第1話 旅の終わり、旅の始まり
白石彼方は、知らない場所へ行くのが好きだった。
観光地そのものに興味がないわけではない。
有名な寺を見るのも好きだし、綺麗な景色を見るのも好きだ。
けれど彼方が一番好きなのは、そこへ向かうまでの時間だった。
見慣れた駅を離れて、知らない駅で降りる。
地図を眺めながら、普段なら絶対に歩かないような道を歩いてみる。
途中で小さな商店を見つけたり、名前も知らない川を見つけたりする。
予定通りに進まないことすら、彼方にとっては旅の一部だった。
「……この道、こっちだったか」
大学からの帰り道。
彼方はスマートフォンに表示された地図を見ながら、一度立ち止まった。
目の前には二つの道。
右へ行けば駅へ向かう大通り。
左へ行けば、少し遠回りになる住宅街。
迷うことなく、彼方は左を選んだ。
「たまにはこっちから帰るか」
卒業を控えた大学四年生。
就職先も決まっている。
これからは今までのように、気ままな時間を過ごすことも少なくなるだろう。
だからこそ、こういう寄り道が少し惜しかった。
住宅街を抜けると、小さな公園があった。
その先には、古い商店街。
彼方はそこで足を止める。
小さな文房具店の店先に、便箋や封筒が並んでいた。
何気なく眺めていると、一冊の便箋が目に入った。
淡い青色の表紙。
中央には、翼を広げた小さな鳥が描かれている。
鳥の翼から伸びた細い線は、紙の端へ向かって続いていた。
道にも、風にも見える線だった。
「……これ、いいな」
彼方は店の中へ入り、その便箋を手に取った。
会計を済ませると、店主が便箋を薄い紙袋へ入れながら尋ねた。
「旅先から手紙でも?」
「ええ。まあ、そんなところです」
実際には、誰かに手紙を書く予定があったわけではない。
ただ、旅先から家族へ手紙を書くのも悪くないと思った。
電話やメッセージではなく、時間をかけて書いた言葉なら、遠くにいる相手にも何かが届く気がした。
店を出ると、夕方の風が吹いた。
紙袋の口から、青い便箋の端がわずかに覗く。
彼方が袋を押さえようとしたとき、風に乗って一枚の羽根が足元へ滑ってきた。
白とも灰色ともつかない、見慣れない羽根だった。
細い軸の部分だけが、淡い青色を帯びている。
「……鳥の絵を買ったら、本物まで来るか」
彼方は羽根を拾い上げた。
不思議と軽い。
風に飛ばされそうなのに、指先から離れようとはしなかった。
彼方は少し迷った末、便箋の最初の一枚に羽根を挟んだ。
その直後だった。
「……あっ」
前方から女性が走ってくる。
その手には大きな封筒の束。
風が強く吹いた。
一枚の封筒が手から離れる。
続けて二枚。
三枚。
封筒が道路へ舞っていく。
「危ない!」
彼方は反射的に走った。
道路へ飛び出しそうになった封筒を一枚拾う。
次の一枚を拾う。
最後の一枚は、車道の手前まで転がっていた。
彼方はそれを拾い上げ、女性のところへ戻った。
「大丈夫ですか?」
「はい……ありがとうございます」
女性は息を切らしながら、何度も頭を下げた。
「本当に助かりました。これ、今日中に出さないといけなくて」
「手紙ですか?」
「はい。遠くにいる人へ届けるものです」
女性は封筒の束を抱え直した。
「ちゃんと届くか分からないんですけど、届いてほしくて」
彼方は拾った封筒を渡していく。
最後の一通。
宛名を何気なく見る。
『おばあちゃんへ』
住所は書かれている。
ただ、差出人の名前を見たとき、彼方は少しだけ違和感を覚えた。
女性は彼方の視線に気づいた。
「ああ、それですか」
「すみません。つい」
「いえ」
女性は封筒を胸元へ抱える。
「祖母はもう亡くなっているんです」
「……」
「だから、本当は届けられないんですけどね」
女性は困ったように笑った。
「それでも書きたくなって」
彼方は何も言わなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
けれど、手紙を受け取る相手がもういなくても、書かれた言葉まで消えるわけではない。
そんな気がした。
だから、少しだけ考えてから、
「じゃあ……ちゃんと届くといいですね」
そう言った。
女性は目を丸くした。
「……届くと思いますか?」
「分かりません」
彼方は苦笑した。
「でも、届いてほしいって思って書いたなら、届いてほしいじゃないですか」
女性はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「そうですね。誰かが運んでくれるなら、きっと」
その言葉に、彼方はなぜか引っかかった。
ただの言い回しだろう。
それなのに、胸の奥で何かがかすかに揺れた。
「もし、届ける人がいなかったら?」
彼方が尋ねると、女性は封筒を見下ろした。
「それでも、届けたいと思う人がいる限り、誰かが運ばなきゃいけないんじゃないでしょうか」
女性は顔を上げる。
「言葉って、書いただけでは届かないから」
その笑顔は、少しだけ寂しかった。
「ありがとうございます」
女性はそう言って、歩いていった。
彼方はその背中を見送った。
風がまた吹く。
紙袋の中で、青い便箋がかすかに揺れた。
挟んだ羽根が、紙の間で小さく震える。
まるで、遠くへ向かう時を待っているようだった。
彼方も駅へ向かった。
そのときは、それだけだった。
名前も知らない女性。
一度きりの会話。
それなのに、その言葉だけはなぜか彼方の中に残った。
――届いてほしい。
――誰かが運ばなきゃいけない。
駅へ向かう途中、彼方はスマートフォンを見る。
母親からメッセージが来ていた。
『今度の休み、帰ってこられそう?』
彼方は少し考えた。
大学卒業前。
これから仕事が始まれば、実家に帰る機会も減るかもしれない。
だから、
『たぶん帰れるよ』
と返信した。
送信。
それだけのことなのに、少しだけ心が軽くなった。
彼方はふと、買ったばかりの便箋を思い出した。
帰ったら、母親に手紙を書いてみようか。
そんな考えが浮かぶ。
けれど、すぐに首を振った。
今さら照れくさい。
そう思いながらも、彼方は紙袋の中を確かめた。
淡い青色の便箋。
中央に描かれた小さな鳥。
その翼から伸びる細い線。
そして、その線の上に挟まれた一枚の羽根。
羽根の青い軸が、便箋の絵と重なって見えた。
まるで紙に描かれた鳥が、羽根を得て飛び立とうとしているようだった。
彼方は小さく笑い、紙袋を鞄へしまった。
駅へ到着する。
ホームには、帰宅する人々が並んでいる。
いつも通りの景色。
いつも通りの電車。
いつも通りの一日。
彼方は電車に乗った。
窓の外を眺める。
流れていく街の景色。
夕焼け。
ビル。
住宅街。
そして、遠くに見える山。
彼方は思った。
卒業したら、少し遠くへ行こう。
仕事が始まる前に、一度くらい長い旅をしてみたい。
知らない場所。
知らない道。
知らない景色。
それから、知らない誰かの言葉を預かって、知らない誰かへ届ける旅も悪くない。
そんなことを考えながら、彼方は目を閉じた。
――そして、その夜。
彼方は眠った。
次に目を開けたとき。
そこにあったのは、見慣れた天井ではなかった。
木々。
青い空。
鳥の鳴き声。
湿った土の匂い。
彼方はしばらく、何も言えなかった。
「…………ここ、どこだ?」
身体を起こす。
周囲を見渡す。
知らない森。
舗装された道路もない。
電線もない。
建物もない。
スマートフォンを取り出す。
画面は真っ暗だった。
「……充電切れ?」
電源ボタンを押す。
反応しない。
もう一度押す。
やはり何も起きない。
彼方は立ち上がった。
頭の中を整理する。
昨日の夜、電車に乗った。
家へ帰った。
そして眠った。
それだけだ。
なのに。
「……夢、じゃないよな」
頬をつねる。
痛い。
もう一度つねる。
「痛い」
夢ではない。
彼方は深く息を吐いた。
混乱している。
怖い。
けれど、取り乱しても何も変わらない。
まずは状況確認。
周囲に危険がないか。
水はあるか。
日が暮れるまでどれくらいあるか。
人のいる場所はないか。
彼方はバックパックを確認する。
中には、
水筒。
簡単な救急セット。
携帯食。
ライター。
小型ライト。
折り畳み式のナイフ。
そして、昨夜買った淡い青色の便箋。
「……なんでこれまで持ってるんだよ」
思わず笑ってしまった。
こんな状況なのに。
なぜか、それだけが妙に現実感を与えてくれた。
便箋の間には、昨夜拾った羽根も挟まっている。
彼方はそれを見つけ、眉をひそめた。
森の中だというのに、羽根は少しも湿っていなかった。
青い軸は、昨夜よりもはっきりと光を帯びている。
彼方が指先で触れると、羽根はかすかに震えた。
その瞬間、便箋に描かれた鳥の翼から伸びる細い線が、淡く明滅した。
「……気のせいか」
彼方は便箋を閉じた。
怖いというより、手放したくなかった。
この羽根と便箋だけが、元の世界とつながっているように思えたからだ。
彼方はバックパックを背負う。
そして森の奥ではなく、木々の隙間から見える明るい方向へ歩き始めた。
歩きながら、何度も振り返る。
帰る場所はない。
今は。
ならば、まず生きる。
人を探す。
街を探す。
帰る方法を探す。
それから考える。
もし誰かに出会ったら、ここがどこなのか尋ねよう。
もし困っている人がいたら、できる範囲で手を貸そう。
そして、もし誰かが大切な言葉を託してくるなら――
彼方は、昨夜の女性の言葉を思い出した。
誰かが運ばなきゃいけない。
その考えが浮かんだことに、彼方自身が少し驚いた。
しばらく歩いたところで、彼方は足を止めた。
遠くから、何かの声が聞こえる。
鳥ではない。
もっと低い。
獣のような声。
彼方はゆっくりとナイフを取り出した。
茂みが揺れる。
一歩。
また一歩。
何かが近づいてくる。
彼方は息を止めた。
そして――
茂みの向こうから、見たこともない生き物が姿を現した。
犬に似ている。
けれど、犬ではない。
鋭い牙。
赤く光る瞳。
背中には黒い毛。
「……嘘だろ」
彼方は後ずさる。
生き物が唸る。
逃げるべきか。
戦うべきか。
彼方は周囲を見る。
木。
斜面。
倒木。
そして、自分と相手との距離。
勝てない。
直感で分かった。
ならば――
戦わない。
彼方は倒木を挟むように移動した。
獣が飛びかかる。
彼方は横へ飛ぶ。
地面を転がる。
立ち上がる。
走る。
背後から獣の足音。
彼方は振り返らない。
ただ走る。
そのとき、バックパックの中で便箋が大きく揺れた。
羽根が紙の間から滑り落ちる。
地面に触れる寸前、羽根は風もないのにふわりと浮かび上がった。
青い軸から淡い光が伸びる。
光は一本の細い線となって、森の外へ向かった。
便箋に描かれていた、あの線と同じだった。
彼方は一瞬だけ足を止める。
光の先には、木々の隙間から差し込む明るい空がある。
背後で獣が吠えた。
迷っている暇はない。
彼方は羽根を掴み、光の示す方向へ走った。
やがて、木々の向こうに光が見えた。
彼方は最後の力を振り絞って走る。
森を抜ける。
視界が開ける。
そこには――
巨大な城壁と、その向こうに広がる見知らぬ街があった。
彼方は息を切らしながら、その場に立ち尽くす。
手の中で、羽根の光が静かに消えた。
城壁の上には見たことのない旗。
街道には馬車。
そして、道を歩く人々の中には――
人間ではない姿も混じっていた。
長い耳。
獣の耳。
見たことのない種族。
彼方は呆然と呟く。
「……異世界、ってやつか」
冗談のような言葉だった。
でも。
今の彼方には、それ以外の言葉が見つからなかった。
彼方は知らない。
この世界に、自分がなぜ来たのか。
帰ることができるのか。
なぜ、あの便箋と羽根が自分のもとへ残ったのか。
そして、この先で一人の少女と出会い、
誰かの想いを運ぶ仕事をすることになるなんて。
まだ何も知らない。
ただ一つだけ。
彼方は、羽根を便箋の間へ戻した。
そして、歩き始めた。
知らない空の下へ。
新しい旅の始まりへ。
――このときの彼方はまだ、
自分が「伝書人」と呼ばれるようになる未来を知らなかった。




