第3話 羽根の紋章
腹が減った。
白石彼方が異世界へ来てから、最初に強く感じたのは、そのことだった。
街に入ってから、すでに一時間ほど歩いている。
珍しい建物。
見たことのない種族。
魔法らしき光。
馬車。
露店。
何もかもが新鮮だった。
けれど、今の彼方には、それらをゆっくり眺めている余裕がなかった。
「……腹減ったな」
小さく呟く。
最後に食事をしたのは、昨日の夜。
それから森を歩き、魔物から逃げ、街まで辿り着いた。
持っていた携帯食は、すでに半分以上なくなっている。
水も残り少ない。
そして何より――
金がない。
彼方は財布を開いた。
日本円。
硬貨。
紙幣。
見慣れたものが並んでいる。
この世界の人間にとっては、ただの綺麗な紙と金属だろう。
「……これじゃ何も買えないよな」
財布を閉じる。
ポケットの中にはスマートフォン。
電源は入らない。
モバイルバッテリーはある。
だが、充電する場所がない。
仮の入街証はある。
しかし、それだけだ。
寝る場所もない。
食べるものもない。
働く場所もない。
この世界の言葉は、幸いにもなぜか理解できる。
文字はまだほとんど読めない。
そして、自分がどこから来た人間なのか説明することもできない。
「……詰んでるな」
彼方は苦笑した。
異世界に来た。
それ自体は、まだ現実として受け入れきれていない。
でも、現実として受け入れなければならない問題はいくらでもある。
衣食住。
まずはそこからだ。
特に今夜。
どこで寝るか。
それが一番の問題だった。
街を歩きながら、彼方は宿を探した。
しかし、宿屋の看板を見つけても、値段が分からない。
そもそも、財布の中身では払えない。
試しに一軒の宿へ入ってみた。
「一泊、いくらですか?」
主人が数字を告げる。
彼方は財布を見る。
日本円。
当然、使えない。
「……すみません」
それだけ言って出てきた。
二軒目も同じ。
三軒目では、
「身分証は?」
と聞かれた。
彼方は木札を見せる。
昨日もらった仮の入街証。
主人は怪訝そうな顔をした。
「これだけか?」
「はい」
「……まあ、頑張れ」
それ以上は何も言われなかった。
彼方は店を出た。
「頑張れって……」
苦笑する。
言われなくても頑張るしかない。
空を見上げる。
太陽が傾き始めている。
夜になる。
街の中なら森よりは安全だろう。
なら、最悪の場合は公園か、建物の軒下でも探すしかない。
そう考えながら歩いていると――
腹が鳴った。
「……」
彼方は周囲を見回した。
誰にも聞かれていない。
たぶん。
少しだけ安心した。
そのときだった。
「……あの」
背後から声がした。
彼方が振り返る。
そこに、一人の少女が立っていた。
淡い栗色の髪。
肩より少し長いセミロング。
片側を小さな髪留めで留めている。
青緑色の瞳。
白いブラウスに紺色のベスト。
膝丈のスカート。
肩には革製の伝書鞄。
彼方が今日、何度も見かけた服装だった。
「……何か?」
少女は少しだけ困ったような顔をする。
「さっきから、伝書院の前にいましたよね?」
「え?」
「それから、宿を何軒か見て回ってましたよね」
「……見てたんですか?」
「見てたというか……」
少女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「目立っていたので」
「そんなに?」
「かなり」
即答だった。
彼方は自分の服を見る。
泥。
枝でついた傷。
日本の服。
この世界では確かに浮いている。
「……まあ、そうですよね」
「それに」
少女は彼方の顔を見る。
「お腹、空いてますよね?」
「……」
彼方は固まった。
少女は少しだけ笑った。
「聞こえました」
「……最悪だ」
顔が熱くなる。
「すみません」
「謝らなくて大丈夫ですよ」
少女は鞄の中から小さな包みを取り出した。
「これ、よかったら」
「え?」
「パンです」
彼方は受け取らなかった。
「いや、そんな……」
「食べてください」
「でも」
「私、一人じゃ食べきれないので」
どう見ても嘘だった。
包みの大きさからして、一人分だ。
彼方は少し迷った。
だが、空腹には勝てなかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
包みを開く。
固めのパン。
中には野菜と肉らしきものが挟まっている。
彼方は一口食べた。
「……うまい」
思わず声が出た。
少女が笑う。
「よかった」
彼方は夢中になって食べた。
数分後。
包みは空になっていた。
「……すみません」
「本当にお腹空いてたんですね」
「はい……」
少女は苦笑した。
「それなら、もっと早く声をかければよかったです」
彼方は改めて少女を見る。
優しそうな人だった。
ただ、よく見ると腰に短剣を下げている。
「あなたも……伝書人なんですか?」
少女は自分の服を見る。
「あ、はい」
「伝書人って、あの建物の?」
「はい。伝書院の所属です」
少女は胸元につけた徽章を見せた。
銀色。
彼方はそれを見つめた。
「それって……資格みたいなものですか?」
「そうですね。銀章です」
「銀章……」
「私はリーゼ・アルヴァリア。伝書人をしています」
それが、彼方が初めて聞いた彼女の名前だった。
「白石彼方です」
「白石……カナタさん?」
「はい」
リーゼは少し不思議そうに彼方を見る。
「珍しい名前ですね」
「そうですか?」
「はい。こちらではあまり聞かない名前です」
「……こちらでは?」
彼方はその言葉に引っかかった。
だが、リーゼは気にした様子もなく続けた。
「カナタさんは、どこから来たんですか?」
「……」
彼方は答えに詰まった。
日本。
そう言っても、この世界では意味がない。
そもそも、どう説明すればいい。
空から落ちてきた。
森で目を覚ました。
そんなことを言えば、頭のおかしい人だと思われるだろう。
「……遠いところです」
結局、それしか言えなかった。
「そうですか」
リーゼはそれ以上聞かなかった。
それが彼方にはありがたかった。
「でも、困ってますよね?」
「……まあ」
「泊まる場所は?」
「ありません」
「食べ物は?」
「さっきいただいたパンが最後です」
「お金は?」
「ありません」
「身分証は?」
「仮の入街証だけです」
リーゼは黙った。
そして、
「……本当に、何もないんですね」
「はい」
「よく森から生きて出てきましたね」
彼方は少し驚いた。
「知ってるんですか?」
「門番の人たちから聞きました。森の方から一人で出てきたって」
「そうなんですね」
「普通なら、もっと怪我をしていてもおかしくないんですよ」
リーゼは彼方の腕を見る。
枝で切った傷。
泥。
擦り傷。
「それだけで済んだのは、運がよかったですね」
「……たぶん」
彼方は苦笑した。
「一応、山とかはよく行っていたので」
「山?」
「はい。日本で」
「日本……?」
「……」
彼方はまた黙った。
リーゼは首を傾げる。
「国の名前ですか?」
「……そうです」
「聞いたことがありません」
「でしょうね」
彼方は苦笑する。
やっぱり説明するのは難しい。
リーゼは少し考えたあと、
「とりあえず、伝書院に来ませんか?」
「え?」
「この時間なら、まだ責任者がいます」
「でも、俺……」
「住む場所がないんですよね?」
「はい」
「なら、相談するだけでもしてみましょう」
彼方は迷った。
伝書院。
さっきから妙に気になっていた建物。
その中へ入る。
何か分かるかもしれない。
少なくとも、今夜をどうするかの手掛かりはある。
「……お願いします」
「はい」
リーゼが歩き出す。
彼方も後ろについていく。
伝書院の扉が開く。
中へ入った瞬間、紙の匂いがした。
壁一面に並んだ棚。
大小様々な封筒。
木箱。
地図。
掲示板。
そして、忙しそうに行き交う人々。
「ここが伝書院です」
リーゼが説明する。
「ここで手紙を預かって、行き先ごとに分けます。そして伝書人が各地へ届けます」
「街の外まで?」
「もちろん」
「魔物がいるのに?」
「だから私たちは、ある程度戦える必要があります」
リーゼは腰の短剣に触れる。
「長距離の伝書人には、野外活動や魔物への対処、簡単な戦闘などの試験があります」
彼方は周囲を見る。
伝書人たちはみな、旅装束。
腰には武器。
背中には荷物。
彼方が想像していた「手紙を配る仕事」とは、ずいぶん違った。
「……結構、大変なんですね」
「大変ですよ」
リーゼは笑う。
「でも、私は好きです」
「どうして?」
リーゼは少し考えた。
「手紙って、不思議だと思いませんか?」
「不思議?」
「どんなに遠くにいる人でも、言葉を届けられるんです」
彼方は黙った。
昨日の女性を思い出した。
――誰かが運ばなきゃいけない。
――言葉って、書いただけでは届かないから。
「……そうですね」
彼方は小さく答えた。
そのときだった。
リーゼの持っていた伝書鞄から、一通の手紙が滑り落ちた。
「あっ」
彼方が拾おうとする。
指先が封筒に触れた。
瞬間、青い羽根が胸元でかすかに震えた。
次いで、便箋の奥から、冷たい風のようなものが流れ込んでくる。
寂しい。
会いたい。
でも、会えない。
ごめんなさい。
ありがとう。
声ではない。
文字でもない。
誰かの感情だけが、言葉になる前の形で彼方の中を通り抜けていく。
彼方は反射的に手を離した。
「……っ」
息が詰まる。
封筒は床に落ちた。
その表面に描かれた細い線が、一瞬だけ青く揺らめいた気がした。
「どうしました?」
リーゼが驚いた顔をする。
「いえ……」
彼方は手紙を見る。
ただの封筒。
なのに、まだ胸の奥に誰かの寂しさが残っている。
指先には、青い羽根の震えが残っていた。
リーゼが手紙を拾い上げる。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
彼方は手を握った。
今のは何だったのか。
分からない。
ただ、手紙に触れた瞬間、青い羽根が震え、誰かの感情が自分の中へ入ってきた。
そのことだけは、はっきりしていた。
「……変な人ですね」
リーゼが言った。
「え?」
「いえ」
彼女は少し笑った。
「初対面の人の手紙を触って、そんな顔をする人は初めて見ました」
「……そうですよね」
彼方も苦笑する。
そして、ふと伝書院の奥を見る。
壁に大きな紋章が飾られていた。
羽根を模した紋章。
その中央には、一本の細い線。
彼方の便箋に描かれた鳥と同じ線だった。
彼方の胸元で、青い羽根がまたかすかに震える。
今度は、便箋までがわずかに温かくなった。
リーゼは気づいていない。
彼方はそれをそっと押さえた。
「……この紋章って?」
「ああ、伝書院の紋章です」
「羽根?」
「はい。風に乗って、どこまでも言葉を運ぶ――という意味です」
彼方は紋章を見上げた。
羽根の輪郭。
中央を走る細い線。
便箋に描かれた鳥。
胸元で震える青い羽根。
偶然にしては、どれもが同じ場所を指しているように思えた。
けれど、何を指しているのかまでは分からない。
分からないまま、青い羽根だけが、紋章に呼応するように小さく震えていた。
昨日買った便箋。
拾った羽根。
今日出会った伝書人。
すべてが偶然なのか。
それとも――
彼方はまだ何も分からない。
異世界に来た理由も。
この羽根の意味も。
自分の中に芽生えた不思議な力も。
そして、この世界でどう生きていくのかも。
ただ一つだけ。
今夜の寝床すら決まっていない彼方にとって、
伝書院という場所は初めて、
「明日」
というものを考えられる場所だった。
「カナタさん」
リーゼが呼ぶ。
「はい?」
「明日、少し時間ありますか?」
「……あります」
「でしたら、責任者に会ってください」
「何か仕事を?」
「それは、話をしてからですね」
リーゼは微笑んだ。
「もしかしたら、あなたにできることが見つかるかもしれません」
彼方はその言葉を聞き、少しだけ伝書院の中を見渡した。
棚に並ぶ無数の手紙。
旅へ出る伝書人。
帰ってくる伝書人。
誰かから誰かへ届けられていく言葉。
その光景を見ていると、不思議と胸が落ち着いた。
昨日までの自分には、想像もできなかった場所。
それなのに――
どこか懐かしい。
彼方は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
リーゼは頷いた。
「では、今日は私の知り合いの宿に相談してみましょう。事情を話せば、一晩くらいなら何とかなると思います」
「そこまでしてもらっていいんですか?」
「困っている人を放っておけませんから」
「……ありがとうございます」
彼方は頭を下げた。
リーゼは少しだけ照れたように笑った。
「お互い様です」
そのとき。
彼方の胸元にしまわれた青い羽根と便箋が、同時にかすかに温かくなった。
伝書院の紋章を見上げる。
羽根の中央を走る細い線が、夕暮れの光の中で一瞬だけ青く見えた。
まるで、遠くにある何かが、こちらを見つけたように。
彼方はまだ知らない。
目の前にいる少女が、この先何度も自分と旅をすることになることを。
自分が伝書人として、様々な人の想いを届けることになることを。
そして――
この日拾った一枚の羽根が、遠い未来へ続く旅の始まりだったことを。
今の彼方に分かるのは、ただ一つ。
今日は、眠る場所が見つかりそうだ。
それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
異世界へ来て二日目。
彼方は初めて、この世界で明日を迎える準備を始めた。




