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伝書人は今日も旅をする  作者: 金麦
第一部 風の向こうへ
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2/30

第2話 知らない空の下で


 知らない空だった。


 白石彼方は、森の中に立ったまま、しばらく空を見上げていた。


 青い。


 日本で見る空と、何も変わらないように思えた。


 太陽もある。


 雲もある。


 風も吹いている。


 けれど、どこか違う。


 理由は分からない。


 ただ、見慣れない。


 それだけだった。


「……本当に、異世界なのか」


 口に出してみる。


 返事はない。


 当然だった。


 周囲には誰もいない。


 聞こえるのは鳥の声と、木々が風に揺れる音だけ。


 彼方は一度目を閉じ、深く息を吸った。


 湿った土の匂い。


 草の青臭さ。


 少し冷たい空気。


 夢ではない。


 さっきまでの出来事も、森を走ったことも、背後から追ってきたあの獣も、すべて現実だった。


 彼方は手の中にあるものを見る。


 一枚の羽根。


 白とも灰色ともつかない羽根。


 その軸だけが淡い青色をしている。


 先ほどは確かに光った。


 だが、今は何の変化もない。


 それでも、羽根の先は風もないのに、かすかに城壁の見える方角を向いていた。


「……何なんだ、これ」


 羽根を指先で回してみる。


 軽い。


 普通の鳥の羽根にしか見えない。


 けれど、指を止めると、羽根はまた同じ方角へ戻った。


 彼方は捨てる気になれなかった。


 バックパックから便箋を取り出す。


 昨日、商店街の文房具店で買ったものだ。


 淡い青色の表紙。


 中央には、小さな鳥。


 そして、その翼から伸びる一本の細い線。


 昨夜拾った羽根は、その便箋の一枚目に挟まれている。


 羽根を重ねると、紙の上の鳥の翼と、羽根の青い軸がぴたりと重なった。


 偶然にしては、妙に出来すぎている。


 彼方が便箋を傾けると、表紙の鳥の目が一瞬だけ光を拾った。


 次の瞬間には、ただの印刷に戻っている。


「……まあ、考えても分からないか」


 彼方は便箋をしまった。


 羽根を挟んだまま、今度はバックパックの内ポケットへ入れる。


 今は、それより優先することがある。


 生きること。


 彼方はバックパックの中身を確認した。


 水筒。


 携帯食。


 救急セット。


 小型ライト。


 ライター。


 折り畳み式のナイフ。


 それから財布。


 スマートフォン。


 モバイルバッテリー。


 財布の中に入っている現金は、この世界では何の意味もないだろう。


 スマートフォンも電波がなければ使えない。


 モバイルバッテリーも、いつまで持つか分からない。


 それでも、今すぐ使えるものはある。


「水は……まだある」


 水筒を振る。


 十分とは言えない。


 携帯食も数日分程度。


 ならば、やることは決まっている。


 水を確保する。


 安全な場所を見つける。


 人を探す。


 そして――


 この世界がどこなのか知る。


 彼方は森を見渡した。


 さっきまで追われていた獣の姿はない。


 だが、戻る気にはなれない。


 あの獣が一匹だけだった保証はない。


 それに、森の奥からは、さっきから妙な音が聞こえていた。


 低く、湿った呼吸音。


 風が木々を揺らす音に混じって、時折、喉の奥で何かを鳴らすような音がする。


 彼方は息を殺した。


 音が止まる。


 森も、彼方の様子を窺っているようだった。


 数秒後、遠くで枝が折れた。


 一本ではない。


 二本、三本。


 何かがこちらへ近づいている。


 彼方は反射的にナイフへ手を伸ばした。


 だが、握ったところでどうにかなる相手ではない。


 昨日の獣の姿が脳裏に浮かぶ。


 あの牙。


 あの速度。


 あの、こちらを獲物として見る目。


 彼方は音の反対側へ、ゆっくりと後ずさった。


 足元の枝を踏まないようにする。


 呼吸を浅くする。


 やがて、木々の隙間に黒い影が見えた。


 獣のような輪郭。


 だが、昨日のものより大きい。


 肩の高さが、彼方の胸ほどもある。


 影は立ち止まり、鼻を鳴らした。


 彼方の匂いを探している。


 彼方は動かなかった。


 影の奥で、何かが光った。


 目だ。


 一つではない。


 暗がりの中に、赤い光が二つ並んでいる。


 彼方の背中を冷たい汗が伝った。


 そのとき、内ポケットの中で羽根がかすかに震えた。


 彼方は反射的に胸元を押さえる。


 羽根の震えは、影にも伝わったらしい。


 赤い目が、彼方のいる方向へ向いた。


 次の瞬間、影が地面を蹴った。


 彼方は走った。


 考えるより先に、身体が動いていた。


 枝が顔を打つ。


 足元が滑る。


 背後で、木をへし折る音が響く。


 振り返らない。


 振り返れば、足が止まる。


 足が止まれば、追いつかれる。


 彼方はただ、木々の間から見えた城壁の方角へ走った。


 やがて背後の音が遠ざかった。


 彼方は倒れ込むようにして木の陰へ身を隠した。


 荒い息を押し殺す。


 耳を澄ます。


 何も聞こえない。


 だが、安心はできなかった。


 あの影が諦めたのか。


 それとも、音を立てずに近づいているのか。


 彼方は数分間、身動きしなかった。


 ようやく周囲を確認し、獣の気配がないことを確かめる。


 それでも、森の奥へ戻る気にはなれなかった。


 彼方は、城壁が見えた方向へ進むことにした。


 歩き始めてから、すぐに違和感に気づいた。


「……静かすぎるな」


 森そのものは騒がしい。


 鳥の声。


 虫の音。


 葉の揺れる音。


 それなのに、人間の気配がない。


 日本なら、どれだけ山奥でも道路や建物、電線のどれかが見つかることが多い。


 しかし、この森にはそれらが一切なかった。


 彼方は時々立ち止まり、周囲を確認した。


 枝の折れ方。


 動物の足跡。


 風向き。


 太陽の位置。


 今まで趣味で山へ行ってきた経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。


 ただ、今はそれだけでは足りない。


 足跡の中には、見たことのないものが混じっていた。


 四本の爪が深く土へ食い込み、前足だけが異様に大きい。


 その足跡は、彼方が進もうとしている方向と同じ方角へ続いていた。


 彼方は足跡の縁を指でなぞった。


 まだ崩れていない。


 新しい。


 さっきの獣かもしれない。


 彼方は進む方向を変えようとした。


 だが、森の奥から再び低い唸り声が聞こえた。


 別の方向へ逃げれば、さらに深い森へ入ることになる。


 彼方は唇を噛んだ。


「……人生、何が役に立つか分からないな」


 苦笑しようとしたが、声が震えた。


 彼方は足跡を避け、できるだけ開けた場所を選んで歩いた。


 しばらくすると、小さな沢を見つけた。


 透明な水が岩の間を流れている。


 彼方はすぐには飲まなかった。


 水の流れを上流まで目で追う。


 死んだ動物や腐った植物がないか確認する。


 匂いを嗅ぐ。


 そして、少量だけ水筒へ汲んだ。


 そのとき、内ポケットの中で羽根がかすかに震えた。


 彼方は手を止めた。


 沢の向こう。


 木々の間に、何か白いものが見えた。


 布のようにも、骨のようにも見える。


 彼方はナイフを抜き、慎重に近づいた。


 白いものは、動物の肋骨だった。


 大きい。


 彼方の腕ほどもある骨が、泥の中から何本も突き出している。


 肉はほとんど残っていない。


 だが、骨の表面には黒い斑点が広がっていた。


 腐敗ではない。


 焼け焦げたような跡だった。


 彼方は周囲を見回した。


 沢の水は透明だ。


 それでも、ここで火を起こすのは危険かもしれない。


 煙が獣を呼ぶ可能性がある。


 彼方は水を汲み、沢から少し離れた場所へ移動した。


「煮沸したほうがいいな」


 火を起こす。


 ライターの火がついた。


 その小さな炎を見て、彼方は少し安心した。


 ここがどんな場所でも、火は火だ。


 水は水。


 自分の知っていることが、まだ通用する。


 それだけで心強かった。


 だが、炎が揺れた。


 風はない。


 彼方は顔を上げた。


 森の奥から、何かがこちらを見ている気配がした。


 火を消すべきか。


 それとも、火を残して獣を遠ざけるべきか。


 判断できない。


 彼方は迷った末、火を小さく保った。


 水を温めている間、彼方は周囲を観察した。


 見たことのない植物。


 赤い実をつけた木。


 紫色の小さな花。


 どれも日本で見たことがない。


 赤い実の一つが、風もないのに揺れた。


 彼方はすぐに視線を逸らした。


「食べられるかどうか分からないものは、絶対に食べない」


 独り言を言う。


 誰かに教わったわけではない。


 山歩きをしていた頃に覚えた、ごく当たり前のことだった。


 食べ物は持っている。


 わざわざ未知の植物を食べる必要はない。


 やがて水が沸騰した。


 彼方は水を冷まし、少しだけ口にする。


 問題はない。


 それでも一気には飲まない。


 水筒に戻す。


 携帯食を一つ食べる。


 味はいつも通りだった。


 なのに、妙に安心した。


 それは日本で食べていたものと同じ味だったからだ。


 食べ終えた直後、森の奥で何かが鳴いた。


 鳥の声ではない。


 獣の咆哮でもない。


 金属を擦り合わせたような、耳障りな音だった。


 彼方は携帯食の袋を握りつぶした。


 火を消す。


 荷物をまとめる。


 沢の水音に紛れるように、できるだけ静かにその場を離れた。


「……帰りたいな」


 歩きながら、ふと、言葉が漏れた。


 両親。


 大学。


 友人。


 これから始まるはずだった仕事。


 昨日買った便箋。


 母親に書こうと思った手紙。


 全部、向こう側にある。


 彼方は目を伏せた。


 便箋の表紙に描かれた鳥が、脳裏に浮かぶ。


 あの鳥は、どこへ向かって飛んでいるのだろう。


 そして、自分はどこへ向かっているのだろう。


 泣くほどではない。


 けれど、胸の奥が重い。


 背後で、枝が折れた。


 彼方は振り返らなかった。


 歩く速度だけを上げる。


 もう一度、枝が折れた。


 今度は近い。


 彼方は道を外れ、倒木の陰へ身を滑り込ませた。


 息を止める。


 木々の向こうを、黒い影が横切った。


 昨日の獣より小さい。


 だが、一匹ではない。


 二つ、三つの影が、彼方の通った道を嗅ぎながら進んでいる。


 彼方はナイフを握った。


 影の一つが、倒木の前で止まった。


 鼻先がゆっくりと持ち上がる。


 彼方の心臓が、耳のすぐそばで鳴っているようだった。


 そのとき、遠くから馬のいななきが聞こえた。


 影たちが一斉に振り返る。


 彼方はその隙に、反対側へ走った。


 森を抜ける。


 それだけを考えた。


 しばらく進んだところで、木々の間から何かが見えた。


 道。


 人が歩いた跡がある。


 彼方は慎重に近づく。


 土が踏み固められている。


 車輪の跡もある。


「街道……?」


 そう呟いた瞬間だった。


 内ポケットの中で、羽根が一度だけ熱を持った。


 彼方が振り返る。


 森の奥には、何もない。


 ただ、木々の隙間から差し込む光が、細い道のように地面へ落ちていた。


 その光の中を、何かが横切った。


 彼方は息を呑んだ。


 見えたのは、獣の背中だけだった。


 だが、森の縁で止まったそれは、街道へ出てこなかった。


 まるで、道の上に何か見えない境界があるかのように。


 彼方は後ずさりしながら、街道へ足を乗せた。


 獣は動かない。


 赤い目だけが、木々の間で彼方を見ている。


 彼方は走り出した。


 遠くから音が聞こえた。


 ガラガラという音。


 馬車だった。


 彼方は道の端へ移動する。


 一台の馬車が近づいてきた。


 御者席には、髭を生やした男。


 荷台には木箱が積まれている。


 彼方は手を上げた。


「すみません!」


 馬車が止まる。


 男が怪訝そうな顔をする。


「なんだ?」


「この近くに、人の住んでいる街はありますか?」


 男は彼方をじっと見た。


 それから、彼方の背後にある森へ視線を向けた。


「……お前、森から出てきたのか?」


「はい」


「一人で?」


「……はい」


 男の顔から、わずかに血の気が引いた。


「よく生きてたな」


 彼方はその言葉に、背後を振り返った。


 森の縁には、もう獣の姿はなかった。


 だが、木々の間に残った赤い光だけが、まだ消えずに揺れているように見えた。


「……お前、旅人か?」


「まあ……そんなところです」


「その格好で?」


 彼方は自分の服を見る。


 確かに、この世界では明らかに浮いている。


「事情がありまして」


「事情ねぇ……」


 男はしばらく彼方を眺めた。


 そして、森の奥から聞こえた低い唸り声に、顔をしかめた。


「この道を東へ行けば、半日も歩けば街がある。城壁のある街だ」


「本当ですか?」


「ああ」


 彼方の表情が少し明るくなる。


「ありがとうございます」


「ただし、日が暮れる前には着けよ」


「何かあるんですか?」


 男は少しだけ表情を曇らせた。


「街の外には魔物が出る」


 彼方の足が止まった。


「……魔物」


「ああ。最近は街道の近くでも見かける」


 男は森を見た。


「特に、あの森から出てくるやつは厄介だ。群れで動く。血の匂いを覚えると、何日でも追ってくる」


 彼方の喉が鳴った。


 さっきの足跡。


 沢の骨。


 背後から続いていた枝の音。


 すべてが一本につながった。


「……なるほど」


「無理そうなら乗っていくか?」


 男が荷台を指す。


 彼方は一瞬迷った。


 だが、荷台の木箱の一つに、黒ずんだ血が付着しているのが見えた。


 箱の角には、深い爪痕が三本残っている。


 彼方は首を横に振った。


「いえ。歩きます」


「そうか」


 男は彼方を見つめた。


「なら、道の真ん中を歩け。森の近くには寄るな。何か聞こえても、振り返るな」


「分かりました」


 馬車が走り出す。


 彼方はその背中を見送った。


 魔物。


 やっぱり、あの獣は普通の動物ではなかったらしい。


 そして、街道も完全に安全ではない。


 彼方は周囲を確認する。


 森の縁。


 道の両側。


 遠くの丘。


 どこから何が出てくるか分からない。


 それでも、街へ行くしかなかった。


 彼方は歩く速度を上げた。


 太陽はまだ高い。


 道もある。


 街もある。


 ならば、今日中に辿り着ける。


 そう思った。


 だが、馬車が見えなくなってから、街道は急に静かになった。


 風の音さえ遠い。


 彼方の足音だけが、乾いた土の上で響いている。


 しばらくして、道の先に何かが落ちているのが見えた。


 彼方は足を止めた。


 近づかない。


 まず周囲を見る。


 森の中に動きはない。


 丘の向こうにも何も見えない。


 それでも、道の脇にあるものから目を離せなかった。


 木製の箱。


 蓋が壊れている。


 中身は空だった。


 その周囲には、いくつかの足跡。


 人間のものではない。


 四本の爪が土へ食い込み、箱の周りを何度も回っている。


「……さっきの馬車か?」


 彼方はしゃがみ込む。


 新しい。


 少なくとも、昨日今日のものだ。


 箱の内側には、まだ湿った血がこびりついていた。


 そして少し離れた場所に、血の跡がある。


 血は道の外へ続いていた。


 草を押し倒し、森の方へ伸びている。


 途中で途切れているのは、乾いたからではない。


 何かが、血を引きずったまま森へ運ばれたのだ。


 彼方は立ち上がった。


 背中に冷たいものが走る。


 そのとき、森の奥で枝が折れた。


 彼方は反射的に道の中央へ下がった。


 音は一度で止まった。


 静寂が戻る。


 だが、今度は遠くから別の音が聞こえた。


 低い唸り声。


 ひとつ。


 続いて、もうひとつ。


 彼方は街の方角を見る。


 城壁はまだ見えない。


 太陽は少し傾き始めている。


 彼方は走り出した。


 血の跡のそばに、青白い紙片が一枚落ちていた。


 走りながらも、それが目に入った。


 彼方は一度通り過ぎた。


 だが、紙片の端に刻まれた紋様が、便箋の表紙と同じ鳥の形をしていることに気づいた。


 彼方は足を止めた。


 背後の森から、低い唸り声が近づいてくる。


 紙片を拾い上げる。


 文字は読めない。


 だが、紙片に触れた羽根が、今度ははっきりと震えた。


 彼方は紙片を見つめた。


 森の中で、何かが走った。


 木々の隙間を、黒い影が横切る。


 ひとつではない。


 彼方は紙片を便箋の間へ挟み、街へ向かって走り始めた。


 背後で、獣が吠えた。


 その声は、森全体を震わせた。


 彼方は振り返らなかった。


 道の先に、ようやく城壁が見えた。


 その大きさに、彼方は思わず息を呑む。


 日本の都市にはない。


 石造りの巨大な壁。


 その上には見張り台。


 門の前には人が並んでいる。


 馬車。


 商人。


 旅人。


 そして、武器を携えた人々。


 彼方は走り続けた。


 背後の森から、複数の足音が街道へ出てくる。


 土を蹴る音。


 爪が石を擦る音。


 彼方の足音に重なるように、少しずつ近づいてくる。


 門前の人々が、彼方の背後を見てざわめいた。


「走れ!」


 誰かが叫んだ。


 彼方は最後の力を振り絞った。


 門番が槍を構える。


 門の上で鐘が鳴る。


 彼方が門をくぐった直後、背後で獣の咆哮が響いた。


 巨大な門が閉じられる。


 鉄と木がぶつかる音。


 その直後、門の外側に何かが激突した。


 ドン、と地面が揺れた。


 彼方は膝をついた。


 門の向こうで、爪が石を引っ掻いている。


 何度も。


 何度も。


 やがて、門番たちが槍を構え、壁の上から何かを放った。


 青白い光が門の外で弾ける。


 獣の咆哮が遠ざかっていく。


 彼方は荒い息を吐きながら、門の内側を見上げた。


「……本当に、異世界なんだな」


 彼方は呟いた。


 街へ近づくにつれて、今まで見えなかったものが見えてくる。


 人間。


 耳の長い女性。


 頭に獣の耳を生やした少年。


 背の高い男性。


 杖を持った老人。


 誰も彼も、彼方が今まで見たことのない姿をしている。


 だが、彼方の視線は、しばらく門の外へ向いたままだった。


 あの森の中に、まだ魔物がいる。


 街の外には、あれがいる。


 そして、自分は今夜、どこで眠るのかも決まっていない。


 彼方は門の前で立ち止まった。


 係員らしき男性がこちらを見る。


「身分証は?」


「……ありません」


「出身は?」


「……」


 答えられない。


 日本と言っても、この世界の誰も知らないだろう。


 男が眉をひそめる。


「どこの国から来た?」


「……遠いところから」


「ずいぶん曖昧だな」


「すみません」


 困った。


 本当に困った。


 すると、横から声がした。


「身分証のない旅人なら、仮証を出せばいいでしょう」


 別の係員が言った。


「この人、怪我もしているようには見えないし」


 最初の男は彼方を見る。


 彼方の服には泥がつき、腕には枝で切った傷がある。


 それでも、門の外から戻ってきた者としては、奇妙なほど無傷だった。


「……確かにな」


 簡単な確認を受けた後、彼方は仮の入街証を渡された。


 小さな木札だった。


 木札を受け取った瞬間、便箋の中で羽根がかすかに鳴った。


 紙を擦るような、微かな音。


 彼方は反射的に胸元を押さえた。


 だが、係員たちは気づいていない。


 それを受け取った瞬間、


 彼方はようやく息を吐いた。


「ありがとうございます」


「宿を探すなら中央通りへ行け。食堂もある」


「分かりました」


 門をくぐる。


 その瞬間だった。


 彼方の視界いっぱいに、異世界の街が広がった。


 石造りの建物。


 木造の家。


 色鮮やかな看板。


 魔法の光を灯した街灯。


 露店から漂う香ばしい匂い。


 人々の話し声。


 馬車の音。


 何もかもが新しい。


 彼方はゆっくり歩いた。


 怖い。


 不安だ。


 それでも――


 少しだけ、胸が高鳴っている自分にも気づいた。


 知らない場所。


 知らない道。


 知らない景色。


 昨日までなら、自分がわざわざ探していたものだった。


 今は、自分から望んだわけでもないのに、そのすべてが目の前にある。


 けれど、街の喧騒の中にいても、背後の咆哮が耳から離れなかった。


 安全な場所へ来たはずなのに、身体はまだ森の中にいる。


 木々の隙間。


 赤い目。


 近づいてくる足音。


 彼方は何度も振り返った。


「……旅、か」


 彼方は小さく笑った。


「こんな旅になるとは思わなかったけどな」


 街を歩いていると、ふと大きな建物が目に入った。


 白い壁。


 高い屋根。


 入口の上に刻まれた、羽根を模した紋章。


 その紋章は、彼方の便箋に描かれた鳥の翼とよく似ていた。


 ただし、中央に刻まれた細い線だけが違う。


 まるで、何かが途中で途切れているように見えた。


 人々がそこへ出入りしている。


 何人もの旅装束の人間が、肩から革製の鞄を提げている。


 彼方は立ち止まった。


 建物の看板を見る。


 そこには、この世界の文字で、


『王都東部伝書院』


と書かれていた。


「……伝書院?」


 その言葉だけが、なぜか妙に耳に残った。


 胸元の便箋が、今度は熱を持った。


 彼方は取り出そうとしたが、通りを吹き抜けた風に、伝書院の扉が大きく開いた。


 中から、紙の匂いが流れてくる。


 古い紙。


 インク。


 そして、どこか懐かしい、雨上がりのような匂い。


 彼方は知らなかった。


 その建物の中で、明日。


 自分の人生を大きく変える少女と出会うことを。


 そして、その出会いが、


 いつか世界中を巡る旅の始まりになることを。


 彼方はまだ、建物の前から動かなかった。


 伝書院の扉が開く。


 一人の女性が出てくる。


 淡い栗色の髪。


 青緑色の瞳。


 腕には数通の手紙。


 そのうちの一通だけ、封蝋に見覚えのない羽根の紋章が押されていた。


 女性は扉を閉める前に、ふと振り返った。


 彼方とはまだ目が合わない。


 けれど、彼方の手の中で、便箋の鳥が夕陽を受けて一瞬だけ青く光った。


 女性は何かを感じたように、わずかに眉を動かす。


 しかし、すぐに視線を戻し、そのまま通りを歩いていった。


 彼方は何となく、その背中を目で追った。


 女性の手紙から、白い羽根が一枚、風に舞う。


 彼方の足元へ落ちる前に、風がそれをさらっていった。


 そして、手にしていた青い便箋の感触を思い出す。


 便箋の間には、あの羽根がある。


 青い軸を持つ、不思議な羽根。


 その下には、さっき拾った紙片も挟まっている。


 彼方はまだ知らない。


 あの羽根が示した光の先に、この街があったことも。


 伝書院の紋章と便箋の鳥が、同じものを見ていたことも。


 そして、先ほどの女性が落とした手紙の行き先が、やがて自分の旅の道筋と重なっていくことも。


 ただ今は――


 今日の寝床を探さなければならない。


 彼方は伝書院を一度振り返り、それから街の奥へ歩き出した。


 その背中を、伝書院の二階にある窓から、誰かが見下ろしていた。


 窓辺に置かれた古い封筒の上で、羽根の紋章が淡く光る。


 窓の外、城壁の向こうでは、遠く魔物の咆哮が一度だけ響いた。


 彼方は気づかない。


 異世界での最初の一日が、静かに終わろうとしていた。


 空には、日本では見たことのない色の夕焼けが広がっていた。

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