第3話 人間から、獣人族へ
朝。
月影亭の窓から差し込む光で、カナタは目を覚ました。
「……今日は北東か」
ベッドから起き上がり、机の上に置かれた伝書を確認する。
一通。
宛先は、獣人族の集落。
差出人は、ダリオ・フェルン。
昨日までなら、ありふれた一通の手紙だった。
しかし、今日は違う。
この手紙は、人間から獣人族へ届けられる。
カナタは封筒を手に取った。
重さは変わらない。
中身も、普通の便箋にすぎない。
それでも、指先に残る感触が妙に気になった。
紙の下に、何か別のものが隠れているような。
もちろん、そんなはずはない。
封筒を光に透かしても、見えるのは便箋の影だけだった。
それなのに。
胸の奥には、理由の分からない緊張が残った。
「……伝書人になってから、いろんな手紙を届けてきたけど」
カナタは小さく呟く。
「これは初めてだな」
人間以外の種族へ。
しかも、近頃になって関係が悪化しつつある相手へ。
届けるだけなら、難しい仕事ではない。
そう考えれば簡単なはずだった。
なのに、その役目が今は重く感じられる。
「カナタさん」
廊下から声がした。
「起きていますか?」
「起きてる」
扉を開ける。
そこにはリーゼが立っていた。
仕事着に着替え、肩にはいつもの革鞄を掛けている。
髪は片側を小さな髪留めで留めていた。
ただ、目元には眠気が残っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「……眠いです」
「朝弱いもんな」
「そんなことありません」
「昨日も眠そうだったけど」
「……昨日は少しだけです」
「今日もじゃん」
「カナタさん」
「はい」
「朝から意地悪です」
リーゼは頬を膨らませた。
カナタは笑う。
「それで、今日は?」
「北東方面ですね」
「ああ」
リーゼの表情が引き締まる。
「私も同行します」
「今日も?」
「はい」
「仕事、大丈夫なの?」
「今日は調整済みです」
「……そっか」
リーゼは頷いた。
「昨日の木札のこともありますし」
「やっぱり気になる?」
「かなり」
いつもの柔らかな表情とは違う。
伝書人としての顔だった。
「森の入口で見つかった木札」
リーゼは小さく息を吐く。
「それに、昨日も同じ辺りで人間側と獣人族が揉めています」
「偶然とは思えない?」
「断定はできません」
リーゼは慎重に答えた。
「ですが、無関係とも思えません」
「俺も」
カナタは伝書を鞄へ入れた。
封筒が革の内側に触れた瞬間、かすかに乾いた音がした。
木が擦れるような音だった。
カナタは手を止めた。
「……どうしました?」
「いや」
鞄の中を確かめる。
手紙のほかに入っているのは、地図と筆記具、それから昨日拾った木札を包んだ布だけだ。
木札が動いたのだろう。
そう思い直しても、妙な違和感は消えなかった。
「じゃあ、行こう」
「はい」
朝のリュネア。
二人は北東門へ向かって歩いていた。
市場を抜ける。
商店街を抜ける。
人の数が少しずつ減っていく。
建物がまばらになり、やがて街道へ出た。
「この先ですね」
リーゼが地図を見る。
「はい」
カナタも地図を確認した。
以前なら、知らない場所へ向かうだけで不安を覚えただろう。
今では、地形を見て、道の状態を確かめ、危険そうな場所を避ける。
それが自然にできるようになっている。
「北東街道を進んで、森の手前で旧道へ入ります」
「そうですね」
「そこから集落まで?」
「徒歩で二時間ほどです」
「結構あるな」
「以前はもっと人が通っていた道です」
「今は?」
「ほとんど使われていません」
「……交易が減った影響か」
「はい」
二人は歩き続けた。
しばらくすると、道の雰囲気が変わった。
街道の両側に広がっていた草原が途切れ、木々が増えてくる。
フォルネの森ほど深くはない。
それでも、森へ入ると空気が変わった。
風の音が遠のき、足元の土が湿り気を帯びる。
木々の間には薄暗さが溜まり、昼間だというのに、道の先だけが夜のように見えた。
「ここからです」
リーゼが言う。
カナタは周囲を見回した。
昨日、木札を拾った場所が近い。
「……この辺だよな」
「はい」
二人は足を止めた。
カナタは地面を見る。
草。
土。
小さな石。
昨日と変わらない景色だった。
ただ、昨日は気づかなかった。
道の脇に生えた低木の枝が、何本か不自然に折れている。
折れ口は新しく、白い木肌が覗いていた。
「木札、まだ何か分からないかな」
「昨日、伝書院で調べてもらいました」
リーゼは鞄から紙を取り出した。
「獣人族の集落では、昔から木札を使っていたそうです」
「交易品の識別用?」
「それもあります」
リーゼは続ける。
「ただ、すべてが同じものではありません」
「どういうこと?」
「集落ごとに刻印が違うんです」
「じゃあ、あの札の印は?」
「昨日の時点では、あの集落で使われているものと一致しています」
「やっぱり」
「はい」
カナタは森を見る。
木々の隙間は、奥へ進むほど濃い影に変わっていた。
「だったら、ここから集落まで誰かが持っていった?」
「その可能性はあります」
「でも……」
カナタは地面へ視線を落とした。
「ここから集落までは、まだかなりある」
「そうですね」
「交易品なら、普通はもっと集落の近くで落とすんじゃない?」
リーゼは黙った。
やがて、静かに口を開く。
「……私も、そこが気になっています」
「だよな」
「それに」
リーゼは地図を広げた。
「木札が見つかった場所は、正式な交易路から外れています」
「え?」
「こちら」
指先が示したのは、森の奥へ続く細い道だった。
「昔使われていた道です」
「今は?」
「ほとんど使われていません」
「じゃあ、なんで木札がそこに?」
「現時点では、理由を説明できません」
カナタは黙り込んだ。
その時。
森の奥で、枝が折れた。
ぱきり、と乾いた音がする。
二人は同時に顔を上げた。
音は一度きりだった。
風はない。
葉も揺れていない。
「……誰か来ます」
リーゼが小声で言った。
「今の、足音だったか?」
「分かりません」
リーゼは声を落とした。
「でも、こちらを見ている気配がします」
カナタは森の奥へ目を凝らした。
木々の間に、黒いものが立っているように見えた。
人影。
そう思った瞬間、影は木の幹の向こうへ滑るように消えた。
「……」
「カナタさん?」
「いや。何でもない」
そう答えた直後。
今度は背後で、草を踏む音がした。
二人は道の端へ移動した。
しばらくして、木々の向こうから人影が現れた。
人間ではない。
頭の上に獣の耳があり、肩から荷袋を下げている。
こちらを見る。
そして、立ち止まった。
「……人間」
警戒した声だった。
リーゼが一歩前に出る。
「こんにちは」
相手は答えない。
視線がカナタの鞄へ向いた。
中に入っている手紙。
獣人の女性は、それを見て眉を動かした。
「伝書人?」
「はい」
リーゼが答える。
「私たちはリュネアの伝書院から来ました」
「……何の用?」
「手紙を届けに来ました」
カナタが答える。
「この先の集落へ」
獣人の女性は警戒をわずかに緩めた。
それでも、声には距離がある。
「人間が、あの道を使うとは珍しい」
「最近は?」
「ほとんど来ない」
「交易も?」
カナタが尋ねる。
女性の表情が曇った。
「……減った」
短い返事だった。
「なぜ?」
「知らない」
「知らない?」
「人間は人間で、自分たちの都合がある」
それだけ告げて、女性は歩き出そうとした。
その時。
「待ってください」
リーゼが呼び止めた。
「この辺りで、何か落とし物を見ませんでしたか?」
「落とし物?」
「小さな木札です」
女性の耳がぴくりと動いた。
カナタは、その反応を見逃さなかった。
女性の視線が、ほんの一瞬だけ森の奥へ向く。
そこには、何もない。
ただ、木々の間に濃い影が沈んでいるだけだった。
「……木札?」
「はい」
女性は沈黙した。
その沈黙の間に、森の奥で何かが擦れた。
葉ではない。
硬いものが、木の幹を撫でたような音だった。
「知らない」
「そうですか」
「知らない」
今度は強い口調だった。
そして、こう付け加える。
「ここでは、最近いろいろなものが落ちる」
女性はカナタの鞄を見た。
正確には、その中にある木札の位置を探るような目だった。
「落ちたものを拾うと、拾った者のものになるとは限らない」
「……どういう意味ですか?」
リーゼが尋ねる。
女性は答えなかった。
ただ、森の奥をもう一度見た。
その顔から血の気が引いている。
「早く行った方がいい」
「え?」
「日が高いうちに」
それだけ告げて、女性は森の奥へ消えていった。
足音はすぐに聞こえなくなった。
まるで、最初からそこにいなかったように。
カナタとリーゼは顔を見合わせる。
「……今の」
「はい」
「知ってたよな」
「私も、そう感じました」
リーゼは女性が消えた方向を見る。
木々の間に、まだ何かがいるような気がした。
「ただ、聞き方を変える必要があります」
「追う?」
「いいえ」
リーゼは首を横に振った。
「今は伝書が先です」
「そうだな」
二人は歩き始めた。
背中に、森の視線が貼りついているようだった。
振り返っても、そこには木々しかない。
それでも、足音が二人分ではないように聞こえる瞬間があった。
カナタが歩けば、少し遅れて、もう一つ。
リーゼが止まれば、それも止まる。
やがて森を抜ける頃には、音は消えていた。
道が開けてくる。
木々の間から、建物が見えた。
簡素な木造家屋。
畑。
干された薬草。
小さな柵。
その向こうに、獣人族の集落があった。
カナタは足を止めた。
「……ここが」
「はい」
リュネアとは違う。
大きな建物はなく、石畳もない。
それでも、人々が暮らしている。
子どもが走り、大人たちが作業をしている。
畑では何人かが土を耕していた。
想像していたより、ずっと普通の暮らしだった。
ただ、集落の入口には、真新しい杭が何本も立てられていた。
杭の先には、細い縄が張られている。
簡素な境界線。
その縄には、赤黒い染みがいくつか付着していた。
「……なんだか」
「はい?」
「もっと閉鎖的な場所を想像してた」
リーゼが微笑む。
「実際に見てみると、印象は変わりますね」
カナタは頷いた。
けれど、森の方から視線を戻せなかった。
木々の間。
誰かがこちらを見ている気がする。
その時。
集落の入口から、一人の女性が歩いてきた。
人間より少し高い身長。
長い髪。
頭には獣の耳。
腰の後ろには大きな尾。
落ち着いた目をしている。
「……人間の伝書人」
女性が言った。
リーゼが一礼する。
「こんにちは」
「こんにちは」
女性は二人を交互に見た。
「リュネアから来たのですか?」
「はい」
「手紙を?」
「そうです」
カナタが鞄から封筒を取り出した。
「ダリオ・フェルンさんから、ミルザ・ラグさんへ」
女性の目が細くなった。
「……私がミルザです」
カナタは封筒を差し出した。
「こちらを」
ミルザは手紙を受け取った。
封筒を見る。
差出人の名前。
ダリオ。
その名を目にした瞬間、表情がわずかに変わった。
昨日のダリオとは違う。
怒りよりも、安堵に近いものだった。
「……返事をくれたのですね」
「はい」
カナタは頷く。
「昨日、俺が届けました」
「そうですか」
ミルザは手紙を胸元へ寄せた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミルザはしばらく封筒を見つめていた。
やがて、尋ねる。
「ダリオは……元気でしたか?」
カナタは答えを選んだ。
「元気、とは言い切れないかもしれません」
「……そうですか」
「でも」
カナタは続けた。
「手紙を受け取った時、すごく悩んでました」
ミルザの耳がわずかに下がる。
「……そうでしょうね」
「それでも返事を書いてくれました」
ミルザは目を伏せた。
「そうですか」
声がかすかに震えていた。
「ありがとうございます」
カナタは頭を下げた。
「俺は届けただけです」
「それでもです」
ミルザは微笑んだ。
「この集落へ人間から手紙が届くこと自体、近頃では珍しくなりましたから」
「そんなに?」
「はい」
ミルザは集落の外へ目を向ける。
「昔は、人間の商人が頻繁に来ていました」
「ダリオさんも?」
「ええ」
口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「彼はよく文句を言っていました」
「文句?」
「獣人の道具は荒っぽいとか、人間の道具の方が扱いやすいとか」
「……ダリオさんらしいな」
カナタは思わず笑った。
ミルザも笑う。
「でも」
笑みが消える。
「半年で、すべてが変わりました」
集落の外、森へ視線を向ける。
「一つの事件からです」
「……アルノさんのこと?」
カナタが尋ねる。
ミルザは驚いたように目を見開いた。
「知っているのですか?」
「伝書院で聞きました」
「そうですか」
ミルザはしばらく黙った。
「私たちも、あの日のことを何度も話し合いました」
「何が起きたんですか?」
「今も、はっきりしたことは言えません」
その答えは、セレフィナのものと同じだった。
「双方の証言が違います」
「はい」
「だから私は、もう一度話したいと思っています」
「ダリオさんも、同じ気持ちかもしれません」
ミルザが顔を上げる。
「……本当に?」
「手紙を返してくれましたから」
ミルザは手紙を抱える。
「そうですね」
その顔に、かすかな笑みが戻った。
その時。
集落の奥から声がした。
「ミルザ!」
若い獣人の男性が走ってくる。
「北側の畑で、また見つかった!」
「何を?」
「木材だ」
「……木材?」
「切ったばかりの木が置かれていた」
ミルザの表情が変わる。
「人間のもの?」
「判断できない」
「場所は?」
「森の境界近く」
カナタとリーゼが顔を見合わせる。
「……また?」
リーゼが小さく呟いた。
ミルザは二人に気づく。
「すみません」
「いえ」
カナタが答える。
「何か問題が?」
「森で最近、勝手に木を切られているんです」
「人間が?」
「そう考えています」
ミルザは言葉を選ぶように続けた。
「ですが、確かな証拠はありません」
「じゃあ……」
「こちらから抗議すれば、人間側は『自分たちはやっていない』と言うでしょう」
ミルザは苦しそうに笑う。
「実際、そう言われました」
カナタは周囲を見渡した。
集落の人々。
畑。
森。
人間側の街道。
すべてが近い。
森の境界に立つ杭の一本には、三本の浅い傷が刻まれていた。
獣の爪を思わせる印。
だが、傷の周囲には新しい木屑が残っている。
誰かが、つい先ほど刻んだように見えた。
「……難しいな」
思わず呟いた。
「はい」
ミルザが答える。
「だからこそ、今はまだ争いにしたくありません」
その言葉には、揺るがない意思があった。
「私たちにも生活があります」
「はい」
「人間にも生活があります」
「そうですね」
「どちらかが森をすべて使えば、もう片方は困ります」
ミルザは手紙を見る。
「だから、話し合わなければいけないのです」
その時。
カナタの鞄の中で、何かが触れた。
今度は、はっきりと音がした。
――こつ。
木札が、鞄の内側を叩いた。
「……?」
カナタは鞄を見る。
青い羽根。
以前から持っている羽根が、かすかに温かくなっていた。
その下で、布に包んだ木札がわずかに震えている。
風はない。
カナタは眉をひそめた。
「カナタさん?」
「いや」
カナタは首を振る。
「なんでもない」
羽根と木札を確かめることはしなかった。
今は、目の前の問題を優先すべきだった。
「ミルザさん」
リーゼが尋ねる。
「森の境界について、何か決まった目印はありますか?」
「ありません」
「目印が?」
「はい」
ミルザは首を横に振る。
「昔は互いに、だいたいの場所を知っていました」
「でも今は?」
「人が変わりました」
ミルザは静かに言った。
「昔から森を使っていた人たちが減り、新しい人たちが入ってきています」
「……だから、どこまでが誰の場所なのか分からなくなってる?」
「それも一つの理由でしょう」
ミルザは境界の杭へ目を向けた。
「目印がなければ、誰かが勝手に作ります」
「勝手に?」
「自分たちに都合のいい境界を」
その言葉に、カナタは杭の傷を思い出した。
新しい傷。
古い印。
誰かが、誰かのものに見せかけるための印。
森の奥で見た影が、脳裏をよぎった。
「そういえば」
カナタは思い出した。
「昨日拾った木札」
「木札?」
ミルザが反応した。
「北東街道の森の入口で拾いました」
カナタは簡単に説明する。
ミルザの表情が変わった。
「……どんなものですか?」
リーゼが木札の特徴を説明する。
「小さな木製の札です。獣の爪のような三本の線が刻まれていました」
ミルザが黙る。
その視線が、カナタの鞄へ落ちた。
「……それは」
「何か分かりますか?」
「その印は、私たちの集落のものです」
やはり。
カナタは頷いた。
「やっぱり」
ミルザは続ける。
「ただし、その札を使うのは、交易品を扱う者だけです」
「……」
「集落の誰かが、最近そこへ交易品を運んだという記録はありません」
カナタとリーゼが顔を見合わせた。
「じゃあ……」
「おかしいです」
ミルザは静かに言った。
「半年ほど、あの道を使った交易はほとんどありません」
風が吹いた。
木々が揺れる。
その揺れの中で、森の奥に一瞬だけ白いものが見えた。
木の皮か。
獣の牙か。
カナタが目を凝らした時には、もう消えていた。
カナタは昨日、木札を拾った場所を思い出す。
人間側の街道。
森の入口。
正式な交易路から外れた場所。
「……誰かが、古い札を持っていた?」
「その可能性はあります」
ミルザは頷く。
「ですが、なぜそこに?」
答えは出なかった。
誰も口を開かない。
ただ、森の奥から、低い風の音が流れてきた。
獣が唸っているようにも聞こえた。
やがて、ミルザが手紙を鞄へしまった。
「今日はありがとうございました」
「いえ」
「ダリオに伝えてください」
「何を?」
ミルザは考えた。
「……まだ、話したいと思っていると」
「分かりました」
カナタは頷いた。
「伝えます」
「ありがとうございます」
ミルザは深く頭を下げた。
集落を出る。
森の道を戻る。
しばらくして、リーゼが口を開いた。
「……カナタさん」
「うん」
「木札のこと」
「気になるよな」
「はい」
「ミルザさんも、あの場所で使ってないって言ってた」
「つまり」
リーゼは歩きながら考える。
「誰かが持ってきた可能性があります」
「誰かって?」
「今のところ、手がかりがありません」
カナタは空を見上げた。
雲が増えている。
森の上だけ、雲が異様に低く垂れ込めていた。
「人間かもしれない」
「獣人族かもしれません」
「別の誰かかもしれない」
「はい」
どの可能性にも、証拠がない。
ただ、森の中には、二人のものではない足跡が残っていた。
道の端から現れ、二人の歩いた跡をしばらく並んで進み、途中で途切れている。
足跡の形は、人間のものとも獣人族のものとも判別できなかった。
「でも」
リーゼが言った。
「一つだけ分かったことがあります」
「何?」
「木札は、単なる落とし物ではないかもしれません」
カナタは黙った。
「どういう意味?」
「まだ判断できません」
リーゼは小さく笑う。
「だから、記録しておくんです」
「伝書人らしいな」
「伝書人は、見たものを忘れないことも仕事ですから」
「なるほど」
二人は歩き続けた。
森の出口が見えてきた。
その時、カナタが足を止めた。
「……リーゼ」
「はい?」
「あれ」
少し先。
倒れた木の根元に、何かが落ちている。
二人で近づく。
小さな木片。
拾い上げる。
木札ではない。
ただの木片だった。
しかし、そこには浅い傷が三本刻まれていた。
獣の爪を思わせる線。
昨日の木札と、よく似ている。
「……」
リーゼの表情が変わる。
「これ」
「うん」
カナタは木片を見つめた。
木片の表面には、黒ずんだ染みがあった。
樹液にも、土にも見えない。
指で触れると、冷たく、わずかに粘ついた。
「同じ印……なのか?」
「断定はできません」
リーゼは木片を受け取った。
しばらく観察する。
「でも、偶然にしては……」
言葉を止める。
木片は古い。
それなのに、傷だけは比較的新しかった。
さらに、三本の傷の奥には、細い赤い線が残っている。
刻んだ時に付いたものなのか。
それとも、木の中から滲み出たものなのか。
判断できなかった。
「これも持って帰りましょう」
「うん」
カナタは頷いた。
木片を布で包む。
その瞬間。
森の奥で、誰かが息を吸った。
はっきりと。
近くで。
二人は振り返った。
木々の間に、黒い影が立っていた。
人の形に見えた。
だが、頭の位置が高すぎる。
肩の幅も、腕の長さも、人間とは違う。
カナタが一歩踏み出すと、影は木の幹の裏へ沈んだ。
「……今、見ましたか?」
リーゼの声が震えていた。
「見た」
二人で近づく。
そこには誰もいない。
ただ、幹の表面に新しい三本の傷が刻まれていた。
傷の下には、木札と同じ黒い染みが垂れている。
カナタは手を伸ばしかけた。
しかし、リーゼが腕を掴んだ。
「触らないでください」
「……ああ」
森の奥から、また音がした。
今度は、木札が石に当たるような音。
――カラン。
けれど、音のした場所には何も落ちていなかった。
二人はそれ以上、森へ入らなかった。
その日の夕方。
伝書院。
セレフィナは、二人から報告を受けていた。
「……木札と、もう一つの木片ですか」
「はい」
リーゼが机の上へ並べる。
二つ。
片方は木札。
もう片方は、ただの木片。
どちらにも似た三本の傷がある。
セレフィナは、すぐには手を伸ばさなかった。
木札と木片の周囲に、薄い布を敷く。
それから、窓を閉め、部屋の扉にも鍵を掛けた。
「これは」
「何か分かりますか?」
カナタが尋ねる。
「現段階では、判断できません」
セレフィナは答えた。
「ですが、昨日より気になりますね」
「やっぱり?」
「ええ」
セレフィナは二つの木片を見比べる。
木札の傷は整っている。
交易品を識別するための、決められた印。
一方、木片の傷は乱れていた。
似せて刻んだようにも。
同じ印を、別の手でなぞったようにも見える。
「もし同じものだとすれば」
「すれば?」
「誰かがこの印を使っていることになります」
「獣人族?」
「それも判断できません」
セレフィナは首を横に振った。
「印を知っている者が使ったのかもしれない」
「……」
「あるいは」
セレフィナの目が鋭くなる。
「知っている者を装っているのかもしれません」
カナタは息を呑んだ。
「偽物?」
「可能性の一つです」
セレフィナは木片へ視線を落とした。
「ただ、偽物なら、なぜこんな場所に残すのでしょう」
「誰かに見つけさせるため?」
「ええ」
セレフィナは木札を布越しに確認する。
「印は、言葉より早く広がります」
「……」
「誰かが何かをしたという証拠に見えるだけで、人は相手を疑います」
セレフィナは木片を袋へ入れた。
袋の口を閉じる前に、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
「この木片、森のどこで拾いましたか?」
「森の出口近くです」
「そうですか」
「何かありますか?」
「木の種類が違います」
セレフィナは木札と木片を見比べた。
「木札は集落周辺で使われる木です。ですが、この木片は、森の奥にしか生えない木のものです」
「……じゃあ、誰かが森の奥で刻んだ?」
「その可能性があります」
「それなら、どうして出口に?」
セレフィナは答えなかった。
代わりに、袋を二重に縛った。
「だからこそ、決めつけてはいけません」
「はい」
「人間の仕業とも」
「獣人族の仕業とも?」
「ええ」
セレフィナは二人を見る。
「今、この地域では誰もが相手を疑いやすくなっています」
「……」
「そんな時に、誰かが意図的に相手の印を残せば」
カナタは言葉を失った。
「それだけで、新しい疑いが生まれます」
静かな院長室。
時計の音だけが聞こえる。
その音に混じって、袋の中から小さな擦過音がした。
――かり。
セレフィナの手が止まる。
「……今、動きましたか?」
リーゼが尋ねる。
「いいえ」
セレフィナは袋を見つめた。
もう音はしない。
「木札一枚で?」
カナタが聞く。
「はい」
セレフィナは頷いた。
「争いというものは、大きな事件から始まるとは限りません」
「……」
「小さな疑いから始まることもあります」
カナタは今日見た集落を思い出した。
畑。
子ども。
ミルザ。
そして、リュネアで暮らすダリオ。
どちらも、普通に暮らしている人たちだった。
だからこそ。
「……これ以上、悪くならないといいな」
カナタが呟く。
セレフィナは答えなかった。
ただ、わずかに優しい目を向けた。
その夜。
月影亭。
カナタは部屋の窓を開けた。
夜風が入ってくる。
「……今日は長かった」
椅子に座る。
机の上には、何もない。
伝書は無事に届けた。
仕事としては成功だ。
それでも、今日見たものは、いつもの伝書とは違っていた。
人間と獣人族。
同じ森。
異なる生活。
異なる立場。
そして、同じ場所を巡る異なる記憶。
「境界線、か」
カナタは呟いた。
その時。
窓の外。
森の方向から、遠く何かが光った気がした。
「……?」
カナタは立ち上がる。
光は一度だけだった。
月明かりの反射にしては、低すぎる。
森の中。
地面に近い場所で、青白い光が瞬いた。
しかし、もう何も見えない。
月明かりが揺れているだけだった。
机の上。
鞄を開く。
青い羽根を取り出す。
淡い光。
いつもより、わずかに強い。
羽根の先が、森の方へ向いていた。
「……何なんだろうな、お前」
羽根は答えない。
淡い青色の光を宿したまま、静かに揺れている。
その光が、ほんの一瞬だけ三本の線を描いた。
カナタが瞬きをすると、元の羽根に戻っていた。
カナタは羽根をしまった。
その頃。
北東の森。
誰も通らないはずの古い道を、一人の影が歩いていた。
手には、小さな木札。
獣の爪を思わせる三本の印。
影は立ち止まる。
木札を見つめる。
その指先には、黒い染みが付いていた。
影は木札を森の奥へ投げ捨てた。
――カラン。
木札が石に当たる。
その音だけが、静かな森に響いた。
影は動かなかった。
木札が倒れた場所を見つめている。
やがて、森の奥から別の音が返ってきた。
――カラン。
今度は、影の足元からだった。
影がゆっくり振り返る。
そこには、誰もいない。
ただ、木々の間に、三本の白い傷が浮かんでいた。
誰なのか。
何のためなのか。
まだ手がかりはない。
しかし、木札は偶然そこに落ちていたわけではなかった。
それは、誰かに拾わせるために置かれた印だった。
そして、カナタが今日届けた一通の手紙も、この小さな異変とは無関係ではなかった。
人間から。
獣人族へ。
境界線を越えた一通の返事。
その一方で、誰かが境界線を揺らすための小さな印を残していた。
あるいは。
境界線の向こう側にいる何かが、こちらへ手を伸ばしていた。
翌朝。
カナタのもとへ、また一通の伝書が届く。
宛先は、北東。
差出人は、獣人族の集落だった。
カナタは封筒を見つめる。
封蝋には、見覚えのない三本の傷が刻まれていた。
「……またか」
リーゼが隣から覗き込む。
「今度は誰からでしょう」
カナタは封蝋から目を離せなかった。
「まだ分からない」
二人は顔を見合わせた。
封筒の内側から、かすかに木の匂いがした。
そして、どこからともなく。
――カラン。
小さな音が響いた。
カナタは手紙を受け取る。
今日も。
誰かの想いを。
誰かのもとへ。
一通ずつ。
その先に待っているものが、単なる返事ではないことを。
その手紙が、誰かに届けられる前から、すでに別の何かを呼び寄せていることを。
この時の二人は、まだ知らなかった。




