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伝書人は今日も旅をする  作者: 金麦
第二部 境界線の向こう側
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第4話 疑いの印



 朝。


 伝書院の扉を開けた瞬間、カナタは足を止めた。


 人の気配はある。


 伝書を仕分ける音も、荷物を確認する音も聞こえる。


 なのに、声だけが妙に低かった。


 職員たちは北東方面の地図を囲み、話しては口を閉じ、また互いの顔を見ている。


「……何かあった?」


「おはようございます、カナタさん」


 リーゼが近づいてきた。笑おうとしたらしいが、口元がわずかに動いただけだった。


「おはよう。どうした?」


「これを」


 差し出された報告書を、カナタは受け取った。


「昨夜、北東街道近くの伐採現場で火事がありました」


「怪我人は?」


「いません」


 カナタの肩から、わずかに力が抜ける。


 だが、リーゼは報告書から手を離さなかった。


「……ただ」


「ただ?」


「現場で、木札が見つかっています」


 カナタの指が紙の上で止まる。


 添付された図には、三本の爪を思わせる印が描かれていた。


「これ……」


「昨日、私たちが拾ったものと同じ印です」


 森で見つけた木札。


 木片。


 そして、火事の現場。


 カナタは報告書を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。


「誰かが置いたのかな」


「分かりません」


 リーゼは首を振った。


「でも、現場にいた人たちは……獣人族の仕業だと」


「木札があったから?」


「はい」


 カナタは紙を握り直した。


「それだけで?」


「……人は、分からないものを怖がると、理由を一つに決めたくなるんです」


 リーゼの声は静かだった。


 その指が、報告書の端を何度も撫でている。


「今は、特に」


 カナタは返事をしなかった。


 院長室。


 セレフィナの机には、三枚の報告書が並んでいた。


「火事だけではありません」


 彼女は一枚目を指で押さえた。


「伐採現場の火災」


 二枚目。


「商人の荷物が破損」


 三枚目。


「森を通った人間の一団が、獣人族に追い返された」


「同じ日に?」


 カナタが尋ねる。


「ほぼ同じ時間帯です」


 リーゼが地図を覗き込んだ。


「場所は?」


「ここ、ここ、それからここ」


 セレフィナの指が地図上を移動する。


 火事。


 荷物の破損。


 人間と獣人族が遭遇した場所。


 どれも、昨日カナタたちが通った道の周辺だった。


「……近いな」


「ええ」


 セレフィナは短く答えた。


「火災現場には、木札も」


「俺たちが拾ったものと同じ?」


「印は」


 セレフィナは言葉を選ぶように、一度目を伏せた。


「ただし、同じ木札ではありません」


「同じ印の木札が、いくつもあるってこと?」


「それ自体は不自然ではありません」


 セレフィナの声が少し低くなる。


「不自然なのは、使われ方です」


 部屋の中に、紙をめくる音だけが残った。


「獣人族側からは?」


 カナタが聞く。


「昨夜、集落北側の倉庫が荒らされました」


「……」


「食料と薬草がなくなっています」


 リーゼが息を吸った。


「犯人は、まだ?」


「分かっていません」


「それなのに、人間側では獣人族を疑っている」


「向こうも同じです」


 セレフィナは地図から目を上げた。


「人間が報復した、と」


 カナタの口がわずかに開く。


「まだ、何も分かってないのに」


「ええ」


 セレフィナは地図の上に手を置いた。


「分からないまま、広がるものもあります」


 その手の下で、境界線が二つの地域を分けていた。


 昼。


 リュネアの工房街は、いつもより騒がしかった。


 ダリオの工房の前にも、人が集まっている。


「聞いたか? 北東の伐採場が燃えたってよ」


「獣人族の仕業らしい」


「木札があったんだろ?」


「なら、決まりじゃないか」


 ダリオは入口に立ったまま、黙って聞いていた。


 やがて、机の上の木材へ目を落とす。


 獣人族へ届けるはずだった木材。


 狩猟道具にするもの。


 農具にするもの。


 これまで何度も、同じ道を往復してきた。


「……違う」


 呟きは、木材に吸い込まれた。


「何が違うんだ?」


 近くの男が振り返る。


 ダリオは顔を上げた。


「獣人がやったと、決まったわけじゃない」


「でも木札があった」


「印だけで犯人が決まるのか」


「獣人の印なんだろ?」


「だから何だ」


 男が口をつぐむ。


 ダリオの拳が、机の端で固くなる。


「そんな簡単な話じゃない」


「だったら、誰がやった?」


 工房の外から別の声が飛んできた。


 ダリオは答えなかった。


「分からないなら、獣人だと思うしかないだろ」


「……違う」


「何がだよ」


「そうやって決めつけたら……また、同じことになる」


 男が鼻で笑った。


「弟が怪我した時も、そう言ってたのか?」


 ダリオの顔から血の気が引いた。


 しばらく、誰も動かなかった。


「……帰れ」


「ダリオ」


「帰れ!」


 怒鳴り声に、工房の道具がかすかに震えた。


 同じ頃。


 獣人族の集落では、ミルザが荒らされた倉庫の前に立っていた。


 壊れた扉。


 踏み散らされた薬草。


 空になった箱。


 若い獣人が地面から金属片を拾い上げる。


「これ、人間の道具だ」


「やっぱり人間か」


 誰かが吐き捨てた。


「昨日、森で追い返されたのも人間だった」


「北の畑にも足跡があった」


「もう、黙っていられない」


「ミルザ!」


 呼ばれても、ミルザはすぐには振り向かなかった。


 金属片を見つめる。


 人間の道具に使われる形だ。


 だが、それだけだった。


「それだけでは、決められません」


「でも、見ろよ!」


 若い獣人が金属片を突き出す。


「人間のものだ!」


「ええ」


 ミルザはようやく顔を上げた。


「人間の道具の一部でしょうね」


「なら――」


「犯人とは限りません」


 声が鋭くなった。


 若い獣人が言葉を失う。


 ミルザは金属片を受け取り、掌の中で握り込んだ。


「私だって怒っています」


 その手が震えていた。


「ダリオの弟のことも。森でのことも。倉庫のことも」


 周囲の視線が集まる。


「……全部、許せない」


 ミルザは金属片を地面に置いた。


「だから、間違えたくないんです」


「誰かが、私たちを怒らせようとしているなら?」


 誰かが低く尋ねた。


 ミルザは答えるまでに、少し時間をかけた。


「その誰かに、私たちの手を使わせないでください」


 怒りは消えなかった。


 誰の顔からも。


 夕方。


 伝書院に、新しい報告が届いた。


「北東街道で検問が始まったそうです」


 職員が言う。


「検問?」


 カナタが振り返る。


「商人組合が、獣人族との交易品を調べています。盗難や破壊が続いているので」


「交易を止める話も出ています」


 リーゼが書類を見ながら付け加えた。


「……もう止めるのか」


 カナタは地図へ目を戻した。


 一本の道。


 その両側で、人間と獣人族が少しずつ距離を取っている。


 まだ剣は抜かれていない。


 それでも、境界には見張りが立ち始めていた。


「院長」


 カナタが顔を上げる。


「木札のこと、もっと調べられませんか」


「調べています」


「誰が作ったのか。どこで使われていたのか」


「確認中です」


「本当に、獣人族のものなのかも」


「ええ」


 セレフィナは記録を一枚抜き取った。


「ただ、分かったことが一つあります」


「何ですか?」


「あなたが拾った木札は、本来、獣人族の集落からリュネアへ運ばれる交易品につけるものです」


「……」


「紐で結ぶ」


 セレフィナは記録の端を指で叩いた。


「それが決まりです」


「じゃあ、森で拾ったのは……」


「おかしいでしょう」


 カナタは黙った。


 ふと、顔を上げる。


「火事の現場の木札は?」


「焼けた木材に、釘で打ちつけられていたそうです」


「釘?」


 リーゼが身を乗り出した。


「識別札を、釘で?」


「普通はしません」


 セレフィナの眉が初めて動いた。


「紐で結ぶものです」


 カナタの背中を冷たいものが走る。


「……誰かが、わざと?」


 セレフィナは答えなかった。


 ただ、記録を閉じる音がやけに大きく響いた。


 夜。


 月影亭の部屋で、カナタは机に木札を並べていた。


 拾った木札。


 森で見つけた木片。


 火災現場の印を写した紙。


 三本の線。


 一見すれば、同じだった。


「……違う」


 カナタは木札を傾けた。


 一本だけ長い線。


 木片の中央に残る深い傷。


 写し取られた印は、三本とも不自然なほど揃っている。


「似せたのか?」


 扉が叩かれた。


「カナタさん?」


「リーゼ?」


「入っても?」


「うん」


 扉を開けると、リーゼが書類を抱えて立っていた。


「院長からです」


「何?」


「北東方面への伝書について」


 カナタは書類を受け取った。


 北東方面への伝書は、原則二名以上。


 獣人族集落へ向かう場合は、事前に伝書院へ報告。


 武装集団との接触は避けること。


「……普通の伝書じゃなくなってきたな」


「はい」


 リーゼは頷いた。


 それから、書類の端を握り直す。


「でも、届けるんですよね」


「伝書院が?」


「はい」


「……そっか」


 カナタは小さく笑った。


「じゃあ、俺も行く」


「はい」


 リーゼの笑顔は、今度は少しだけ自然だった。


 その時。


 外で鐘が鳴った。


 ――ゴォン。


 ――ゴォン。


 二人は同時に窓へ向かった。


 北東門の警戒灯が、赤く灯っている。


「何……?」


 リーゼの声が掠れた。


 また鐘が鳴る。


 街の外から、複数の人影が走ってくる。


 馬に乗った伝令。


 その後ろに、怪我をした人間たち。


「北東街道からです!」


 宿の外で叫び声が上がった。


「森で襲撃があった!」


 カナタが窓辺から離れる。


「襲撃?」


「商人の一団が襲われた!」


 通りに人が集まり始めた。


「獣人族だ!」


「獣人が襲ったんだ!」


「報復だ!」


 声が重なり、誰かの恐怖が、別の誰かの確信に変わっていく。


 犯人はまだ分からない。


 それでも、叫び声だけが先に門を越えた。


 その夜。


 王国軍の北東方面部隊へ、緊急の報告が送られた。


 ――人間の商人が、獣人族に襲撃された可能性あり。


 同じ頃。


 獣人族の集落にも、別の報告が届いていた。


 ――人間の武装集団が森へ侵入した。


 どちらも、真実とは限らない。


 だが、最初に届いた報告は、それぞれの側で事実のように扱われ始めた。


 翌朝。


 北東街道に、焼けた荷車が転がっていた。


 荷物は散乱し、地面には複数の足跡が残っている。


 人間のもの。


 獣人族のもの。


 そして、どちらにも当てはまらない細長い足跡。


 その中央に、小さな木札が落ちていた。


 三本の爪の印。


 裏側には、見慣れない文字が刻まれている。


 ――境界を越えた者に、印を。


 誰かが置いた。


 誰かに見つけさせるために。


 そして、その印を理由に、相手を疑わせるために。


 その日の朝、リュネアでは北東方面への商業活動が停止された。


 獣人族との交易も、一時停止。


 森へ入る人間には武装が求められ、獣人族の集落の入口にも見張りが立った。


 まだ、戦争ではない。


 だが、昨日までなかったものが増えていく。


 警戒。


 武装。


 検問。


 報復への恐怖。


 疑い。


 カナタは伝書院の窓から、北東の空を見た。


「……止められるのかな」


 隣で、リーゼの指がカナタの袖を掴んだ。


「止めたいです」


「うん」


「まだ、誰も本当のことを知りません」


 カナタは自分の鞄へ目を落とした。


「だったら、伝えるしかない」


「はい」


「誰かが何を言ったのか。誰が何を知っているのか」


 カナタは鞄を肩に掛けた。


「それから、何を知らないのか」


 リーゼは頷いた。


「私たちは、手紙を届けられます」


「だからこそ」


 リーゼは北東の空を見た。


「今度は、届けるだけでは足りないかもしれません」


 二人の視線が重なる。


 北東の向こうには、人間と獣人族がいる。


 まだ剣は交わっていない。


 まだ、戦争とは呼べない。


 それでも、境界線の両側で、同じ疑いと恐怖と怒りが膨らみ始めていた。


 そして、その膨らみを待っている誰かがいる。


 カナタは知らない。


 拾った木札が、ただの識別札ではないことを。


 火災現場の木札も、偶然そこに落ちていたものではないことを。


 この先、誰かの小さな悪意が、人間と獣人族の関係そのものを壊す火種になることを。


 ただ一つ、カナタに分かっていることがある。


 伝書は、今日も届けなければならない。


 たとえ、その道の向こう側で、誰かが敵と呼ばれていたとしても。


 カナタは鞄の紐を締め直した。

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