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伝書人は今日も旅をする  作者: 金麦
第一部 風の向こうへ
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4/30

第4話 宿の灯りと知らない世界


 伝書院を出る頃には、空はすっかり夕暮れ色になっていた。


 昼間は青かった空が、赤や紫に染まっている。


 街のあちこちでは、昼間とは違う光が灯り始めていた。


 建物の壁に取り付けられた小さな球体。


 その中には、火ではない淡い光が浮かんでいる。


 魔法の明かりらしい。


 彼方は歩きながら、それを何度も見上げた。


「これも魔法?」


「はい。ミナという鉱石を使っているんです」


 隣を歩くリーゼが答える。


「鉱石?」


「正確には、魔力を蓄えやすい鉱石ですね。街の照明にはよく使われています」


「へえ……便利だな」


 彼方は足を止め、街灯を見上げた。


 淡い白色の光。


 電球とは違う。


 炎とも違う。


 けれど、ちゃんと周囲を照らしている。


「電気みたいなものか」


「デンキ……ですか?」


「ああ。俺のいたところでは、こういう明かりは電気を使ってた」


「なるほど……」


 リーゼは少し考えるように首を傾げた。


「カナタのいた場所には、ずいぶん珍しい技術があるんですね」


「たぶん、こっちとは発展の方向が違うんだと思う」


「発展の方向、ですか?」


「魔法が普通にある世界と、魔法がない世界。そういう違いかな」


 リーゼが目を瞬かせる。


「魔法が……ない?」


「うん」


「それは……不便そうですね」


「最初はそう思ったけど、向こうではそれが普通だったからな。慣れればどうってことないよ」


「そうなんですね」


 リーゼは納得したように微笑んだ。


「では、こちらの暮らしにも、そのうち慣れるかもしれませんね」


「そうだといいけどな」


 彼方は街を見回した。


 見知らぬ建物。


 見知らぬ人々。


 見知らぬ言葉。


 見知らぬ魔法。


 まだ何一つ、自分の知っているものとは一致しない。


 それでも、不思議とさっきよりは怖くなかった。


 隣にリーゼがいる。


 たったそれだけのことなのに、少しだけ安心できた。


「そういえば」


 彼方はリーゼを見る。


「さっき名前を教えてくれたけど」


「はい」


「俺、なんて呼べばいい?」


「え?」


「リーゼさんって呼べばいいのか?」


 リーゼは少し考え、それから柔らかく笑った。


「リーゼで大丈夫ですよ」


「いいの?」


「はい。カナタにそう呼ばれるのは、嫌ではありませんから」


「じゃあ、リーゼ」


「はい」


「俺のこともカナタでいいよ」


「……分かりました」


 リーゼは小さく頷いた。


「では、これからはカナタと呼ばせていただきますね」


「うん。そっちのほうが話しやすいし」


「そうですね。私のことも、リーゼと呼んでください」


「分かった」


 名前を呼び合う。


 それだけのことなのに、彼方は少しだけ、この世界に近づいたような気がした。


「ところで、リーゼ」


「はい」


「さっきから気になってたんだけど」


「何でしょう?」


「この街って、どんな街なんだ?」


「この街ですか?」


「うん。俺、本当に何も知らないから」


 リーゼは少し驚いたような顔をした。


 だが、すぐに頷く。


「そうでしたね。カナタは今日、初めてこの街に来たばかりでした」


 歩きながら、リーゼが説明を始める。


「ここは、アルヴェリア王国の王都、リュネアです」


「リュネア……」


「はい。王都の東側にあるのが、私たちのいるエルナ地区です」


「エルナ地区」


「伝書院もありますし、商人や旅人も多い場所ですね」


「だから馬車とかが多いのか」


「そうですね。東側には大きな街道がありますから」


 彼方は頷いた。


 地図が欲しい。


 そう思った。


 知らない土地を歩くなら、まず全体を把握したい。


 自分のいる場所。


 水場。


 街道。


 森。


 危険な場所。


 そして、目的地。


「地図って売ってる?」


「もちろんありますよ」


「よかった」


「そんなに地図が好きなんですか?」


「好きっていうか、ないと落ち着かないんだ。知らない場所なら、なおさら」


 リーゼはくすりと笑った。


「カナタは本当に旅人らしいですね」


「いや、ただの趣味だよ」


「旅が趣味だったんですか?」


「うん。知らない場所を歩くのが好きだった」


「それなら、この世界はカナタに合っているかもしれませんね」


「……そうかもな」


 彼方は笑った。


 だが、その笑顔は長く続かなかった。


 この世界を旅したい。


 そんな気持ちが、ほんの少し芽生える。


 でも――


 自分が帰れる保証はない。


 そもそも、どうしてここへ来たのかすら分からない。


 日本に帰る方法も分からない。


 家族は今頃どうしているだろう。


 母親には、昨日の夜まで普通に連絡をしていた。


 それなのに。


 突然、自分だけが消えた。


「……」


 彼方は足元を見る。


 リーゼは何も聞かなかった。


 ただ、彼方の歩幅に合わせるように、少しだけ速度を落とした。


「カナタ」


「ん?」


「もう少しで宿です」


「ありがとう」


 しばらく歩くと、細い通りに入った。


 大通りよりも静かだ。


 木造の建物が並んでいる。


 その中の一軒の前でリーゼが立ち止まった。


 建物の壁には、青い鳥のような生き物が描かれた看板が掛かっている。


 その下には、


 「ミレア・イン」


 と書かれていた。


「ここです」


「宿?」


「はい。私が時々利用している宿です」


 リーゼが扉を開ける。


 中へ入った瞬間、暖かい空気が彼方を包んだ。


 木の匂い。


 焼いた肉の匂い。


 香草のような匂い。


 そして、奥から聞こえる人々の話し声。


 宿というより、小さな食堂が一緒になっているような雰囲気だった。


「いらっしゃいませ……あら」


 カウンターの奥から、女性が顔を出した。


 栗色の髪を後ろでまとめている。


 年齢は三十代くらいだろうか。


「リーゼじゃない。今日はどうしたの?」


「こんばんは、ミレアさん」


 リーゼが頭を下げる。


「少しお願いがありまして」


 ミレアと呼ばれた女性が彼方を見る。


「そちらは?」


「カナタです」


「初めまして」


 彼方も頭を下げる。


「こんばんは」


 ミレアは彼方の服装を見た。


 そして、足元。


 荷物。


 仮の入街証。


 最後に顔を見る。


「……旅人?」


「まあ、そんな感じ」


「まあ、そんな感じって何よ。旅人なの? それとも迷子?」


「えっと……たぶん、旅人」


「たぶん、ねえ」


 ミレアは彼方をじっと見た。


 リーゼが苦笑する。


「少し事情がありまして」


「ふうん。リーゼが連れてくるなんて珍しいから、よっぽどの事情なんでしょうね」


「はい」


「それで?」


 ミレアは彼方に向き直った。


「食事は?」


「え?」


「今日、ちゃんと食べた?」


「……」


 彼方が黙る。


 リーゼが横で小さく笑った。


「昼間から、ほとんど食べていないんです」


「まあ! それを先に言いなさいよ」


 ミレアはすぐに奥へ向かった。


「カナタ、そこに座って。何か出すから」


「いや、でもお金が……」


「後でいいわ」


「え?」


「リーゼが連れてきた客でしょう?」


 ミレアは振り返り、呆れたように笑った。


「それに、そんな顔でお腹を空かせている人を追い返すほど、うちは冷たくないの」


「そんな顔って……」


「自覚がないなら、なおさら食べなさい」


「……ありがとうございます」


「お礼は食べてから。冷めるわよ」


 彼方は言われるまま席についた。


 しばらくして、木の皿が運ばれてくる。


 白いパン。


 焼いた肉。


 野菜のスープ。


 それから、見たことのない黄色い果物。


「これは?」


「ルーナです」


 リーゼが答える。


「甘いですよ」


「じゃあ、食べてみようかな」


「遠慮しなくていいわよ。食べられるだけ食べなさい」


 ミレアに促され、彼方は果物を一口食べた。


「……甘い」


「でしょう?」


 リーゼが嬉しそうに笑う。


「気に入ったみたいですね」


「これ、日本にはなかったな」


「ニホン?」


「あ……」


 彼方は口をつぐんだ。


 リーゼは首を傾げる。


「カナタがいた場所ですね」


「うん」


「いつか、話してくれますか?」


「……話せるときになったら」


「はい。無理に聞くつもりはありません」


 リーゼはそれ以上、尋ねなかった。


 ミレアは二人の様子を見ながら、空いた皿にパンを足す。


「話したくないことを無理に話す必要はないわ。でも、食べたくないなんて言うのは駄目よ」


「そこは別なんですね」


「別よ。食事は大事だもの」


 彼方はスープを口にする。


 暖かい。


 それだけで、身体の奥まで力が戻ってくる気がした。


 森で飲んだ水。


 携帯食。


 門をくぐったときの不安。


 全部が遠くなる。


「……うまい」


 彼方が呟く。


「よかったです」


 リーゼが笑う。


「本当に、食べるものって大事ですね」


「そうよ。食べて、寝て、それから考える。困ったときは、それが一番」


 ミレアが胸を張る。


「考えるのは、そのあとでいいの」


「ミレアさんらしいですね」


「何よ、それ」


「いえ、頼もしいなと思いまして」


「褒めても追加料金は取るわよ」


「取るんですか?」


 彼方が思わず聞き返す。


「冗談よ。今のところはね」


 ミレアがにやりと笑う。


 彼方は少し驚いたあと、初めて声を出して笑った。


 彼方はパンをちぎりながら答えた。


「昨日まで当たり前だったんだけどな」


「何が?」


「食べ物があることとか、寝る場所があることとか」


「そうね」


「帰る場所があることも」


 そこで、彼方の手が止まった。


 リーゼは何も言わない。


 ミレアも、さっきまでの軽い調子を引っ込めた。


 彼方はしばらく黙った。


 そして、少しだけ笑った。


「……ごめん。変な話した」


「謝らなくていいわよ」


 ミレアが静かに言った。


「お腹が空いてると、余計なことまで考えちゃうもの」


「それ、慰め方として合ってる?」


「合ってるわよ。だから、もう少し食べなさい」


 リーゼも穏やかに続けた。


「話したくなったときに、話してください。今すぐでなくても大丈夫です」


「ありがとう」


「どういたしまして」


「ほら、リーゼもそう言ってるんだから、今日は食べて寝る。明日のことは明日よ」


 ミレアが空いた皿を見下ろす。


「それにしても、よく食べたわね。見た目より入るじゃない」


「自分でも驚いてます」


「なら、まだ入るわね」


「えっ」


「冗談よ。半分くらいは」


 食事を終えたあと、ミレアが二階の部屋を案内してくれた。


「今日はここを使っていいわ」


 小さな部屋だった。


 木製のベッド。


 机。


 椅子。


 窓。


 壁にはランタンが掛かっている。


「本当にいいんですか?」


「ええ。一泊分くらいなら、リーゼから聞いた事情を考えれば問題ないわ」


「でも、俺、払えない」


「明日以降のことは明日考えればいいの」


 ミレアは腰に手を当てた。


「さっきも言ったでしょう? 困ったときは、食べて寝てから考えるの」


「宿屋の人がそれでいいんですか?」


「宿屋の人だから言ってるのよ。眠れない客は、翌朝もっと面倒なんだから」


「……ありがとうございます」


「お礼は元気になってからでいいわ」


 ミレアは少しだけ表情を和らげた。


「それに、リーゼが連れてきた人なら、変なことはしないでしょうし」


「私が保証します」


 リーゼが頷く。


「ほら、本人もそう言ってるわ」


「俺、まだ何もしてないけど」


「だから今のうちに信用しておくの」


 ミレアがそう言って、部屋を出ていく。


 彼方はベッドの端に腰掛けた。


 柔らかい。


 森の地面とは全然違う。


「……ベッドだ」


 思わず呟いた。


 今日一日。


 何度も、もう駄目かもしれないと思った。


 それでも今は、屋根の下にいる。


 食事もした。


 水もある。


 眠れる場所もある。


 それだけで、身体から力が抜けていく。


 リーゼは部屋の入口に立ったままだった。


「少しは安心できましたか?」


「うん。かなり」


「よかったです」


「リーゼ」


「はい?」


「この世界のこと、もう少し教えてほしい」


「もちろんです」


 リーゼは椅子に座った。


「何から聞きたいですか?」


「まず……この国」


「アルヴェリア王国ですね」


「どんな国?」


「大きな国ですよ。ここから西へ行くと王城があります。北には大きな山脈があって、南には海があります」


「海もあるんだ」


「はい。港町もありますよ」


「東は?」


「東には大きな森があります」


「……」


 彼方の顔が少し固まった。


「もしかして、今日俺がいた森?」


「おそらく違います」


「違うの?」


「カナタが出てきた森は、リュネアの近くにあるフォルネの森でしょう」


「フォルネ……」


「魔物が多いことで有名です」


「やっぱりあそこ危険なんだ」


「かなり危険です」


 リーゼは真剣な顔になった。


「普通の旅人が一人で入る場所ではありません」


「……よく生きてたな、俺」


「本当にそう思います」


 リーゼは苦笑した。


「次からは、絶対に一人で入らないでくださいね」


「次がある前提なの?」


「ない前提で言っています」


「それなら安心だ」


「安心していいところでしょうか……」


 リーゼは困ったように笑った。


「魔物って、やっぱりこの世界じゃ普通にいるの?」


「はい」


「どれくらい?」


「種類によります。街の外なら、どこにでもいると思ってください」


「どこにでも……」


「小さなものなら、それほど危険ではありません。ただ、大型のものや群れで行動するものには注意が必要です」


「なるほど」


「だから旅人には、護衛を雇う方も多いです」


「伝書人も?」


「もちろんです」


 リーゼは胸元の銀章に触れた。


「私たちは一人で旅をすることも多いので、基本的な戦い方は身につけています」


「その短剣?」


「はい」


 リーゼは腰の短剣を軽く見せた。


「私は短剣を使います」


「強い?」


「普通……だと思います」


「普通?」


「伝書人として必要な程度ですよ」


「その言い方、たぶん普通じゃないやつだろ」


「そうでしょうか?」


「だって、魔物がいる森を一人で歩けるんだろ?」


「一人で歩けるとは言っていません。危険を避けているだけです」


「それができる時点で十分すごいと思うけど」


 リーゼは少し照れたように視線を逸らした。


「……褒めても何も出ませんよ」


「別に何か欲しくて言ったわけじゃないよ」


「そうですか」


「それでも魔物と戦うんだろ?」


「戦うこともあります。でも、できるだけ戦いません」


 彼方は少し意外に思った。


「戦わないの?」


「はい」


 リーゼは穏やかに笑った。


「伝書人の目的は、魔物を倒すことではありませんから」


「手紙を届けること?」


「その通りです」


「じゃあ、逃げるのも仕事のうち?」


「立派な仕事です」


 彼方は思わず笑った。


「なんか安心した」


「どうしてですか?」


「俺、あの森で魔物から逃げまくったから」


「それなら、カナタは伝書人に向いているかもしれませんね」


「本当に?」


「はい。逃げる判断ができるのは、大切なことです」


「剣は?」


「覚えればいいと思います」


「魔法は?」


「少しずつ覚えればいいです」


「文字は?」


「それも勉強すれば大丈夫です」


「金は?」


 リーゼが少し困った顔をする。


「……それは、働きましょう」


「そこだけ急に現実的だな」


「お金は、待っていても増えませんから」


「だよな」


 二人で笑った。


 彼方は机の上に置いた自分の財布を見る。


 日本の硬貨。


 日本の紙幣。


 自分にとっては当たり前のもの。


 けれど、ここでは何の価値もない。


「こっちのお金って、どんなの?」


「エルです」


「エル?」


「はい。普段使うのはエル硬貨ですね」


「紙幣は?」


「ありますよ。高額になると紙札を使います」


「一エルって、どれくらい?」


「物によりますね。パンなら二エルくらいでしょうか」


「さっきのパン?」


「はい」


「じゃあ、宿は?」


「この宿なら、一泊で十五エルくらいです」


「十五……」


 彼方は頭の中で計算する。


 今の自分には一エルもない。


「働かないと、本当に何もできないな」


「そうですね」


 リーゼは申し訳なさそうに言った。


「ただ、身分証がないのは少し問題があります」


「やっぱり?」


「仕事をする場合、登録が必要になることが多いです」


「その登録って、伝書院でもできる?」


「できます」


 リーゼは頷いた。


「だから、明日責任者に会ってほしいんです」


「伝書人になるってこと?」


「まだ決まったわけではありません」


「でも、俺にはそれしかないか」


「そんなことはありませんよ」


 リーゼはすぐに首を振った。


「カナタにできる仕事は、きっと他にもあります」


「……そっか」


「ただ」


「ん?」


「私は、カナタが伝書人になったら面白いと思っています」


「どうして?」


「今日の話を聞いていると、カナタは道を歩くことが好きなのでしょう?」


「うん」


「なら、旅をしながら働けます」


「……それはちょっと楽しそうだな」


「でしょう?」


 リーゼが珍しく、少しだけ得意そうに笑った。


 彼方は窓の外を見る。


 夜のリュネア。


 淡い光が街を照らしている。


 知らない世界。


 知らない国。


 知らない街。


 なのに、その先にたくさんの道がある。


「リーゼは、なんで伝書人になったの?」


「私ですか?」


「うん」


 リーゼは少し黙った。


「……人から人へ、言葉を届ける仕事だからです」


「それだけ?」


「それだけで十分だと思っています」


「そっか」


「それに」


 リーゼは窓の外を見た。


「私は、いろいろな場所を見るのが好きなんです」


「俺と同じじゃん」


「そうかもしれませんね」


 リーゼは微笑んだ。


「だから、私はこの仕事が好きです」


 彼方は、その言葉を聞いて少しだけ笑った。


 昨日まで、自分は日本で普通に暮らしていた。


 大学へ行って。


 友達と話して。


 家に帰って。


 次の休みにどこへ行こうか考えていた。


 それが突然、全部なくなった。


 なのに今。


 目の前には、また「旅」という言葉がある。


「……リーゼ」


「はい?」


「明日、伝書院に行ってみる」


「本当ですか?」


「うん。話を聞くだけでも、行ってみたい」


「ありがとうございます」


「なんでリーゼがお礼言うんだよ」


「なんとなくです」


「変なの」


「そうでしょうか?」


「そうだよ」


 二人で笑った。


 そのとき、廊下からミレアの声が聞こえた。


「リーゼー! そろそろ帰らないと遅くなるわよー!」


「あっ」


 リーゼが立ち上がる。


「もうこんな時間ですか」


「帰るの?」


「はい。私も宿がありますので」


「そっか」


 リーゼが扉へ向かう。


 彼方は、なぜか少し寂しく感じた。


 まだ会ってから、ほんの少ししか経っていない。


 それなのに、この世界で初めて知り合った人だった。


「じゃあ、また明日」


 彼方が言う。


「はい。また明日、カナタ」


 リーゼは微笑んだ。


「おやすみなさい」


「おやすみ、リーゼ」


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかっていく。


 彼方は一人になった。


 部屋は静かだった。


 窓の外から、街の音がかすかに聞こえる。


 彼方はベッドへ横になった。


「……明日、か」


 その言葉を口にしただけで、胸の奥が少し軽くなる。


 明日になれば、伝書院へ行く。


 この世界のことをもっと知る。


 仕事を探す。


 お金を得る。


 そして――


 いつか日本へ帰る方法も探す。


 やることは、まだ山ほどある。


 彼方は目を閉じた。


 眠りにつく直前。


 机の上に置いていた青い便箋の中から、かすかな音がした。


 彼方は目を開ける。


「……羽根?」


 便箋を手に取る。


 中には、あの淡い青色の軸を持つ羽根。


 そして、街道で拾った青白い紙片。


 彼方は羽根を指でつまんだ。


 何も起きない。


「気のせいか」


 そう呟いて、便箋を閉じる。


 だが、その瞬間。


 窓の外から風が吹いた。


 カーテンが揺れる。


 その風に合わせるように、便箋の鳥の絵が一瞬だけ淡く光った。


 彼方は気づかなかった。


 もう一度、目を閉じる。


 異世界へ来て三日目の夜。


 彼方は初めて、安心して眠れる場所を手に入れた。


 そして明日。


 彼方の知らない世界が、もう少しだけその姿を見せ始める。


 その先に待っているのが――


 伝書人という、新しい人生だった。

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