第2話 届いた手紙、消えない傷
翌朝。
カナタが伝書院へ入ると、いつもと少し違う空気が流れていた。
忙しい。
それはいつものことだった。
机の上には伝書が積まれ、職員たちは宛先を確認しながら仕分けをしている。
外では中継所から届いた荷物の確認が行われている。
特別なことなど何もない。
それでも。
「おはようございます、カナタさん」
「おはよう、リーゼ」
リーゼが声をかけてきた。
いつもと同じ笑顔。
けれど、その手には数枚の報告書があった。
「昨日の北東街道の件、少し調べてみました」
「昨日の?」
「木札のことです」
「ああ」
カナタは思い出した。
森の入口で拾った、小さな木製の札。
獣の爪を思わせる模様が刻まれていた。
「何か分かった?」
「まだ確定ではありません。ただ、あれは獣人族の集落が、交易品などにつける識別札に似ているそうです」
「交易品?」
「はい」
リーゼは報告書を見せる。
「昔、ダリオさんの工房から獣人族の集落へ送っていた農具にも、似た印が使われていたそうです」
「じゃあ、昨日の木札も?」
「可能性は高いですね」
カナタは考え込んだ。
「でも、なんで森の入口に落ちてたんだろう」
「それはまだ分かりません」
リーゼは報告書を閉じる。
「だから、しばらく北東街道を通る時は注意してください」
「分かった」
「それから」
「ん?」
「今日の午後、私は別の仕事があります」
「そうなの?」
「はい。西側の中継所へ書類を届ける予定です」
「じゃあ、今日は別行動か」
「そうなりますね」
リーゼは少しだけ残念そうにした。
だが、すぐに仕事の顔へ戻る。
「カナタさんは今日は南側ですよね?」
「うん。三通」
「では、帰ってきたら報告をお願いします」
「了解」
リーゼは頷いた。
「無理はしないでくださいね」
「分かってるって」
「……本当に?」
「本当に」
リーゼは少しだけ目を細めた。
「なら、信じます」
そう言って、自分の仕事へ戻っていった。
その日の午前。
カナタはいつものように伝書を届けていた。
商店。
農家。
小さな工房。
宛先を確認し、名前を確認し、手渡す。
受け取った人の表情を見る。
嬉しそうな人。
驚く人。
すぐに封を切る人。
家族の前で読む人。
カナタは、少しずつそういう光景に慣れてきていた。
手紙を届ける。
それだけ。
けれど。
その「それだけ」の向こうに、人の生活がある。
昼過ぎ。
最後の一通を届けたカナタは、伝書院へ戻った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
受付にいた職員が返事をする。
「リーゼは?」
「西側の中継所から、まだ戻っていません」
「そっか」
カナタは自分の机へ向かった。
報告書を書こうとした、その時。
「カナタさん」
セレフィナに呼ばれた。
「はい」
「少し話があります」
院長室。
セレフィナは机の上に、一枚の書類を置いた。
「昨日のダリオさんの件ですが」
「はい」
「今朝、彼から伝書院へ問い合わせがありました」
「問い合わせ?」
「ミルザさんから届いた手紙についてです」
カナタは少し驚いた。
「手紙の内容を?」
「それは聞いていません」
セレフィナは首を横に振る。
「ただ、ダリオさんは『これからも手紙を届けてもらえるのか』と尋ねたそうです」
「……」
「私は、当然届けると答えました」
カナタは頷く。
「それでいいと思います」
「ええ」
セレフィナは少しだけ微笑んだ。
「あなたが昨日言ったことと同じですね」
「俺?」
「届くべき手紙は、届ける」
「ああ」
それは。
カナタが伝書人として最初に覚えたことだった。
その日の夕方。
リーゼが戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
カナタが声をかける。
「カナタさんも、もう戻っていたんですね」
「うん」
リーゼは荷物を置き、椅子に座った。
「疲れました……」
「珍しいな」
「今日は書類が多かったんです」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
少し休んだあと。
リーゼはカナタの机を見る。
「報告書、終わりました?」
「今から」
「では、私も確認します」
「いいの?」
「仕事ですから」
リーゼはそう言った。
けれど。
カナタには分かっていた。
それだけではない。
自分がちゃんと戻ってきたか。
怪我をしていないか。
今日も無事だったか。
それを確かめたいのだ。
「……リーゼ」
「はい?」
「心配しすぎじゃない?」
「何のことでしょう」
「俺のこと」
「……」
リーゼは黙った。
そして。
「少しだけです」
「やっぱり」
「仕方ないでしょう」
リーゼは困ったように笑った。
「一度、大変なことになった人ですから」
ハルディア砦。
あの時。
カナタはほとんど魔力を失った。
意識を失い。
命の境目にいた。
リーゼにとって、それは今でも簡単には忘れられない出来事だった。
「だから」
リーゼは小さく言う。
「無事に帰ってきた顔を見ると、安心するんです」
カナタは何も言えなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
リーゼは少し照れたように笑った。
その夜。
伝書院の仕事が一段落した頃。
セレフィナが二人を呼び止めた。
「少し確認してほしいものがあります」
机の上に置かれたのは、一枚の地図。
北東街道。
獣人族の集落。
そして、その間にある森。
「また報告が入りました」
「何が?」
カナタが尋ねる。
「森の中で、人間側の伐採業者と獣人族が言い争いになったそうです」
「……また?」
「幸い、怪我人は出ていません」
セレフィナは地図上の一点を指した。
「ですが、問題はその場所です」
そこは。
昨日カナタが木札を拾った場所から、それほど遠くなかった。
「同じ場所?」
「近いです」
リーゼの表情が険しくなる。
「これは偶然でしょうか」
「まだ判断できません」
セレフィナは答える。
「ですが、双方とも神経質になっています」
「どうしてそこまで?」
カナタが聞く。
「森に関して、それぞれ事情があるからです」
セレフィナは静かに説明した。
「人間側にとって、あの森は木材や薬草を得る重要な場所です」
「獣人族にとっては?」
「狩猟場であり、生活の場です」
「……同じ場所を使ってるんだ」
「ええ」
だからこそ。
どちらかが一歩踏み込めば、もう片方には「侵入」に見える。
どちらかが木を切れば、もう片方には「生活を奪われた」と感じられる。
悪意がなくても。
衝突する。
「それなら、ちゃんと話し合えばいいんじゃないですか?」
カナタが言った。
セレフィナは少し寂しそうに笑った。
「それができていれば、今の状況にはなっていません」
「……」
「互いに、自分たちが被害を受けていると思っていますから」
カナタは黙り込んだ。
正しいとか。
間違っているとか。
そんな簡単な話ではない。
その頃。
リュネアの工房街。
ダリオは一人、工房の奥に座っていた。
手元には。
昨日受け取った手紙。
まだ開封されていない。
何度も封筒を見つめ。
何度も手を伸ばして。
そして、戻す。
「……今さら何を書いてきたんだ」
小さく呟く。
ダリオの脳裏に、半年前の光景が浮かぶ。
森の中。
弟のアルノが倒れていた。
肩を押さえながら、苦しそうにしていた。
その周囲には、数人の獣人族。
互いに怒鳴り合っていた。
何が最初だったのか。
今となっては、ダリオ自身にも分からない。
アルノは「向こうが先に襲ってきた」と言った。
獣人族側は「人間が禁じられた場所へ入った」と言った。
どちらも譲らなかった。
そして。
ダリオは弟を連れて帰った。
それ以来。
獣人族との交易を止めた。
もう関わらない。
そう決めた。
そうしなければ。
また誰かが傷つくと思ったからだ。
けれど。
ミルザは違った。
彼女は昔からそうだった。
何かあれば話し合おうとする。
怒っていても、最後には言葉を探す。
ダリオが工房へ新しい道具を持っていけば。
「人間の職人は器用だな」と笑っていた。
ダリオが彼女たちの村で作られた薬草を褒めれば。
「次はもっといいものを渡そう」と笑っていた。
そんな関係だった。
それが。
一つの事件で壊れた。
ダリオは、とうとう封筒を開いた。
中には一枚の便箋。
そこに書かれていたのは。
短い文章だった。
――ダリオへ。
――あの日のことを、まだ忘れていません。
――私たちは、あなたの弟を傷つけました。
――けれど、私たちもまた、あの時何が起きたのかを分かっていません。
――だからこそ。
――もう一度、話をしたいと思っています。
ダリオの手が止まった。
続きには。
集落で最近起きていること。
森で人間と獣人が衝突する回数が増えていること。
そして最後に。
――このまま互いを疑い続ければ、次はもっと大きな傷になる。
そう書かれていた。
ダリオは長い間、手紙を見つめていた。
「……ミルザ」
昔のように。
その名前を呼んだ。
怒りは消えていない。
弟の傷も消えない。
けれど。
手紙を書いた相手を、嫌いになりきれない自分もいた。
翌朝。
伝書院。
カナタがいつものように仕事をしていると。
一人の男が入口から入ってきた。
「すみません」
「はい」
カナタが顔を上げる。
「ダリオ・フェルンさんから、伝書を預かってきました」
男が差し出した封筒。
宛先は。
獣人族の集落。
差出人は。
ダリオ・フェルン。
「……」
カナタは封筒を受け取った。
昨日とは逆だった。
今度は。
人間側から、獣人族へ。
リーゼもそれに気づいた。
「……返事ですね」
「たぶん」
カナタは封筒を見る。
そこには何の特別な印もない。
ただ一通の手紙。
けれど。
昨日の一通を受け取った人間が。
今度は自分から、向こうへ言葉を返そうとしている。
「カナタさん」
リーゼが言った。
「はい」
「この伝書……」
「届けるよ」
カナタは即答した。
「もちろんです」
リーゼは頷いた。
「では、準備しましょう」
その声には。
少しだけ不安が混じっていた。
窓の外。
リュネアの街は今日も穏やかだった。
市場では人々が買い物をし。
子どもたちが走り。
商人たちが声を張り上げている。
誰も。
街の外で何が起きているのかを知らない。
あるいは。
知っていても、自分たちには関係ないと思っている。
けれど。
カナタの鞄の中には。
一通の手紙が入っている。
人間から。
獣人族へ。
それは。
まだ小さな一歩だった。
仲直りになるのか。
新たな誤解を生むのか。
誰にも分からない。
ただ。
カナタは思う。
手紙を届ける前から。
もう、この手紙には意味がある。
誰かが。
誰かに言葉を返そうとした。
その事実だけで。
昨日とは少し違う一日が始まっていた。
そして。
その手紙を届ける旅が。
カナタを再び、境界線の向こう側へ向かわせることになる。




