第6話 初めての伝書
朝から、分からないことだらけだった。
「……これ、どこに置けばいい?」
「そちらはリュネア南側ですね」
「こっちは?」
「西側です」
「これは?」
「それは国外です」
「……全部違うように見えるんだけど」
カナタは机の上に積まれた手紙を見つめた。
今日が、初めての仕事だった。
まずは分類作業。
それだけでも、思っていた以上に難しかった。
文字が完全には読めない。
地名も知らない。
この世界の地理もほとんど分からない。
そんなカナタにとって、手紙を行き先ごとに分ける作業は、ほとんど暗号解読だった。
「最初は、印を覚えるといいですよ」
隣に座るリーゼが、一枚の手紙を取り上げる。
「この印がリュネア」
「へえ」
「こちらが西部方面」
「なるほど」
「それから、これは北部です」
「……似てない?」
「慣れれば分かります」
「本当に?」
「はい」
リーゼは笑った。
「私も最初は間違えましたから」
「リーゼでも?」
「もちろんです」
「なんか安心した」
「安心するところでしょうか」
二人で笑う。
周囲には、まだカナタを警戒する視線がある。
時折、職員がこちらを見る。
ひそひそと話す声も聞こえる。
それでも、カナタは目の前の作業に集中した。
まだ正式な伝書人ではない。
まだ信用もない。
だからこそ、今は一つずつ覚えていくしかなかった。
「カナタ」
「ん?」
「次はこれです」
リーゼが小さな木箱を指差した。
「中に入っている手紙を、届け先ごとに分けてください」
「分かった」
蓋を開ける。
中には十数通の手紙。
封筒の形も大きさも様々だった。
カナタは一枚ずつ取り出していく。
「これは……」
「どうしました?」
「この文字、少し読める気がする」
「本当ですか?」
「うん。少しだけだけど」
カナタは宛先を眺める。
まだ完全には読めない。
それでも、書かれている文字の一部から、意味を拾えるようになっていた。
「たぶん……こっちは北」
「正解です」
「よし」
カナタは少し嬉しくなった。
「こっちは?」
「南です」
「これは?」
「国外」
「……分かった」
手紙を分類していく。
分からないことがあれば、リーゼに尋ねる。
教えてもらったことを、もう一度自分で確かめる。
その繰り返しだった。
しばらくすると、リーゼが一通の手紙を手に取った。
「では、次の仕事です」
「まだあるの?」
「はい」
「何するんだ?」
「届けます」
「……俺が?」
「私と一緒に、です」
リーゼは立ち上がった。
「今日はカナタにも、実際の伝書を経験してもらいます」
「本当に?」
「はい」
胸が少し高鳴った。
これまでは、伝書人たちが手紙を持って出ていく姿を見ていただけだった。
今日は、自分もその仕事をする。
「分かった」
カナタは立ち上がった。
「何を持っていけばいい?」
「この手紙です」
リーゼが一通の封筒を渡す。
「それから、伝書鞄を」
「俺も?」
「今日は補助用です」
リーゼが小さな鞄を差し出した。
カナタはそれを肩に掛ける。
「……なんか、それっぽいな」
「伝書人みたいですか?」
「うん」
「まだ外部協力員ですけどね」
「そこは言わなくていいだろ」
リーゼが笑う。
「では、行きましょう」
伝書院を出る。
朝の街は賑やかだった。
馬車が行き交い、店が開き、人々が通りを歩いている。
カナタはリーゼの隣を歩きながら、周囲を見回した。
「どこに届けるの?」
「エルナ地区の外れです」
「近い?」
「歩いて二十分くらいです」
「それなら楽だな」
「今日は練習ですから」
「なるほど」
街を歩く。
カナタは自然と周囲を観察していた。
道幅。
人の流れ。
建物の位置。
交差点。
目印になる塔。
水場。
初めて歩く街なのに、少しずつ頭の中に地図ができていく。
「カナタ」
「ん?」
「さっきから何を見ているんですか?」
「道」
「道?」
「どこに何があるか覚えてる」
「……やっぱり旅人なんですね」
「そうかな」
「はい」
リーゼは楽しそうに笑った。
「カナタは、道を歩くのが本当に好きなんですね」
「うん」
しばらく歩いたところで、リーゼが一軒の家の前で止まった。
「ここです」
「ここ?」
「はい」
リーゼが扉を叩く。
しばらくすると、中から男性が出てきた。
「伝書院です」
リーゼが銀章を見せる。
「手紙をお届けに来ました」
「ああ」
男性の視線が、リーゼの手元へ落ちる。
封筒を見た瞬間、その顔からわずかに血の気が引いた。
驚き。
戸惑い。
そして、それらを押し隠そうとするような、深い緊張。
男性は震える指で手紙を受け取った。
「妻からだ」
その声は、ひどく小さかった。
けれど、カナタの耳にははっきり届いた。
次の瞬間。
胸元にしまった青い羽根が、突然、熱を持った。
「……っ」
熱い。
火種を押し当てられたような熱が、胸の奥まで一気に広がった。
カナタは反射的に胸元を押さえる。
羽根が、服の下で震えていた。
まるで、見えない風に煽られているように。
青い光が布地の隙間から漏れ、心臓の鼓動に合わせて明滅する。
男性の手の中にある手紙。
その封筒から、細い青白い糸のような光が伸びていた。
光は羽根へ吸い込まれ、羽根からは逆に、男性へ向かって淡い波紋が広がっていく。
その瞬間、カナタの中へ感情が流れ込んできた。
懐かしい。
会いたい。
怖い。
それでも、信じたい。
いくつもの感情が、誰かの記憶の断片とともに押し寄せる。
雨の音。
遠くで鳴る鐘。
閉じた扉の向こうから聞こえる、女性の笑い声。
そして、何度も何度も繰り返される言葉。
――帰ってきて。
カナタは息を呑んだ。
これは自分の感情ではない。
目の前の男性のものでもない。
手紙を書いた誰かの想い。
その想いが、手紙を通して流れ込んでいる。
だが、なぜ青い羽根が反応するのか。
なぜ自分に見えるのか。
なぜ、知らないはずの記憶まで感じ取れるのか。
「……カナタ?」
リーゼの声が遠く聞こえた。
男性は手紙を胸に抱きしめている。
その目には涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
今度の声は、先ほどよりもはっきりしていた。
けれど、その言葉が誰に向けられたものなのか、カナタには分からなかった。
リーゼにか。
手紙を届けた伝書院にか。
それとも、手紙の向こうにいる妻にか。
青い羽根の光が、ふっと消える。
同時に、胸の奥へ流れ込んでいた感情も途切れた。
残ったのは、焼けるような熱と、耳の奥にこびりついた声だけだった。
――帰ってきて。
男性が扉の向こうへ戻る。
扉が閉じる直前、カナタは見た。
男性の手の中の封筒。
白い封蝋の中央に、見覚えのある印が刻まれている。
青い羽根を二枚、重ねたような紋章。
カナタが持つ羽根と、同じ形だった。
「……」
扉が閉まる。
カナタはしばらく動けなかった。
「カナタ」
リーゼが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「……今の手紙」
「はい?」
「封蝋に、青い羽根の印があった」
リーゼの表情が変わった。
「見えたんですか?」
「うん」
「本当に?」
「それより……」
カナタは胸元を押さえた。
「羽根が反応した」
リーゼが息を呑む。
「反応……?」
「熱くなって、光って……手紙から何かが流れ込んできた」
「何が?」
「感情みたいなもの」
カナタは言葉を探した。
「会いたいとか、怖いとか……帰ってきて、って」
リーゼは黙り込んだ。
いつもの穏やかな表情が消えている。
「リーゼ?」
「……その印は、普通の封蝋ではありません」
「知ってるの?」
「詳しくは知りません。ただ、伝書院では記録上、存在しないことになっています」
「存在しない?」
「はい」
リーゼは閉じた扉を見つめた。
「けれど、古い記録の中に一度だけ、似た紋章が出てきます」
「何の記録?」
「失踪した伝書人の記録です」
風が通りを抜けた。
カナタの胸元で、青い羽根がかすかに震える。
「その伝書人は、何を届けたの?」
「分かりません」
リーゼは低い声で答えた。
「最後に届けた手紙だけが、記録から消えているんです」
「消えた?」
「届け先も、差出人も、内容も。すべて」
カナタは閉じた扉を見た。
その向こうには、今も男性がいる。
妻からの手紙を読んでいる。
けれど、あの手紙に込められていたものは、本当に妻の想いだけだったのだろうか。
青い羽根は、何を感じ取ったのか。
そして、なぜ自分にだけ見えたのか。
「……俺の羽根と、あの印は関係あるのかな」
「分かりません」
リーゼは首を横に振った。
「でも、偶然とは思えません」
その言葉が、妙に重く響いた。
家を離れる。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
カナタは何度も胸元へ手を当てた。
羽根はもう光っていない。
ただ、冷たい感触だけが残っている。
まるで、何かを見届けたあと、次の瞬間を待っているように。
「さっきの男性は、誰だったの?」
カナタが尋ねた。
「男性、ですか?」
「うん。あの家にいた人。妻からの手紙だって言ってたけど……あの人は何者なんだ?」
リーゼは少し考えてから答えた。
「名前は、エドガー・ヴァレンです」
「エドガー……」
「以前は、王都の外壁警備隊に所属していた人です」
「警備隊?」
「はい。数年前まで、北方の街道を守る任務に就いていました」
リーゼは歩みを緩めた。
「その任務中に、彼の妻であるマリアさんが行方不明になったんです」
「行方不明?」
「北方の小さな村へ向かったあと、消息が途絶えました。村そのものが雪崩に巻き込まれたと報告されています」
カナタは足を止めかけた。
「じゃあ、亡くなったんじゃ……」
「そう考えられていました」
リーゼは静かに続ける。
「遺体も、確かな証拠も見つかりませんでした。それでも、エドガーさんは妻が生きていると信じて、ずっと帰りを待っているんです」
「ずっと?」
「はい。警備隊を辞めたあとも、あの家で暮らしながら」
カナタは、先ほどの男性の顔を思い出した。
手紙を受け取ったときの驚き。
震える指。
涙を浮かべた目。
そして、妻からだと呟いた声。
「じゃあ、あの手紙は……」
「差出人の名前は、マリア・ヴァレンになっていました」
「本当に、奥さんから?」
「記録上は、そうです」
リーゼは封筒を思い出すように目を伏せた。
「ただ、マリアさんが今どこにいるのかは、誰にも分かりません」
「それなのに、手紙が届いた」
「はい」
「どうして?」
「それを調べるのが、伝書院の仕事ではありません」
リーゼはそう言ったが、声には迷いがあった。
「私たちは、預かった手紙を届けるだけです。差出人の事情や、書かれた内容に立ち入ることはありません」
「でも、あの手紙には……」
「はい」
リーゼはカナタを見る。
「普通ではないものが込められていました」
カナタは胸元を押さえた。
あの感情。
あの記憶。
あの声。
ただの手紙ではなかった。
「エドガーさんは、何度もマリアさんからの手紙を待っていたんです」
「何度も?」
「これまでにも、何通か届いています」
「じゃあ、今日が初めてじゃないんだ」
「はい。ただ、今回の手紙には、あの青い羽根の封蝋がありました」
リーゼは一度、閉じた扉を振り返った。
「これまでの手紙に、同じ印があったかどうかは分かりません。記録には残っていませんから」
「記録に残ってないって……」
「エドガーさんは、手紙の内容を誰にも話していません。伝書院にも、差出人と届け先だけが記録されています」
「それでも、手紙は届いていた」
「はい」
カナタは黙り込んだ。
行方不明になった妻。
何度も届く手紙。
そして、青い羽根の紋章。
自分の羽根が反応した理由は、まだ分からない。
けれど、あの男性がただの受取人ではないことだけは理解できた。
彼は、帰らない妻を待ち続けている。
その待つ時間の中に、手紙だけが届いている。
「……あの人、ずっと待ってるんだな」
「はい」
「帰ってくるって、信じてるのかな」
「きっと」
リーゼは静かに答えた。
「だからこそ、手紙を受け取ったとき、あんな顔をしたんだと思います」
カナタは閉じた扉を見つめた。
その向こうで、エドガーは今も手紙を読んでいる。
妻の文字を追いながら、帰りを待っている。
その想いが、青い羽根を通してカナタに流れ込んだのかもしれない。
「……伝書って、ただ届けるだけじゃないんだな」
「はい」
リーゼは歩きながら言った。
「手紙を届けるということは、その人が待っている言葉を届けることです」
「……」
「渡した瞬間に、その人の表情が変わることがあります」
「さっきの人も?」
「きっと、そうでしょうね」
カナタは振り返った。
さっきの家。
扉はもう閉じている。
でも、その向こうではきっと誰かが手紙を読んでいる。
その手紙には、誰かの想いが込められていた。
そして、青い羽根はそれに応えた。
まるで、手紙の中にある何かを知っているかのように。
「……悪くないな」
「はい?」
「この仕事」
リーゼが少しだけ笑った。
「そう言ってもらえてよかったです」
カナタはもう一度、胸元に触れた。
羽根は沈黙している。
だが、あの声だけは消えなかった。
――帰ってきて。
誰が、誰に向けた言葉なのか。
そして、なぜ自分の中に残ったのか。
答えは、まだどこにもなかった。
帰り道。
カナタは何度も街を振り返った。
自分が届けた一通の手紙。
それだけ。
なのに、ほんの少しだけ、この世界に自分が関わった気がした。
同時に。
自分が知らない何かに、ほんの少しだけ触れてしまったような気もした。
伝書院へ戻る。
午後はまた分類作業だった。
手紙を分ける。
荷物を運ぶ。
届け先を確認する。
リーゼに教えてもらう。
分からなくなる。
また聞く。
その繰り返し。
気がつけば、空が赤く染まり始めていた。
「……終わった?」
カナタが机を見る。
手紙の山がなくなっている。
「今日の分は終わりです」
リーゼが答えた。
「疲れた……」
「初日ですから」
「これ、毎日?」
「基本的には」
「伝書人って大変だな」
「でも、カナタ」
「ん?」
「ちゃんとできていましたよ」
「本当?」
「はい」
リーゼが微笑む。
「一つずつ、丁寧に覚えていました」
「リーゼが教えてくれたからだよ」
「それなら、私も嬉しいです」
カナタは少し照れくさくなった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
その日の仕事が終わる。
まだ分からないことばかりだった。
正式な伝書人でもない。
身元も証明できない。
周囲からの疑いも消えていない。
それでも――
今日、一通の手紙を届けた。
その手紙には、誰かの想いが込められていた。
そして、青い羽根がそれに応えた。
それだけは確かなことだった。
伝書院を出る。
夕暮れの街をリーゼと並んで歩く。
「リーゼ」
「はい?」
「今日、どこに泊まるの?」
「いつもの宿です」
「どこっていう宿?」
「伝書院から少し離れた、宿場通りの宿です。名前は『月影亭』といいます」
「月影亭?」
「はい。小さな宿ですが、静かで落ち着くんです」
「……俺は?」
リーゼが足を止めた。
「カナタもです」
「え?」
「今日から、月影亭に泊まってください」
カナタは目を瞬かせた。
「……俺も?」
「はい」
「いつ決まったんだ?」
「今日の昼です」
リーゼは少し申し訳なさそうに答えた。
「伝書院から通達がありました」
「通達?」
「はい」
リーゼは懐から折り畳まれた書面を取り出した。
「カナタには、まだ身元の確認ができていません」
「うん」
「そのため、しばらくの間、私と同じ宿に滞在するようにという命令です」
「……俺を監視するため?」
「監視という言い方は……少し厳しいですね」
リーゼは苦笑する。
「行動の確認と、安全確保です」
「でも、要するに監督だろ?」
「……はい」
カナタは書面を見る。
そこには、伝書院の印が押されていた。
「これ、俺が勝手に決められたってこと?」
「そうなります」
「リーゼが決めたわけじゃない?」
「もちろんです」
リーゼは首を横に振る。
「私がカナタを同じ宿に誘ったわけではありません」
「そっか」
少しだけ、ほっとした。
同時に、複雑な気持ちにもなった。
リーゼと同じ宿に泊まれる。
それ自体は悪くない。
むしろ、今の自分にとっては心強い。
だが、それが「監督」という目的で決められたことだと分かると、少しだけ自由を奪われたような気もする。
「部屋は?」
「別です」
「隣?」
「……隣です」
「なんで?」
「何かあったときに、すぐ対応できるようにだそうです」
「徹底してるな、伝書院」
「はい……」
リーゼは困ったように笑った。
「私も今日初めて知ったときは驚きました」
「リーゼも?」
「はい」
「じゃあ、俺だけ知らなかったんだ」
「仕事中に話すと集中できなくなると思いまして」
「それは確かに」
カナタは笑った。
「じゃあ、今から月影亭?」
「はい」
「分かった」
二人は再び歩き始めた。
夕暮れの街。
行き交う人々。
淡い光を灯し始める街灯。
カナタは隣を歩くリーゼを見る。
昼間は伝書人としての顔。
今は仕事を終えた少し柔らかな表情。
「……同じ宿か」
思わず口に出す。
「はい」
「明日も?」
「はい」
「明後日も?」
「命令が解除されるまでは」
「結構長そうだな」
「そうですね」
リーゼは少し苦笑した。
「よろしくお願いします、カナタ」
「こちらこそ」
しばらく歩く。
やがて、宿場通りに入った。
細い月が描かれた看板。
軒先で揺れる銀色の鈴。
「ここです」
リーゼが立ち止まる。
「月影亭」
扉を開ける。
「おかえり、リーゼ」
帳場から女性の声がした。
「ただいま戻りました、セレナさん」
リーゼが頭を下げる。
セレナがカナタを見る。
「そちらが?」
「はい。カナタです」
「伝書院から話は来てるよ」
セレナは頷いた。
「今日から、リーゼと同じ宿に泊まるんだね」
「……はい」
「部屋は二階。リーゼの隣だよ」
「分かりました」
カナタは荷物を持ち上げる。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
セレナが笑う。
「夕食も用意できるよ」
「お願いします」
「リーゼも食べるだろ?」
「はい」
二人で食堂へ向かう。
今日一日、ずっと仕事をしていた。
疲れているはずなのに。
カナタの頭には、別のことが浮かんでいた。
同じ宿。
隣の部屋。
明日の朝も、リーゼと一緒に伝書院へ向かう。
それが伝書院からの命令。
それでも――
少しだけ嬉しいと思ってしまった自分がいた。
食事を終え、カナタは二階へ上がった。
そのとき、向かいの部屋の扉が開く。
「カナタ」
「ん?」
振り返った瞬間。
カナタの動きが止まった。
リーゼは、昼間の伝書人の服装ではなかった。
白いブラウスも、紺色のベストも着ていない。
髪は仕事中より少しだけ無造作で、肩に自然にかかっている。
淡い色の薄手の部屋着。
ラフな格好。
仕事のときには見えない柔らかな雰囲気。
カナタは、思わず目を逸らした。
「……どうしました?」
「いや」
「?」
「その……普段はそんな格好なんだなって」
「はい。宿では楽な服に着替えています」
「そっか」
カナタはそれだけ答えた。
だが、なぜか落ち着かない。
仕事中はいつもきっちりしている。
伝書人としての姿しか知らなかった。
だからこそ。
今目の前にいるリーゼは、少しだけ別人に見えた。
「変ですか?」
「え?」
「さっきから、ずっと見ていますけど」
「……見てた?」
「はい」
「ごめん」
カナタは慌てて視線を逸らした。
「変じゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「似合ってる」
リーゼが目を丸くした。
「……ありがとうございます」
ほんの少し頬を赤くする。
「カナタも、仕事のときより少し雰囲気が違いますね」
「俺?」
「はい」
「そうかな」
「少しだけ」
二人の間に、妙な沈黙が流れた。
昼間なら気にならない距離。
でも今は。
仕事着ではないリーゼが、命令によって隣の部屋にいる。
明日も同じ道を歩く。
それだけで、妙に意識してしまう。
「……じゃあ、俺、部屋に戻るな」
「はい」
「おやすみ、リーゼ」
「おやすみなさい、カナタ」
カナタは自分の部屋へ戻った。
扉を閉める。
鍵を掛けようとして、手を止めた。
伝書院の命令で、リーゼと同じ宿に泊まる。
隣の部屋には、リーゼがいる。
明日の朝には、起こしに来るらしい。
「……なんだったんだ、今」
胸に手を当てる。
別に何かあったわけではない。
ただ、普段と違うリーゼを見ただけ。
それだけなのに。
指先が胸元の青い羽根に触れた。
羽根は冷たい。
けれど、あの家で感じた熱だけが、まだ皮膚の奥に残っていた。
リーゼの姿を見たときとは違う。
あの熱は、誰かの想いだった。
誰かの記憶だった。
そして、青い羽根はそれを知っていた。
「……変に意識するなよ、俺」
カナタは自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、頭の中に浮かんだのはリーゼの顔ではなかった。
白い封蝋。
青い羽根の紋章。
閉じた扉の向こうで手紙を読むエドガー。
そして、耳の奥に残る声。
――帰ってきて。
ベッドに腰掛ける。
今日一日の疲れが、一気に押し寄せてきた。
初めての仕事。
初めての伝書。
たくさんの知らない文字。
知らない場所。
知らない人。
そして――
手紙に触れた瞬間、流れ込んできた誰かの感情。
カナタは目を閉じた。
今日一日を思い返す。
手紙を分類した。
リーゼに教えてもらった。
一緒に街を歩いた。
手紙を一通、届けた。
その一通が、青い羽根を目覚めさせた。
伝書院の命令で、リーゼと同じ宿に泊まることになった。
それだけの一日。
なのに。
この世界が少しだけ近くなった気がした。
同時に。
世界の奥に隠された何かが、ほんの少しだけこちらを見返した気がした。
机の上に置いた青い便箋へ目を向ける。
中に入っている羽根。
今夜はもう、何も反応しない。
ただ、羽根の根元に、見覚えのない細い青い線が浮かんでいた。
まるで、誰かが羽根に新しい印を刻んだように。
「……今日は何もないか」
カナタは便箋を閉じた。
窓の外では、夜のリュネアが淡い光に包まれている。
まだ何も分からない。
自分がなぜここへ来たのか。
羽根が何なのか。
白い封蝋の手紙が何なのか。
失踪した伝書人が、何を届けたのか。
エドガーの妻が、どこにいるのか。
そして、あの声が誰のものなのか。
何一つ分からない。
それでも。
明日も仕事がある。
朝になれば、隣の部屋からリーゼが起こしに来る。
それは伝書院の命令によるものだ。
自分を監督し、安全を確保するための措置。
そう分かっているのに。
そう思うと、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――
少しだけ楽しみだった。
カナタはベッドへ横になる。
「……明日も、リーゼと一緒か」
小さく呟いて、目を閉じる。
その言葉が、なぜか少しだけ嬉しかった。
だが、しばらくしても眠気は訪れなかった。
部屋の中が暗すぎる。
窓の外から差し込む月明かりだけでは、机の上に置いた便箋の位置さえよく見えなかった。
「……灯り、ないのか?」
カナタは部屋を見回した。
壁際に、透明な石の嵌め込まれた小さな器具がある。
昼間、廊下でリーゼが触れていたものと同じだった。
カナタは近づき、器具に手を伸ばす。
指先で触れてみる。
何も起こらない。
押してみる。
やはり、何も起こらない。
「……壊れてる?」
そのとき、隣の部屋から物音がした。
カナタは扉を開け、廊下へ出る。
隣の部屋の扉を軽く叩いた。
「リーゼ、起きてる?」
「はい。どうしました?」
すぐに返事があった。
扉が開く。
リーゼは部屋着のまま、手に小さな魔石を持っていた。
「何かありましたか?」
「部屋の灯りがつかない」
「灯り?」
「壁のこれ。触っても何も起きないんだけど」
カナタが器具を指差す。
リーゼは少し目を丸くした。
「ああ、魔導灯ですね」
「魔導灯?」
「魔力を流すと明るくなります」
「魔力を流す?」
「はい」
リーゼは器具に手を添えた。
指先から淡い光が流れ込む。
次の瞬間、透明な石が柔らかな白い光を放った。
「おお……」
カナタは思わず声を漏らした。
「これ、魔法?」
「簡単な生活魔法です」
「俺にもできる?」
「試してみますか?」
「うん」
リーゼが一歩下がる。
カナタは器具に手を添えた。
「魔力を流すって、どうやるんだ?」
「体の中にある力を、手のひらから器具へ送るイメージです」
「体の中にある力……」
カナタは目を閉じた。
何かを動かす。
押し出す。
そんな感覚を思い浮かべる。
だが、器具は沈黙したままだった。
「……つかない」
「力みすぎているのかもしれません」
「力みすぎ?」
「魔法は、無理に押し出すものではありません。呼吸に合わせて、ゆっくり流すんです」
リーゼがカナタの手の位置を直す。
「ここに手を置いてください」
「こう?」
「はい。では、息を吸って……ゆっくり吐きながら、魔力を流します」
カナタは言われた通りにする。
息を吸う。
吐く。
手のひらへ意識を集中する。
しかし、何も起こらない。
「……やっぱり無理か」
「初めてなら、すぐには難しいですよ」
「リーゼはできるのに」
「私は子どもの頃から練習していますから」
「そんなに?」
「生活魔法は、誰でも使えるように教わります」
「誰でも?」
「適性の差はありますが、灯りや水回り程度なら、ほとんどの人が使えます」
「俺は?」
「まだ魔力の流し方が分かっていないだけだと思います」
リーゼはそう言って、器具から手を離した。
灯りが少し暗くなる。
「明日の昼に、もう少し練習しましょう」
「昼まで暗いまま?」
「……そうですね」
リーゼは少し考えた。
「よければ、今夜は私の部屋の灯りを分けましょうか?」
「灯りを分ける?」
「魔導灯は、近くの器具同士を繋げられます。隣の部屋から魔力を流せば、カナタの部屋も明るくできます」
「そんなことできるの?」
「はい」
リーゼはカナタの部屋へ入った。
部屋の中央にある魔導灯の器具を確認し、壁際の小さな刻印へ指を触れる。
淡い光の線が、器具から壁へ伸びていく。
隣の部屋へ向かうように、細い青白い線が壁の中へ消えた。
カナタの部屋の魔導灯が、柔らかな光を灯す。
「おお……」
「これで、しばらくは大丈夫です」
「ありがとう」
「どういたしまして」
リーゼは部屋の中を見回した。
机の上には、青い便箋と、今日使った伝書用の道具が置かれている。
「……少し片付けたほうがいいですね」
「え?」
「魔導灯の接続を確認するついでに、簡単に整えます」
「いや、自分でやるよ」
「カナタは魔法の練習で疲れたでしょう」
「でも」
「それに、明日の朝に使う道具が見つからなくなると困ります」
リーゼは机の上の便箋を端へ寄せ、伝書鞄を壁際へ置いた。
カナタはその様子を眺めていた。
リーゼが自分の部屋で作業している。
それだけなのに、妙に不思議な感じがした。
「この魔導灯、ずっとつけてて大丈夫なの?」
「はい。魔力を流し続ける必要はありません。一度点ければ、魔石に蓄えられた力でしばらく光ります」
「電気みたいだな」
「デンキ?」
「俺のいた場所にあった灯りの仕組み」
「カナタの世界にも、似たものがあったんですね」
「うん。もっと複雑だけど」
リーゼは机の上に置かれた青い便箋へ目を向けた。
「これは、明日も持っていくんですか?」
「羽根?」
「はい」
「たぶん。俺の持ち物だから」
「伝書院では、できるだけ肌身離さないようにしてください」
「やっぱり、危ないものなのか?」
「危険かどうかは分かりません。ただ、今日のような反応があった以上、誰かに見られないようにしたほうがいいです」
「分かった」
リーゼは便箋の位置を整えた。
「それから、魔導灯の使い方ですが」
「うん」
「明日の朝、もう一度練習しましょう。水回りの魔法も、同じように魔力を流して使います」
「水回り?」
「はい。月影亭の部屋には、簡単な洗浄設備があります」
「洗浄設備?」
「シャワーのようなものです」
「シャワーあるの?」
カナタの声が少し大きくなった。
「はい。魔法で温めた水を出します」
「それ、使い方を教えてくれ」
「今からですか?」
「だって、今日ずっと歩いたし、汗もかいたし」
リーゼは少し考えたあと、頷いた。
「分かりました。では、浴室へ行きましょう」
月影亭の二階の端に、宿泊客用の小さな浴室があった。
壁には、魔導灯と同じような透明な石が嵌め込まれている。
その下には、金属製の取っ手と、細い管のような器具があった。
「これがシャワーです」
「本当にシャワーだ……」
「まず、この魔石に魔力を流します」
リーゼが壁の石に触れる。
淡い光が灯り、管の先から温かな水が流れ始めた。
「おお……!」
カナタは思わず手を伸ばした。
水は熱すぎず、冷たすぎない。
疲れた体にちょうどいい温度だった。
「魔力で水を温めているんですか?」
「正確には、地下水を引き上げて、魔石で温度を調整しています」
「便利だな」
「生活魔法の中では、かなり簡単な部類です」
「これも俺が使えるようになる?」
「練習すれば」
「よし」
カナタは魔石に手を添えた。
リーゼが隣で見守る。
「さっきと同じです。呼吸を整えて、ゆっくり流してください」
カナタは目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
手のひらから、何かを流す。
だが、魔石は光らない。
「……やっぱり駄目だ」
「焦らなくて大丈夫です」
リーゼはカナタの手の上に、自分の手を重ねた。
「私の魔力の流れを感じてください」
リーゼの手から、温かな感覚が伝わってくる。
細い水流のようなものが、手のひらから腕へ、そして胸の奥へ流れていく。
「これが……魔力?」
「はい。今、私が流しています」
「温かい」
「その流れに、自分の力を重ねるようにしてください」
カナタは意識を集中した。
リーゼの魔力に、自分の中の何かを重ねる。
すると、魔石が一瞬だけ淡く明滅した。
管の先から流れていた水が、少しだけ強くなる。
「今、光った?」
「はい」
「俺が?」
「カナタの魔力が、少しだけ流れました」
「本当に?」
「はい」
リーゼが嬉しそうに笑う。
「初めてにしては上出来です」
「でも、一人じゃできない」
「最初は誰でもそうです」
リーゼは手を離した。
水の勢いが少し弱まる。
「明日から、少しずつ練習しましょう」
「うん」
カナタは頷いた。
魔法は、思っていたよりも難しい。
けれど、まったく使えないわけではない。
リーゼの助けがあれば、ほんの少しだけ動かせる。
「リーゼ」
「はい?」
「毎回、聞きに行ってもいい?」
「魔法の使い方を、ですか?」
「うん。灯りとか、シャワーとか」
「もちろんです」
リーゼは微笑んだ。
「分からないことを聞くのは、悪いことではありませんから」
「じゃあ、明日の朝も」
「はい。起こしに行ったときに、灯りと水回りの使い方を練習しましょう」
「起こしに来るのも命令だっけ?」
「そうです」
「なら、ついでに魔法の先生も頼む」
「分かりました」
リーゼは少しだけ胸を張った。
「しばらくは、私が教えます」
部屋へ戻る。
リーゼはカナタの部屋の魔導灯をもう一度確認し、壁の接続刻印を整えた。
「これで、朝まで灯りは保つはずです」
「ありがとう」
「シャワーを使ったあとは、最後にこの刻印へ触れてください。水が止まります」
「分かった」
「それから、魔導灯を消すときは、器具の下にある小さな印を押します」
リーゼが指で印をなぞる。
灯りが消え、部屋が暗くなる。
「こうです」
「なるほど」
リーゼがもう一度魔力を流すと、部屋が明るくなる。
「点けるときは、魔石に触れて魔力を流す」
「はい」
「消すときは印を押す」
「正解です」
「でも、俺は点けられない」
「今は、です」
リーゼは穏やかに言った。
「そのうち、一人でできるようになります」
カナタは魔導灯を見上げた。
柔らかな光が、部屋を照らしている。
元の世界の電灯とは違う。
けれど、暗闇を追い払うという役割は同じだった。
「……魔法って、便利だな」
「便利ですよ」
「でも、使えないと不便だ」
「だから、覚えましょう」
「うん」
リーゼは扉の前で立ち止まった。
「では、私は戻ります」
「今日はありがとう。灯りも、シャワーも」
「どういたしまして」
「明日の朝、起こしに来てくれ」
「はい」
「そのとき、また魔法を教えて」
「分かりました」
リーゼが部屋を出ていく。
扉が閉まる。
カナタはしばらく、明るくなった部屋を眺めていた。
伝書院の命令で、リーゼと同じ宿に泊まることになった。
隣の部屋にはリーゼがいる。
分からないことがあれば、すぐに聞きに行ける。
魔法の使い方も。
この世界のことも。
そして、今日の手紙のことも。
カナタはベッドへ横になった。
今度は、部屋の灯りを消すことができない。
仕方なく、リーゼが点けてくれた魔導灯をそのままにする。
淡い光の中で、青い便箋が静かに置かれている。
その隙間から、青い光が一度だけ漏れた。
誰にも気づかれないほど、かすかな光だった。
けれど、その光は確かに、遠く離れたどこかへ向かって伸びていた。
異世界へ来て数日。
白石彼方の新しい日常は、伝書院の命令と、隣の部屋にいるリーゼと、まだ使えない魔法とともに、始まったばかりだった。




