第5話 疑われる旅人
朝。
カナタは目を覚ますと、しばらく天井を眺めていた。
木の天井。
薄いカーテン。
窓から差し込む朝の光。
昨日までとは違う。
ここが日本ではないという現実を、少しずつ受け入れ始めていた。
「……今日から、どうするかな」
ベッドから起き上がる。
机の上には、青い便箋が置いてある。
その中には、あの羽根。
そして、街道で拾った青白い紙片。
カナタはそれを手に取った。
何度見ても、意味は分からない。
ただ、紙片に描かれている鳥の紋様が、伝書院の紋章と似ている。
昨日、リーゼから聞いた話を思い出す。
伝書人。
伝書院。
手紙。
旅。
そして、自分の中に起きた奇妙な現象。
手紙に触れた瞬間、誰かの感情が流れ込んできた。
「……あれは何だったんだろうな」
答えは出ない。
考えても分からないものは、今は置いておく。
カナタは荷物をまとめた。
バックパックを背負う。
日本から持ってきた道具。
水筒。
携帯食。
救急セット。
ライト。
ライター。
ナイフ。
スマートフォン。
そして、青い便箋。
これらは今のカナタにとって、数少ない「自分のもの」だった。
部屋を出る。
一階へ降りると、ミレアが朝食を用意していた。
「おはよう」
「おはようございます」
「眠れた?」
「はい。久しぶりによく眠れました」
「それはよかった」
ミレアがパンとスープを置く。
「食べてから行きなさい」
「ありがとうございます」
カナタが席につく。
少しすると、入口の扉が開いた。
「おはようございます」
聞き慣れた声。
カナタが振り向く。
「リーゼ」
「おはようございます、カナタ」
昨日と同じ伝書人の服装。
革製の伝書鞄。
胸元には銀色の徽章。
腰には短剣。
「迎えに来てくれたの?」
「はい」
リーゼは頷いた。
「昨日、今日も伝書院へ行くと言っていましたので」
「覚えてたんだ」
「もちろんです」
ミレアが二人を見ながら笑う。
「朝から仲がいいわね」
「そ、そういうわけでは……」
リーゼが少し慌てる。
「まだ会って二日目ですから」
「二日でも十分でしょう?」
「そういう問題では……」
カナタは苦笑した。
「リーゼ、からかわれてるぞ」
「……分かっています」
リーゼが少しだけ頬を膨らませる。
「ミレアさんは、いつもこうなんです」
「そうなの?」
「はい」
「なるほど」
カナタは笑った。
朝食を終える。
ミレアは昨日の宿代を請求しなかった。
「とりあえず、仕事が決まったら払えるときに払いなさい」
「本当にいいんですか?」
「ええ」
「ありがとうございます」
「ちゃんと戻ってきなさいよ」
「戻る?」
「仕事が決まったら、ここを使えばいいってこと」
ミレアは笑った。
「この街で寝る場所が必要になったらね」
カナタは少し驚いた。
戻ってきてもいい。
その言葉が、妙に嬉しかった。
「……はい」
カナタは頷いた。
「また来ます」
「待ってるわ」
宿を出る。
朝のリュネアは、昨日とは少し違っていた。
商店が開き始めている。
馬車が通る。
パンを焼く匂い。
人々の話し声。
子供たちの声。
街が目を覚ましていく。
カナタはリーゼの隣を歩いた。
「リーゼ」
「はい」
「伝書院って、昨日より人が多い?」
「朝は仕事が始まりますからね」
「そんなに忙しいんだ」
「毎日、たくさんの手紙が届きます」
「どれくらい?」
「日によりますが、数百通は普通です」
「数百……」
カナタは目を丸くした。
「それを全部?」
「受け取って、行き先を確認して、分類して、必要なら封の状態も確認します。それから、届ける人を決めます」
「大変だな」
「慣れればそうでもありません」
「俺には無理そう」
「最初は誰でもそうですよ」
「リーゼも?」
「もちろんです」
「意外だな」
「失礼ですね」
リーゼが少し笑う。
「私だって新人の頃は失敗しましたよ」
「どんな?」
「秘密です」
「気になるな」
「いつか話します」
「いつかって便利な言葉だな」
「そうですね」
二人はそんな話をしながら歩いていた。
やがて、昨日見た白い建物が見えてくる。
王都東部伝書院。
昨日と同じ羽根の紋章。
だが、今日は入口に人が集まっていた。
「おはようございます」
リーゼが声をかける。
「おはよう、リーゼ」
何人かの伝書人が挨拶を返す。
その視線がカナタへ向いた。
一人。
また一人。
そして、何人かが小声で話し始めた。
「……あの人?」
「昨日の……」
「森から来たっていう?」
「身分証がないらしい」
カナタにも聞こえていた。
「……」
足が止まりそうになる。
リーゼが気づく。
「気にしないでください」
「でも、聞こえるぞ」
「はい」
「俺、怪しまれてる?」
「……正直に言えば」
リーゼは少しだけ困った顔をした。
「まだ、そうだと思います」
「だよな」
カナタは苦笑した。
「逆の立場なら、俺も怪しむと思う」
「カナタは昨日、フォルネの森から一人で出てきましたから」
「しかも身分証なし」
「はい」
「出身も言えない」
「はい」
「日本なんて言っても知らない」
「……はい」
「そりゃ怪しいよな」
リーゼは少し申し訳なさそうにした。
「ですが、皆さんが悪いわけではないんです」
「分かってる」
カナタは頷いた。
「知らない人が突然現れたら警戒するよ」
伝書院へ入る。
昨日よりも多くの人がいる。
カナタが歩くたびに、何人かが視線を向ける。
その視線には好奇心もあった。
警戒もあった。
そして、明らかな疑念もあった。
「……ここにいて大丈夫かな」
「大丈夫です」
リーゼが答える。
「私が一緒にいます」
「それ、結構心強いな」
「ありがとうございます」
「いや、こっちが礼を言うところだろ」
「そうでした」
二人は奥へ進んだ。
昨日とは違う部屋へ案内される。
木製の扉。
その横には銀色のプレート。
リーゼが扉を二度叩いた。
「どうぞ」
中から声がする。
「失礼します」
リーゼが扉を開ける。
中には一人の男性がいた。
四十代ほど。
黒に近い髪。
落ち着いた服装。
机の上には大量の書類。
壁には大きな地図。
男性はリーゼを見る。
「リーゼか」
「はい」
それから、カナタを見る。
「……彼が?」
「はい」
リーゼが頷く。
「昨日お話ししたカナタです」
「座りなさい」
「失礼します」
カナタが椅子へ座る。
リーゼはその隣に立った。
「まず聞こう」
男性がカナタを見る。
「名前は?」
「白石彼方です」
「出身は?」
カナタは黙った。
「……遠いところです」
「昨日もそう答えたそうだな」
「はい」
「具体的には?」
「……」
言えない。
日本と言っても信じてもらえない。
そもそも、この世界のどこにもない。
「答えられません」
男性の目が細くなる。
「なぜ?」
「……事情があります」
「事情?」
「はい」
「身元を証明するものは?」
カナタは仮の入街証を出す。
「これだけです」
男性が木札を見る。
「これは街へ入るための仮証だ」
「はい」
「身分証ではない」
「……はい」
「なら、君が何者なのか分からない」
カナタは黙った。
「それだけなら、まだいい」
男性は続けた。
「問題は、君がフォルネの森から一人で出てきたことだ」
「……」
「森に入った理由は?」
「気づいたら、そこにいました」
「気づいたら?」
「はい」
「つまり、森へ入った記憶がない?」
「……そうです」
男性はしばらくカナタを見つめた。
「それは信じろというほうが難しいな」
「……ですよね」
カナタは苦笑した。
「俺だって信じられません」
男性の表情は変わらない。
「君は何か隠しているのか?」
「……」
「魔法使いか?」
「違います」
「どこかの国の工作員か?」
「違います」
「盗賊?」
「違います」
「犯罪者?」
「それも違います」
男性がリーゼを見る。
「君は、彼をどう見ている?」
「私は、危険な人物には見えません」
「根拠は?」
「昨日、私と話した限りでは」
「それだけか?」
「それだけではありません」
リーゼが一歩前へ出る。
「彼は森から一人で出てきましたが、魔物を倒した痕跡はありません」
「つまり?」
「戦うより、逃げることを選んだのだと思います」
「それが?」
「伝書人に必要な判断と同じです」
男性がリーゼを見る。
「……なるほど」
カナタはリーゼを見た。
そんなふうに考えてくれていたのか。
「それに」
リーゼが続ける。
「彼は昨日、伝書院で手紙に触れたとき、何かに驚いていました」
カナタの表情が固まる。
「……」
「その反応が、嘘をついている人のものには見えませんでした」
男性の視線がカナタへ戻る。
「手紙に触れた?」
「はい」
「何かしたのか?」
「……何もしてません」
「本当に?」
「はい」
カナタは答える。
「ただ、触っただけです」
嘘ではない。
だが、全部を話しているわけでもない。
あの感情のこと。
羽根のこと。
便箋のこと。
それはまだ誰にも話すつもりはなかった。
男性はしばらく沈黙した。
やがて、一枚の紙を取り出した。
「カナタ」
「はい」
「この街で働くなら、身元確認が必要になる」
「分かりました」
「だが、君にはそれができない」
「……はい」
「だから、今のままでは正式な仕事を紹介することはできない」
カナタは俯いた。
やっぱり。
当然だ。
何も証明できない自分を雇う人間なんていない。
「ただし」
男性が言った。
カナタが顔を上げる。
「伝書院には、外部協力員という制度がある」
「外部協力員?」
「正式な伝書人ではない。伝書院の管理下で、簡単な仕事を手伝う者だ」
「それなら、俺でも?」
「条件付きでな」
男性はリーゼを見る。
「リーゼ」
「はい」
「しばらく彼と行動してもらう」
「私が、ですか?」
「ああ」
リーゼが驚いた顔をする。
「カナタには、まだ信用がない」
男性は淡々と告げた。
「だから、単独行動は認めない」
「……」
「伝書院の中では、リーゼが責任を持って監督する」
「分かりました」
リーゼはすぐに頷いた。
「私が見ます」
カナタがリーゼを見る。
「いいの?」
「はい」
「迷惑じゃない?」
「大丈夫です」
リーゼは微笑んだ。
「私も、カナタのことをもっと知りたいですから」
「……そっか」
男性が続ける。
「まずは雑務だ」
「雑務?」
「荷物の整理。簡単な分類。街中での配達。伝書人の補助」
「それならできそう」
「ただし、伝書院の外へ出る場合は、必ずリーゼと一緒に行動すること」
「分かりました」
「勝手に森へ入ることも禁止する」
「もう入りたくないです」
男性が初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それならいい」
カナタは少しだけ安心した。
完全に信用されたわけではない。
むしろ、まだ怪しまれている。
それでも。
働く道は残された。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、仕事を続けられてからでいい」
「はい」
カナタは立ち上がった。
部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、カナタは大きく息を吐いた。
「疲れた……」
「お疲れ様でした」
リーゼが笑う。
「どうだった?」
「かなり緊張しました」
「俺も」
「カナタは堂々としていましたよ」
「内心はずっと逃げたかったけど」
「そうなんですか?」
「うん」
「そうは見えませんでした」
「山で逃げるのには慣れてるから」
「それを堂々と言うのも、どうなんでしょう」
二人は少し笑った。
そのとき。
廊下の向こうから、別の伝書人が歩いてきた。
彼方を見る。
足を止める。
「……あの人、本当に大丈夫なんですか?」
その声は小さかった。
だが、聞こえた。
リーゼが振り返る。
「大丈夫です」
「でも、身元が分からないんでしょう?」
「そうですが」
「昨日、森から出てきたって」
「はい」
「だったら……」
伝書人は言葉を濁した。
カナタは黙っていた。
怒る気にはなれなかった。
むしろ当然だと思う。
「俺、怪しいよな」
カナタが言った。
「カナタ……」
「いいよ、リーゼ」
カナタは苦笑した。
「俺が逆の立場なら、たぶん同じことを考える」
伝書人は少し気まずそうにした。
「……すみません」
「謝らなくていい」
カナタは笑った。
「俺自身も、自分が何者なのか説明できないから」
伝書人は何も言えなかった。
そのまま歩いていく。
だが、角を曲がる前に、伝書人は一度だけ振り返った。
廊下の奥に置かれた白い封蝋の封筒を確認するように視線を送り、それから足早に姿を消した。
リーゼはその動きに気づいたのか、封筒のほうへ目を向けた。
白い封蝋は、他の封蝋よりもわずかに光を吸い込んでいるように見えた。
「……あの封筒、何か特別なのか?」
カナタが尋ねる。
リーゼはすぐには答えなかった。
「さあ」
やがて、そう言って視線を戻す。
「伝書院では、扱いに注意する手紙もありますから」
「扱いに注意?」
「封を傷つけてはいけないものや、届け先を間違えてはいけないものです」
「なるほど」
リーゼはそれ以上、白い封蝋について話さなかった。
カナタの胸元で、便箋の中の羽根がかすかに震える。
今度は、さっきより長く。
まるで、遠くにある何かを探しているようだった。
カナタは無意識に胸元を押さえた。
「どうしました?」
「いや……」
羽根の震えは、すぐに止まった。
「なんでもない」
リーゼはカナタを見つめたが、追及はしなかった。
二人はそのまま歩き出した。
「気にしなくていいですよ」
「うん」
「時間がかかっても、少しずつ分かってもらえばいいんです」
「そうだな」
「まずは今日の仕事からです」
「もう仕事?」
「はい」
リーゼが一通の束を取り出した。
「これを分類するところから始めましょう」
「いきなり?」
「仕事ですから」
「厳しいな、リーゼ」
「当然です」
「昨日はあんなに優しかったのに」
「仕事中は別です」
リーゼが少しだけ笑った。
「カナタには、伝書院の仕事を覚えてもらわないといけませんから」
「分かった」
カナタは手紙の束を受け取った。
大小様々な封筒。
色も違う。
封蝋も違う。
宛先も違う。
まだ文字は読みにくい。
それでも、少しずつ見ていく。
「まず、どこから?」
「最初は地域ごとに分けます」
「地域?」
「はい。リュネア周辺。アルヴェリア西部。北部。南部。それから国外です」
「国外もあるんだ」
「もちろんです」
「じゃあ、エルフの国とか?」
「ありますよ」
「獣人の国も?」
「あります」
「魔族の国は?」
リーゼが少しだけ驚いた顔をした。
「……あります」
「そっか」
カナタは手紙を見つめた。
エルフ。
獣人。
魔族。
昨日、街で見かけた人々。
それが当たり前に存在する世界。
「本当に異世界なんだな」
カナタが呟く。
「はい」
リーゼが答える。
「ここはカナタの知らない世界です」
「うん」
「だから、分からないことがあれば何でも聞いてください」
「じゃあ、遠慮なく聞く」
「はい」
リーゼは微笑んだ。
「私が知っていることなら、何でも答えます」
カナタは手紙を一枚取った。
その瞬間。
胸元の便箋の中で、羽根がかすかに震えた。
カナタは一瞬、手を止めた。
だが、今度は何も起きなかった。
ただの震え。
そう思おうとした。
しかし。
少し離れた机の上に置かれた一通の封筒。
そこには、白い封蝋が使われていた。
羽根が、もう一度震える。
今度は、明らかにその封筒へ向かって。
カナタの指先が、わずかに熱を持った。
封筒のそばにいた職員が、こちらを見た。
ほんの一瞬だった。
だが、その職員は手を止め、白い封蝋の封筒を他の手紙からさらに遠ざけた。
そして、封筒の上に薄い布をかぶせる。
何気ない動作に見えた。
けれど、扱いは明らかに慎重だった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや……なんでもない」
リーゼは不思議そうにカナタを見る。
カナタは視線を戻した。
白い封蝋。
見覚えがあるような気がする。
でも、まだ思い出せない。
その封筒は、他の手紙とは少し離れた場所に置かれていた。
誰かが大切に扱っているようにも見えた。
いや。
大切にしているというより、触れることを避けているようにも見える。
カナタは知らない。
その封筒が、いつか自分たちの旅に関わることを。
ただ、胸元の羽根だけが、その存在を知っているようだった。
今はただ――
目の前に積まれた手紙を、一枚ずつ覚えるだけだ。
「カナタ」
「ん?」
「これ、こちらです」
「分かった」
リーゼと並んで、手紙を分類する。
まだ何も分からない。
まだ誰からも完全には信用されていない。
それでも。
昨日まで何も持っていなかった自分に、今日は仕事がある。
隣には、一緒に歩いてくれる人がいる。
カナタは小さく息を吐いた。
「……やってみるか」
「はい」
リーゼが頷く。
こうして、白石彼方の異世界での最初の仕事が始まった。
それはまだ、伝書人ではない。
ただの外部協力員。
身元の分からない旅人。
伝書院から見れば、まだ警戒すべき存在。
それでも。
カナタは初めて、この世界で自分の居場所を作るための一歩を踏み出した。
その一歩の隣には――
いつもリーゼがいた。




