第7話 十年越しの手紙
朝。
カナタは、何かが扉を叩く音で目を覚ました。
「……ん?」
まだ眠い。
窓から差し込む光も、ぼんやりしている。
カナタは布団の中でもぞもぞと動いた。
もう少しだけ寝ていたい。
そんな気持ちを抱えたまま、もう一度目を閉じようとする。
――コン、コン。
「カナタ」
今度は、はっきり声がした。
「……リーゼ?」
「はい。起きていますか?」
「起きてる……」
「本当ですか?」
「起きてるって……」
「では、扉を開けてください」
「……今?」
「はい」
カナタは重い体を起こした。
髪は寝癖だらけ。
まだ頭も働いていない。
ふらふらしながら扉を開ける。
「おはよう、リーゼ」
「おはようございます、カナタ」
そこにいたリーゼも、どこか眠そうだった。
髪が少し乱れている。
普段の伝書人としてのきっちりした姿とは違う。
「……リーゼも眠そうじゃん」
「そんなことありません」
「いや、眠そう」
「私はいつも通りです」
「目、半分しか開いてないけど」
「……」
リーゼは一度、目をこすった。
「……少しだけ眠いです」
「やっぱり」
「朝は、少し苦手なんです」
「昨日もそんな感じだったよな」
「昨日?」
「夕食のとき、眠そうだった」
「……覚えていません」
「え?」
「食事をしたことは覚えています」
「そこじゃなくて」
リーゼは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「朝は、あまり得意ではないんです」
「伝書人なのに?」
「仕事では問題ありません」
「仕事では?」
「はい」
「普段は?」
「……少し、抜けているかもしれません」
本人が認めた。
カナタは思わず笑ってしまう。
「何がおかしいんですか?」
「いや。なんか安心した」
「何にですか?」
「リーゼにも苦手なものがあるんだなって」
「私だって人間ですから」
「そりゃそうか」
リーゼは小さくため息をついた。
「それより、早く支度してください。今日は魔法の練習もありますから」
「あ、そうだった」
カナタは部屋へ戻る。
服を着替え、顔を洗う。
昨日教えてもらった魔導灯をつけようとして――
「……」
当然のように点かなかった。
「やっぱり駄目か」
昨日と同じ。
魔石に手を当てても、何も起きない。
「カナタ?」
廊下からリーゼの声がする。
「今行く」
カナタは諦めて部屋を出た。
リーゼが待っている。
その手には、自分の伝書鞄があった。
「それ、俺の?」
「はい」
「あれ?」
「昨夜、部屋の隅に置いたままでしたよ」
「……あ」
「忘れていたんですね」
「完全に忘れてた」
「やっぱり、私が確認しておいてよかったです」
「ありがとう」
「いえ」
リーゼは少しだけ胸を張った。
しかし、その直後。
「……あれ?」
「どうした?」
「私の鍵がありません」
「鍵?」
「部屋の鍵です」
リーゼがポケットを探す。
ない。
反対側のポケット。
ない。
鞄の中。
ない。
「……」
「リーゼ?」
「少々お待ちください」
今度は机の上を見る。
何もない。
「昨日の夜は?」
「……持っていたと思います」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって」
リーゼはしばらく考えた。
「あ」
「見つかった?」
「……部屋の中です」
「なんで?」
「寝る前に、机の上に置いたままにしたようです」
「鍵を?」
「はい」
「じゃあ、取りに戻らないと」
「……はい」
リーゼは部屋へ戻る。
カナタは廊下で待つ。
しばらくすると、リーゼが戻ってきた。
手には鍵。
「ありました」
「よかったな」
「はい」
「……伝書人としては大丈夫なの?」
「仕事では忘れません」
「そこは即答なんだ」
「はい」
リーゼは真面目な顔で答えた。
「仕事と私生活は別です」
「なるほど」
二人は階下へ降りた。
食堂には、朝食が用意されていた。
「おはよう、リーゼ。カナタ」
セレナが声をかける。
「おはようございます」
「おはようございます」
二人で席につく。
焼いたパン。
卵料理。
温かいスープ。
簡単だが、朝にはちょうどいい。
リーゼはスープを一口飲んだ。
「……」
「どうした?」
「美味しいです」
「眠そうだけどな」
「……カナタ」
「ん?」
「朝からあまり私を観察しないでください」
「だって分かりやすいから」
「何がですか?」
「普段との違い」
リーゼは少し頬を膨らませた。
「仕事中は、ちゃんとしてます」
「知ってる」
「ならいいじゃないですか」
「うん」
カナタは笑った。
「こういうリーゼも、ちょっと面白いけど」
「……褒められている気がしません」
セレナが二人を見て笑っている。
「仲良くなったねえ」
「そうですか?」
リーゼが首を傾げる。
「うん」
「……そう見えるなら、よかったです」
カナタは少しだけ照れた。
食事を終える。
今日も伝書院へ向かう。
昨日と同じ道。
けれど、昨日とは少しだけ違って見えた。
昨日覚えた道が、頭の中に残っている。
角を曲がる。
大きな時計塔。
市場。
水場。
細い路地。
カナタは自然と道を確認していた。
「覚えてますね」
リーゼが言う。
「何が?」
「昨日歩いた道です」
「ああ」
「もう迷わなそうですね」
「一度歩いた道なら、だいたい」
「やっぱり旅人ですね」
「それ、昨日も言ってた」
「今日も思ったので」
伝書院に到着する。
昨日と同じように、職員たちが仕事をしている。
「おはようございます」
「おはよう」
リーゼが挨拶をすると、何人かの職員が返事をする。
カナタに向けられる視線は、まだ完全には柔らかくなっていない。
だが、昨日よりも少しだけ違った。
露骨に警戒する者が減っている。
昨日、一緒に仕事をしていた姿を見たからかもしれない。
「今日は、午前中に分類をお願いします」
「分かった」
「その後、魔法の確認があります」
「昨日言ってたやつ?」
「はい」
「正式に調べるの?」
「一度、測っておいたほうがいいと思います」
リーゼは少し真面目な顔になった。
「カナタの魔法については、まだ分からないことが多いですから」
「そんなに?」
「はい」
「でも昨日、ほとんど使えなかったぞ」
「だからこそです」
リーゼはそう言って、少し考える。
「使えない理由が、適性なのか、制御の問題なのか。それを確認します」
「なるほど」
午前中。
昨日と同じように手紙を分類する。
最初は苦戦した。
しかし昨日よりは明らかに早い。
「北部」
「正解です」
「西部」
「正解です」
「これは国外」
「はい」
「……覚えてきた」
「上達が早いですね」
「昨日、一日やったからな」
「それでもです」
カナタは少し嬉しくなる。
手紙を分ける。
荷物を確認する。
宛先を確かめる。
時々、リーゼに質問する。
そんな時間が続いた。
やがて昼前。
リーゼが立ち上がる。
「では、魔法の確認へ行きましょう」
「いよいよか」
「はい」
伝書院の奥。
普段の職員が使う場所とは少し離れた一室へ向かう。
そこには、いくつかの魔石と、見たことのない器具が並んでいた。
「ここは?」
「魔法適性を確認する部屋です」
「病院みたいだな」
「病院?」
「いや、こっちの話」
部屋の中央には、大きな透明な結晶が置かれている。
結晶の周囲には、細かな魔法陣が刻まれていた。
「これに触れてください」
リーゼが指示する。
「分かった」
カナタは結晶に手を置いた。
「力を入れなくて大丈夫です」
「昨日みたいに?」
「はい。自然に魔力を流してください」
「……それができないんだけど」
「では、昨日と同じように試してみましょう」
カナタは目を閉じた。
呼吸を整える。
体の中にある何かを探す。
昨日、リーゼの手を通して感じたもの。
温かい流れ。
自分の中にも、確かに何かがある。
それを外へ出そうとする。
「……」
何も起きない。
「やっぱり駄目だ」
「焦らなくて大丈夫です」
リーゼが隣から声をかける。
「もう一度」
カナタは集中する。
ほんの少しだけ。
手のひらから外へ流す。
その瞬間。
結晶が、淡く光った。
「……光った」
リーゼが目を見開く。
だが。
次の瞬間。
結晶全体が激しく明滅した。
「え?」
魔法陣が一斉に光る。
床が微かに震えた。
「カナタ、手を離してください!」
「え?」
「早く!」
カナタが慌てて手を離す。
光が一度、強く弾けた。
そして。
静かになる。
「……」
「……」
二人とも、しばらく動かなかった。
「今の……何?」
カナタが聞く。
リーゼは答えない。
結晶を見つめている。
「リーゼ?」
「……測定結果が出ていません」
「壊れた?」
「分かりません」
リーゼが器具を確認する。
魔法陣。
結晶。
表示板。
どれも異常な反応を示している。
やがて、表示板に文字が浮かんだ。
――測定不能。
「測定不能?」
カナタが読む。
「はい」
「つまり?」
リーゼは黙っていた。
「リーゼ?」
「……魔力量が、測定器の想定範囲を超えています」
「……え?」
「もう一度、確認します」
別の器具を持ってくる。
先ほどより小型だ。
「こちらでも測ります」
「分かった」
カナタが手を置く。
今度はリーゼが少し離れている。
「ゆっくりで大丈夫です」
カナタは魔力を流す。
すると。
小型の魔石が、一瞬で強い光を放った。
直後。
魔石に細かな亀裂が走る。
「……」
「……」
カナタが手を離す。
「壊れた?」
「……はい」
「これ、俺が?」
「そうだと思います」
「そんなに力入れてないぞ?」
「分かっています」
リーゼの声が少し震えていた。
カナタは結晶を見る。
「じゃあ、俺って魔力が多いの?」
「多い、という表現では足りないかもしれません」
「どういうこと?」
「普通の人が川だとしたら……」
リーゼは言葉を探した。
「カナタは、湖……いえ」
一度、言葉を止める。
「それでも足りません」
「……」
「少なくとも、私が知っている範囲では、これほど大きな魔力を持つ人を見たことがありません」
リーゼはそう言いながら、カナタの手を見つめていた。
先ほど、ほんのわずかに触れただけだった。
それなのに、測定器は耐えきれず、魔石には亀裂が走った。
しかも、カナタ本人には、力を込めたつもりがない。
その事実が、リーゼの胸に重くのしかかる。
これは単に「魔力が多い」という話ではない。
扱いを誤れば、本人の意思とは無関係に周囲を巻き込むほどの力だ。
それほどの魔力が、カナタの中には眠っている。
「俺、そんなに?」
「はい」
リーゼはすぐには目を逸らせなかった。
「想像していたよりも、ずっと……」
カナタの手を見つめているうちに、リーゼの指先がわずかに熱を持った。
実際に触れたのは一瞬だった。
それなのに、指先にはまだ、あの魔力の感触が残っている。
冷たい結晶に触れたはずなのに、手のひらの奥には柔らかな熱が宿っていた。
その熱はゆっくりと腕を上り、胸の奥へ広がっていく。
まるで、カナタの魔力が触れた場所を覚えていて、そこから再び滲み出してくるようだった。
「……」
リーゼは無意識に手を握った。
すると、指の間に残っていた感覚が、かすかに蘇る。
深く、濃く、どこまでも続く力。
それなのに、触れた瞬間に押しつけられるような重さはなかった。
むしろ、温かな水に指を浸したような、くすぐったい感覚だけが残っている。
そのことに気づいた途端、リーゼの身体が内側から火照った。
「でも、魔導灯つけられない」
「そこが問題なんです」
リーゼは慌てて視線を結晶へ戻した。
「魔力量と、魔法を扱う技術は別です」
「別?」
「はい」
リーゼは説明する。
「たとえば、水が大量にあるとしても、細い管へ流すには調整が必要です」
「なるほど」
「カナタの場合、その水の量が多すぎるんです」
「だから、うまく流せない?」
「おそらく」
リーゼはそう答えながら、先ほどカナタの手から感じた気配を思い出していた。
あれは、ただ濃いだけの魔力ではなかった。
触れた瞬間、底が見えないほど深く、どこまでも続いているように感じた。
自分がこれまで触れてきた魔力とは、密度も広がりもまるで違う。
それなのに、荒々しく押し寄せてくるわけではない。
眠っている。
静かに。
あまりにも大きすぎるために、表面に現れていないだけなのだ。
リーゼはその深さを思い出すだけで、胸の奥がこそばゆくなった。
まるで見えない指先で、内側をそっと撫でられているような感覚だった。
もちろん、実際に触れられているわけではない。
それでも、カナタの魔力を思い浮かべるだけで、身体の奥がじんわりと熱を持つ。
リーゼはその反応を悟られないよう、唇をきゅっと結んだ。
「俺、一人で使おうとすると何も起きないけど、リーゼが一緒だと少しだけ動いた」
「はい」
リーゼは頷いた。
そのときの感覚を思い出す。
カナタの魔力に触れた瞬間、彼女の魔力は押し返されなかった。
むしろ、深い水の中へ沈んでいくように、自然に包み込まれた。
あれほどの量がありながら、カナタの魔力には不思議な柔らかさがあった。
指先から流れ込んだ熱は、手首を越え、腕の内側をゆっくりと伝っていった。
そのたびに、肌が細かく粟立つ。
くすぐったい。
けれど、離れたいとは思えない。
むしろ、もっと深く感じてみたいと思ってしまう。
「俺が魔力を出せてないんじゃなくて……」
「制御できていない可能性があります」
リーゼは頷いた。
「膨大な魔力を、ほんの少しだけ取り出す。その調整ができていない」
「……それって、結構大変?」
「かなり」
リーゼは苦笑した。
「むしろ、普通の人とは逆かもしれません」
「逆?」
「普通は、足りない魔力をどう効率よく使うかを考えます」
「俺は?」
「使う量を抑えることから始めないといけません」
カナタは少しだけ頭を抱えた。
「……難しそう」
「はい」
リーゼは答えながら、カナタの手を見た。
あの手から、あれほどの魔力が流れた。
それでもカナタは、自分が何をしたのか理解していない。
その無自覚さが、リーゼには恐ろしくもあり、同時に不思議だった。
これほどの力を持っているのに、本人から感じるのは威圧感ではない。
ただ、戸惑いと素直な驚きだけだ。
そして、その無防備な表情を見ると、リーゼの胸の奥がまた熱くなる。
もし、もう一度あの魔力に触れたら。
今度は、どれほど強く感じてしまうのだろう。
「魔法、便利なのに」
「便利ですよ」
「使えない」
「練習すれば使えます」
リーゼが微笑む。
「少なくとも、使えないわけではありません」
リーゼはそう言いながら、心の中で付け加えた。
使えるようになれば、きっと誰にも止められない。
それほどの力が、カナタの中にはある。
だからこそ、彼がその力を恐れず、しかし軽々しく扱わないように、自分がそばで見ていなければならない。
それだけではない。
自分自身が、その力に惹かれすぎないようにも気をつけなければならない。
カナタの魔力は、危険なほど大きい。
そして、危険なほど心地よかった。
カナタは少し安心した。
そのとき。
部屋の外で、誰かが小さく話している声が聞こえた。
「測定不能って……」
「聞こえたぞ」
「すみません」
リーゼが扉のほうを見る。
すぐに声が止んだ。
「……もう、知られてる?」
「おそらく」
「早いな」
「ここは伝書院ですから」
リーゼは少し困ったように笑った。
「ただ、今の結果をすぐに広めることはないと思います」
「本当に?」
「私から必要以上に話すつもりはありません」
「ありがとう」
「でも」
「ん?」
「魔法を使うときは、絶対に無理をしないでください」
リーゼの表情が真剣になる。
「今のカナタは、自分の魔力量を把握できていません」
「うん」
「その状態で強く魔力を流そうとすると、周囲の魔導具を壊したり、魔法そのものが暴発する可能性があります」
「……分かった」
「約束してください」
「分かった。無理しない」
「お願いします」
リーゼはようやく表情を和らげた。
けれど、胸の奥にはまだ、先ほど感じた魔力の余韻が残っていた。
あれほどの力を、カナタは自分でも知らないまま抱えている。
その事実を思うと、リーゼは自然とカナタのそばに立ちたくなった。
同時に、もう一度触れて確かめたいという気持ちも湧いてくる。
その衝動に気づき、リーゼは自分で自分に驚いた。
「では、今日の魔法練習は簡単なものにしましょう」
「何する?」
「昨日の魔導灯です」
「また?」
「はい」
小さな練習用魔石を用意する。
「これなら壊れても大丈夫なように作られています」
「それ、昨日から欲しかった」
「では、まず魔力を流さないでください」
「え?」
「正確には、流そうとしなくていいです」
リーゼが魔石を持つ。
「私が魔力を流します」
魔石が淡く光る。
「その光を覚えてください」
「うん」
「次に、カナタ自身の魔力を、私の魔力に重ねるような感覚で」
「分かった」
リーゼが手を添える。
昨日と同じ感覚。
温かな流れがある。
カナタはそれに合わせる。
リーゼの指先がカナタの手の甲に触れた。
その瞬間、彼女の身体が小さく震えた。
触れた場所から、あの深い魔力の気配が滲み出してくる。
まだカナタが魔力を流していないのに、リーゼには分かった。
手のひらの下に、巨大な力が静かに息づいている。
それは、眠っている獣のようでもあり、深い海の底のようでもあった。
触れているだけで、指先がくすぐったくなる。
そのくすぐったさは手首へ、腕へ、そして胸の奥へと広がっていった。
「……」
リーゼは息を整えようとした。
けれど、カナタの手の温度が近すぎる。
その体温と魔力の気配が重なり、身体の内側がじわじわと火照っていく。
「リーゼ?」
「は、はい」
「どうした?」
「いえ……何でもありません」
声が少し上ずった。
カナタは不思議そうに首を傾げる。
その無邪気な仕草に、リーゼの頬がさらに熱くなった。
「……」
ほんの少し。
ほんの少しだけ。
自分の中から何かを取り出す。
魔石が淡く光った。
「……ついた」
「はい」
「俺一人で?」
「はい」
「できた!」
カナタの顔が明るくなる。
その笑顔を見た瞬間、リーゼの胸がきゅっと締まった。
カナタの魔力が、彼の喜びに反応するようにわずかに揺らぐ。
手のひらから伝わる流れが、柔らかく膨らんだ。
その変化はほんのわずかだった。
けれど、リーゼにははっきり分かった。
カナタの魔力が、彼女の魔力へ寄り添うように動いた。
まるで、もっと近くへ来いと誘われているようだった。
だが。
次の瞬間。
魔石の光が一気に強くなる。
「カナタ、止めてください!」
「え?」
「魔力を止めて!」
「どうやって?」
「さっきと逆です!」
「逆……!」
カナタは慌てて手を離した。
魔石が大きく明滅する。
リーゼが魔力を流して抑える。
その瞬間、カナタの魔力が再び彼女の中へ流れ込んだ。
「……っ」
リーゼの身体が大きく震える。
強い。
けれど、乱暴ではない。
熱い。
それなのに、どこか柔らかい。
指先から流れ込んだ魔力が、腕の内側を撫でるように進み、肩を抜け、胸の奥へ沈んでいく。
そのたびに、身体の奥がこそばゆくなった。
リーゼは思わず息を止める。
「リーゼ?」
「だ、大丈夫です」
そう答えた声は、いつもより少しだけ上ずっていた。
カナタの魔力は、荒々しいわけではなかった。
むしろ、温かく、深く、全身を包み込むようだった。
触れた指先から腕へ。
腕から胸の奥へ。
まるで長い間冷えていた体を、柔らかな湯に浸しているような感覚が広がっていく。
けれど、リーゼが感じたのは心地よさだけではなかった。
その奥に、果てがない。
どれだけ触れても底へ届かず、どれだけ受け止めても尽きる気配がない。
目の前にいるカナタの体の中に、まるで一つの世界そのものが閉じ込められているようだった。
その巨大さに圧倒される一方で、リーゼの身体はその魔力を拒まなかった。
むしろ、もっと受け入れたいと感じてしまう。
その思いに気づいた瞬間、リーゼの頬が熱くなった。
「……あ」
リーゼの唇から、かすかな声が漏れた。
「どうした?」
「いえ……」
リーゼは答えようとした。
だが、カナタの魔力がさらに流れ込む。
そのたびに、体の奥に溜まっていた疲れがほどけていく。
眠気も。
肩のこわばりも。
朝から残っていた重さも。
すべてがゆっくりと溶けていく。
それでも、リーゼの意識の片隅には、別の感覚が残っていた。
この魔力は、まだ本気ではない。
今、彼女が触れているのは、カナタの力のほんの一部。
それなのに、自分の魔力では到底届かないほどの深さを感じる。
その深さに触れていると、身体の内側がくすぐったくなる。
まるで、見えない波が何度も肌の下を撫でているようだった。
「……気持ち、いい……」
思わず、リーゼが呟いた。
「え?」
「いえ、違います。これは、その……」
リーゼは慌てて言い直そうとする。
しかし、手を離すことができなかった。
カナタの魔力に触れていると、あまりにも心地よかった。
強大な力なのに、乱暴さがない。
制御されていないはずなのに、リーゼの魔力を拒むこともない。
むしろ、彼女の魔力を見つけると、そこへ寄り添うように流れを変えていく。
その柔らかさが、かえって恐ろしかった。
これほどの力が、まるで意思を持つように自分へ合わせてくる。
もしカナタが意識して操れば、どれほどのことができるのか。
リーゼには想像もつかなかった。
そして、その想像をするだけで、身体の奥がまた熱を持った。
「カナタ……もう少しだけ、そのままでいてください」
「え?」
「いえ……違います。流れを確認するためです」
リーゼは必死に平静を装った。
けれど、頬はわずかに赤くなっている。
カナタの魔力が、指先から全身へ広がっていく。
胸の奥が温かい。
呼吸が深くなる。
体の力が抜けていく。
まるで、心まで撫でられているようだった。
その感覚は、くすぐったく、甘く、リーゼの意識をゆっくりと緩ませていく。
「リーゼ、本当に大丈夫?」
「はい……大丈夫です」
返事をしながら、リーゼは目を閉じた。
その表情は、普段の真面目なものとは違っていた。
緊張がほどけ、頬が緩み、どこか夢見心地になっている。
けれど、目を閉じたことで、かえってカナタの魔力の大きさがはっきりと分かった。
視界を閉ざしても、感じる。
深い。
広い。
そして、まだ眠っている。
リーゼはその事実に、息を呑んだ。
自分が今受け取っているのは、巨大な海からこぼれた一滴にすぎない。
それでも、その一滴だけで、体の隅々まで満たされていく。
指先から胸の奥まで、温かな感覚が広がる。
身体が火照り、肌の内側がこそばゆくなる。
それは、魔力の流れを感じているだけのはずだった。
けれど、リーゼにはまるで、カナタに全身を包まれているように感じられた。
「……こんな魔力、初めてです」
「そんなに変?」
「変というより……」
リーゼは言葉を探した。
「とても、心地いいです」
「心地いい?」
「はい」
自分で口にしてから、リーゼははっとした。
「ち、違います。魔力の性質として、という意味です」
「でも、気持ちいいんだろ?」
「……はい」
否定できなかった。
カナタの魔力は、触れているだけで体の奥を満たしていく。
それは単なる魔力の供給ではない。
リーゼの中にある魔力の流れまで整え、疲労を洗い流し、全身を軽くしていく。
そのたびに、身体の奥が小さく震えた。
くすぐったい。
熱い。
それなのに、離れたくない。
「もう少しだけ……」
リーゼは無意識に、カナタの手を握った。
「リーゼ?」
「すみません」
慌てて離そうとする。
だが、離れた瞬間、体の中から温かさが引いていく。
「……」
リーゼは名残惜しそうに、自分の手を見つめた。
指先には、まだカナタの魔力の感触が残っている。
その感触が消えていくのが惜しくて、リーゼは思わず指を曲げた。
「どうした?」
「いえ……」
リーゼは小さく息を吐いた。
「カナタの魔力が、まだ残っている気がして」
「そんなに?」
「はい」
リーゼは自分の手のひらを見つめた。
「触れていた場所が、まだ温かいんです」
「俺にはよく分からないけど」
「カナタ自身は、まだ自分の魔力を感じ取れていないのかもしれません」
「そうなのかな」
「はい」
リーゼは魔石を確認する。
「でも、今の練習で分かりました」
「何が?」
「カナタの魔力は、ただ膨大なだけではありません」
「他にもある?」
「相手の魔力に合わせて、性質を変えるようなところがあります」
「性質を?」
「はい。私が触れたとき、カナタの魔力は私の流れに合わせてくれました」
「それで、気持ちよくなった?」
「……はい」
リーゼは小さく頷いた。
「私の魔力を包み込むように流れてきたので、体の中に無理なく馴染んだんです」
「なるほど」
「ただし」
リーゼは真剣な顔に戻った。
「このことは、他の人には話さないでください」
「どうして?」
「カナタの魔力を利用しようとする人が出るかもしれません」
「利用?」
「魔力を分けてもらおうとしたり、無理に接続しようとしたり」
リーゼは少し眉を寄せた。
「カナタの魔力が心地よいと知られれば、危険なことを考える人もいるでしょう」
「分かった。誰にも言わない」
「私も、必要以上には話しません」
「でも、リーゼは大丈夫?」
「何がですか?」
「また触ったら、気持ちよくなってしまうんだろ?」
「……」
リーゼは黙り込んだ。
やがて、観念したように息を吐く。
「大丈夫ではないかもしれません」
「え?」
「カナタの魔力に触れると、もっと触れていたいと思ってしまいます」
リーゼは自分の手を見つめた。
「それは、制御の練習に必要だからなのか。それとも、単純に心地よいからなのか……自分でも分からなくなりそうです」
「じゃあ、触らないほうが」
「いいえ」
リーゼは顔を上げた。
「必要な練習です」
「でも」
「カナタが魔力を扱えるようになるために、私が役に立てるなら」
リーゼは少しだけ笑った。
「それに、私が自分で気をつければいいことです」
「本当に?」
「はい」
そう答えたものの、リーゼの頬はまだ赤い。
「ただし、練習時間は決めましょう」
「どれくらい?」
「最初は短時間です」
「分かった」
「それから、私が止めたら必ず止めてください」
「うん」
「たとえ、私がもう少し続けたいと言っても」
「……リーゼ、自分で言うんだ」
「念のためです」
リーゼは真面目な顔で言った。
しかし、その直後。
「……本当に、もう少しだけ続けたいと思ってしまうかもしれませんから」
カナタは思わず笑った。
「リーゼ、やっぱり変だな」
「変ではありません」
「でも、気持ちよくなってる」
「魔力の相性がいいだけです」
「それを気持ちいいって言うんじゃないの?」
「……そうかもしれません」
リーゼは小さくため息をついた。
「ですが、今はまだ、魔法の練習です」
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
カナタは頷いた。
リーゼも頷き返す。
けれど、二人の間には、先ほどまでとは違う空気が残っていた。
魔力を重ねた感覚。
リーゼの体に流れ込んだ、カナタの膨大な魔力。
そして、それを心地よいと感じてしまったリーゼ。
それは、単なる練習では片づけられない何かを残していた。
午後。
通常の仕事へ戻る。
手紙を分類する。
荷物を確認する。
届け先を整理する。
昨日よりも、少しだけ手際がよくなった。
「今日はどうだった?」
職員の一人が尋ねる。
「魔法の練習?」
「うん」
「どうでした?」
「……ちょっとだけ使えるようになった」
「それはよかったですね」
周囲から向けられる視線。
まだ何も知らない者も多い。
けれど、何人かは先ほどの測定結果を聞いているらしい。
カナタは少し居心地が悪かった。
そんな様子を見て、リーゼが声をかける。
「気にしなくて大丈夫です」
「でも、見られてる」
「珍しいものを見たら、誰でも気になります」
「……珍しいって」
「カナタ自身が悪いわけではありません」
その言葉に、少しだけ救われる。
「そうだな」
カナタは仕事へ戻った。
夕方。
今日の仕事を終える。
伝書院を出る。
昨日と同じように、リーゼと並んで歩く。
「今日は疲れましたね」
「魔法の練習が一番疲れた」
「魔力を使うより、制御するほうが疲れたでしょう?」
「うん」
「しばらくは、少しずつです」
「分かった」
夕暮れの街。
風が吹く。
カナタは空を見上げた。
「魔法か……」
「どうしました?」
「元の世界には、魔法なんてなかったからさ」
「そうなんですね」
「だから、まだちょっと不思議」
「私にとっては、カナタの世界のほうが不思議です」
「電気とか?」
「はい」
「車とか、飛行機とか」
「空を飛ぶ乗り物……」
「うん」
「いつか見てみたいです」
「俺も、リーゼに魔法をもっと見せてほしい」
「では、お互いに教え合いですね」
「そうだな」
リーゼは歩きながら、そっと自分の手を見た。
そこには、もうカナタの魔力は流れていない。
それでも、まだ温かさが残っている気がした。
そして、その温かさの奥には、あの底知れない深さの感覚も残っている。
触れたのはほんの一部だった。
それなのに、リーゼはカナタの魔力を完全には忘れられない。
あれほど大きく、あれほど優しい力を、彼女は今まで知らなかった。
手のひらを見つめているだけで、身体の奥がまた火照る。
指先がこそばゆくなり、無意識に手を握りしめた。
「……」
「どうした?」
「いえ」
リーゼは手を握りしめる。
また触れたら、きっと気持ちよくなってしまう。
もっと流れてきてほしいと思ってしまう。
その感覚を、まだ完全には忘れられない。
「リーゼ?」
「何でもありません」
リーゼは前を向いた。
「明日も、魔法の練習をしましょう」
「うん」
「ただし、今日はもう十分です」
「分かった」
月影亭へ戻る。
夕食を食べる。
リーゼは昼間より元気になっていた。
しかし。
食事を終えたあと。
「……あ」
リーゼが立ち止まった。
「どうした?」
「魔導具の練習用の紙を、伝書院に置いてきました」
「また忘れた?」
「……はい」
「取りに戻る?」
「明日でも大丈夫です」
「じゃあいいじゃん」
「そうですね」
リーゼはあっさり諦めた。
「明日取りに行きます」
「それでいいのか」
「大丈夫です」
二階へ上がる。
リーゼは自分の部屋の前で立ち止まる。
今度は鍵をちゃんと持っている。
「今日は忘れてないな」
「さすがに二日連続はありません」
「昨日は忘れてたけど」
「……」
「ごめん」
「いえ」
リーゼは少しだけ笑った。
「では、おやすみなさい」
「おやすみ、リーゼ」
それぞれの部屋へ入る。
カナタは机の前に座った。
青い便箋を見る。
中に入っている青い羽根。
昨日の手紙。
白い封蝋。
青い羽根の紋章。
そして、今日分かった自分の魔力。
測定不能。
想像もできないほど膨大な魔力。
なのに、魔導灯一つ満足につけられない。
「……変な世界だな」
カナタは苦笑した。
けれど。
不思議と嫌ではなかった。
知らないことがある。
覚えなければならないことがある。
そして、それを教えてくれる人がいる。
隣の部屋にはリーゼがいる。
明日の朝も、きっと起こしに来る。
少し眠そうな顔で。
もしかしたら、また何か忘れているかもしれない。
そして。
魔法の練習で、またカナタの魔力に触れることになる。
そのとき、自分はどうなってしまうのか。
リーゼはまだ、答えを出せずにいた。
ただ一つ、確かなことがある。
カナタの魔力は、彼女が想像していたよりもはるかに大きい。
測定器が壊れたからではない。
実際に触れたからこそ分かる。
あれは、底の見えない力だ。
そして、その力は恐ろしいほど優しく、心地よい。
触れた場所はいつまでも温かく、思い出すだけで身体が火照り、指先がこそばゆくなる。
リーゼはその事実を、誰にも話すつもりはなかった。
けれど、自分だけはもう知ってしまった。
カナタの中に眠る、あまりにも巨大な魔力を。
そして、その魔力に触れるたび、自分の心まで揺らされてしまうことを。
「……明日も大変そうですね」
そう呟いた。
その声は、誰もいない部屋の中で小さく震えた。
そのとき。
机の上の青い羽根が、かすかに震えた。
「……?」
カナタが手を伸ばす。
しかし、触れる前に震えは止まった。
静寂。
何も起きない。
カナタはしばらく羽根を見つめた。
その先に何があるのか。
まだ分からない。
白い封蝋の意味も。
失踪した伝書人のことも。
エドガーとマリアのことも。
そして。
自分自身の中に眠る、あまりにも巨大な魔力のことも。
何も分からない。
けれど。
今日、一つだけ分かったことがある。
自分には、想像していた以上の力がある。
そして、その力は。
リーゼにとって、危険なほど心地よいものでもあるらしい。
問題は――
それをどう扱うかだ。
カナタはベッドへ横になった。
明日も仕事がある。
手紙を届ける。
道を覚える。
魔法を練習する。
リーゼと一緒に旅をする。
それだけでいい。
今は、それだけでいい。
窓の外。
夜のリュネアを風が静かに通り抜けていく。
その風に呼応するように。
机の上の青い羽根が、ほんの一瞬だけ淡い光を放った。
そして。
誰にも気づかれないまま、その光は消えた。
翌朝。
また新しい一日が始まる。
伝書人としての仕事も。
魔法の練習も。
そして――
この世界に隠された謎も。
まだ、始まったばかりだった。




