


 荷物の保護。


 治癒。


 街道の安全確保」


「そんなに?」


「伝書人は、手紙を持って歩くだけではありません」


 セレフィナは静かに言った。


「人と人を繋ぐために、必要なことを何でもします」


 カナタはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


「それなら、覚えてみたい」


「そう言うと思っていました」


 セレフィナも微笑む。


「リーゼ」


「はい」


「彼を頼みます」


「分かりました」


「魔法だけではありません」


 セレフィナはカナタを見る。


「この世界のことも、伝書人のことも教えてあげてください」


「はい」


「そして、必要以上に急がせないこと」


 リーゼが少し驚く。


「はい」


「彼はまだ、この世界へ来て数日なのでしょう?」


「……はい」


「なら、知らないことが多くて当然です」


 セレフィナはカナタへ向き直った。


「焦る必要はありません」


「分かった」


「一つずつ覚えてください」


 その言葉に、カナタは頷いた。


「ありがとうございます」


「それから」


 セレフィナが一枚の紙を取り出した。


「もう一つ、気になることがあります」


「何?」


「この印です」


 紙に描かれていたのは――


 青い羽根を二枚重ねたような紋章。


 カナタは息を止めた。


「……これ」


「見覚えがありますね?」


「うん」


 リーゼも紙を見る。


「例の封蝋ですね」


「はい」


 セレフィナの表情が変わった。


「昨日の手紙にも、この印があったと聞いています」


「そう」


「そして、カナタさんが持つ羽根にも似た形がある」


「……」


「偶然だと思いますか?」


 カナタは答えられなかった。


 セレフィナは少しだけ沈黙したあと、紙を伏せた。


「今は、答えを求めません」


「え?」


「まだ情報が少なすぎます」


 セレフィナは落ち着いた声で言った。


「伝書院には、百年以上前から断片的にこの印に関する記録があります」


「百年……」


「ただし、どれも断片的です」


 セレフィナは窓の外を見る。


 雨が静かに降り続いている。


「だから、今は調べません」


「どうして?」


「知らないことを、知らないままにしておくことも大切だからです」


 セレフィナはそう言った。


「特に、あなたがまだ何も知らない今は」


 カナタはその意味を考えた。


「……分かった」


「では、今日はこれで」


 二人が立ち上がる。


 そのとき。


「院長」


 カナタが振り返る。


「ん?」


「一つ聞いていい?」


「どうぞ」


「初代院長のエレナって人」


 セレフィナの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「何ですか?」


「さっき肖像画を見た」


「そうですか」


「あの人って、最後に何をしたの?」


 セレフィナはすぐには答えなかった。


 ほんの数秒。


 沈黙が流れる。


「……伝書人として、最後の仕事をしました」


「どこへ?」


「記録には残っていません」


「また?」


 カナタは思わず呟いた。


 セレフィナはそれを聞いて、微かに笑った。


「そうです」


「最後の手紙は?」


「ありません」


「どうして?」


「分かりません」


 セレフィナは机の上で静かに指を組んだ。


「エレナは、その手紙を届けたあと、戻ってきませんでした」


 カナタの胸元で、青い羽根が一瞬だけ熱を持つ。


 だが。


 今度は光らなかった。


「……失踪した伝書人?」


 リーゼが呟く。


「はい」


 セレフィナが答える。


「あなたが昨日聞いた記録と、同じ話です」


 カナタは息を呑んだ。


「じゃあ、その人が……」


「同一人物かどうかは、まだ分かりません」


 セレフィナは静かに首を横に振った。


「伝書院には、似たような記録がいくつかあります」


「……」


「ですが」


 セレフィナはカナタを見る。


「今は、これ以上話さないほうがいいでしょう」


「なんで?」


「あなたが知らないほうがいいから、ではありません」


 セレフィナは微笑んだ。


「あなた自身の旅の中で、いずれ知ることになるからです」


 その言葉が、妙に心に残った。


 執務室を出る。


 扉が閉まる。


 廊下へ戻ったカナタは、しばらく黙っていた。


「……すごい人だったな」


「院長ですか?」


「うん」


「昔からああいう方です」


「リーゼの叔母さんなんだよな」


「はい」


「似てるところある?」


「……どうでしょう」


「あると思うけど」


「ありません」


「即答だな」


 リーゼは少しだけ笑った。


「ただ、昔から人を見る目はすごい方です」


「俺のことも?」


「はい」


「怖い?」


「少し」


「やっぱり?」


「でも、信頼できる方です」


 その言葉には、迷いがなかった。


 午後。


 雨はさらに強くなっていた。


 そのため、遠方への伝書はほとんど延期になっている。


 しかし、街の中で届けられるものは残っていた。


「カナタ」


「ん?」


「一通だけ、近くへ届けます」


「雨の中?」


「はい」


「分かった」


 リーゼが外套を渡す。


「これを着てください」


「ありがとう」


 二人は雨の街へ出た。


 目的地は、街の北側。


 古い工房だった。


「ここです」


 扉を叩く。


 中から老人が出てくる。


「伝書院か」


「はい。手紙をお届けします」


 老人は封筒を受け取った。


 そして。


「……息子からだ」


 その顔が柔らかくなる。


「ありがとうございます」


 リーゼは頭を下げる。


 カナタも一緒に頭を下げた。


 帰り道。


 雨はさらに激しくなっていた。


「少し待ちましょう」


 リーゼが言う。


「どこで?」


「向こうに古い屋根があります」


 二人は街角の屋根の下へ入る。


 雨音が激しく響いている。


「すごいな」


「はい」


 リーゼは外套についた雨粒を払った。


「こういう日は、街道へ出ないほうが安全です」


「伝書人も?」


「もちろんです」


「でも、手紙が待ってる」


「待っているからこそ」


 リーゼは雨の向こうを見る。


「無理をして事故に遭えば、手紙を届ける人がいなくなりますから」


「なるほど」


 カナタは少し笑った。


「やっぱりリーゼは伝書人だな」


「どういう意味ですか?」


「ちゃんと自分のことも考えてる」


「当たり前です」


「でも、朝は弱い」


「……」


「鍵も忘れる」


「……カナタ」


「練習用の紙も忘れた」


「それは……」


 リーゼは黙った。


「……今日は忘れていません」


「持ってきた?」


「はい」


「すごい」


「普通です」


 二人で笑った。


 しばらくして。


 雨が少し弱くなった。


「戻りましょう」


「うん」


 伝書院へ戻る。


 夕方。


 今日の仕事が終わる。


 外へ出ると、まだ雨は降っていた。


「今日は長かったな」


「そうですね」


「院長にも会ったし」


「はい」


「エレナって人のことも聞いた」


「……はい」


 リーゼは少し考えた。


「カナタ」


「ん?」


「院長が言ったことは、今は気にしすぎないでください」


「分かってる」


「この世界には、まだカナタが知らないことがたくさんあります」


「うん」


「一つずつでいいんです」


「……それ、今日二回目だな」


「大切なことですから」


 月影亭へ戻る。


 夕食を食べる。


 リーゼは温かいスープを飲みながら、ほっと息を吐いた。


「雨の日は疲れますね」


「リーゼでも?」


「もちろんです」


「仕事中は平気そうだった」


「仕事ですから」


「すごいな」


「カナタも頑張っていましたよ」


「俺はまだ補助だけど」


「それでもです」


 食事を終える。


 二階へ上がる。


 カナタは部屋の魔導灯へ向かった。


 昨日なら、リーゼに頼んでいた。


 今日は違う。


 手を伸ばす。


 魔力をほんの少し。


 魔導灯が光る。


「……できた」


「おめでとうございます」


 後ろからリーゼの声。


「見てたの?」


「はい」


「いつから?」


「最初からです」


「言ってくれればいいのに」


「自分でできたほうが嬉しいでしょう?」


「まあ」


 カナタは笑う。


「やっぱり、少しずつできるようになるんだな」


「はい」


 リーゼも微笑んだ。


「魔法も、仕事も」


「うん」


「旅も」


 その言葉に、カナタは少しだけ黙った。


 旅。


 それは、元の世界で好きだったもの。


 そして今は、この世界で続けることになるかもしれないもの。


「いつか、もっと遠くへ行ってみたい」


 カナタが言った。


「伝書人として?」


「うん」


 リーゼは少し驚いた顔をした。


 それから。


「そのときは、私も一緒に行きます」


 静かに答えた。


「……本当に?」


「はい」


「大変だぞ」


「伝書人ですから」


 リーゼは笑った。


「どこへでも行きます」


 カナタはその言葉を聞いて、なぜか胸が温かくなった。


「じゃあ、よろしく」


「こちらこそ」


 その夜。


 カナタはベッドに横になった。


 雨音が、まだ窓の外で続いている。


 伝書院院長。


 セレフィナ・アルヴァリア。


 初代院長、エレナ・リューネ。


 失踪した伝書人。


 白い封蝋。


 青い羽根。


 そして、自分の中に眠る巨大な魔力。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 何かが繋がり始めている気がする。


 けれど、まだ答えを求める必要はない。


 今は、手紙を届ける。


 仕事を覚える。


 魔法を練習する。


 そして。


 隣の部屋にいるリーゼと一緒に、少しずつ旅を覚えていく。


 カナタは目を閉じた。


 雨音が、遠くなる。


 そのとき。


 隣の部屋から、小さな物音がした。


「……?」


 カナタが耳を澄ます。


 ――ガタン。


「リーゼ?」


 返事はない。


「リーゼ?」


 カナタは部屋を出た。


 隣の扉を軽く叩く。


「大丈夫?」


「……はい」


 少し間を置いて返事が来る。


「何か落とした?」


「……少しだけ」


 扉が開く。


 リーゼが立っている。


 髪は乱れ、手には床に落ちた本。


「本を落としました」


「そっか」


「はい」


「もう寝る?」


「そのつもりです」


「じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい、カナタ」


 扉が閉じる。


 カナタも自分の部屋へ戻る。


 そして、もう一度ベッドへ横になる。


 雨はまだ降っていた。


 その音を聞きながら。


 カナタは思った。


 この世界へ来てから、まだ一週間も経っていない。


 それなのに。


 知らない世界で。


 知らない仕事を覚えて。


 知らない魔法を覚えて。


 隣の部屋には、もう一人。


 少し朝が苦手で。


 仕事以外では少し抜けていて。


 それでも、伝書人としては誰より真面目な女性がいる。


 リーゼ。


 彼女と一緒なら。


 この世界を、もっと知っていける気がした。


 窓の外。


 雨雲の向こうに、わずかな月明かりが見えた。


 そして。


 机の上に置かれた青い便箋の中で。


 青い羽根が、ほんの一瞬だけ震えた。


 羽根の根元に浮かんでいた細い青い線が、昨日より少しだけ長くなっている。


 その線は。


 まるで、どこか遠くへ続く道のようだった。


 ――雨が上がれば、また旅が始まる。


 そしてその先には。


 まだ誰も知らない、一通の手紙が待っている。


 カナタはそれを知らない。


 リーゼも知らない。


 ただ。


 伝書院の最深部にある古い記録庫で。


 一冊の記録帳が、誰にも触れられていないのに静かに開いていた。


 そこに記されている名前は――


 『エレナ・リューネ』


 その最後の記録の下。


 百年以上前に消えたはずの青い羽根の紋章が。


 薄暗い魔導灯の下で、静かに浮かび上がっていた。

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