第1話 いつもの朝、知らない手紙
朝の空気が、少しだけ冷たくなっていた。
リュネア。
アルヴェリア王国の中でも、街道と交易路が集まるこの街では、朝が早い。
まだ太陽が完全に昇りきる前から、商人たちが荷車を動かし始める。
パン屋からは焼きたての香り。
通りには、水を汲みに行く人々。
宿屋の前では旅人たちが荷物をまとめている。
いつもの朝。
いつもの街。
そして。
いつもの伝書院。
「……眠い」
月影亭の一室。
ベッドの上で、カナタは大きく伸びをした。
こちらの世界へ来てから、それなりの時間が経った。
最初は聞き慣れなかった言葉。
見慣れなかった街並み。
知らない魔法。
知らない生き物。
知らない常識。
何もかもが新しかった。
けれど今では。
朝起きて。
身支度をして。
伝書院へ向かう。
それが当たり前になっている。
「……今日も仕事か」
そう呟きながら、カナタはベッドから起き上がった。
月影亭を出る。
リュネアの朝の通りを歩く。
目的地は、エルナ地区にある伝書院。
以前は少し遠く感じた道も、今では慣れたものだった。
道の角。
小さな広場。
水場。
市場。
そこを抜ければ、見慣れた建物が見えてくる。
伝書院。
誰かから預かった手紙を。
誰かのもとへ届ける場所。
カナタにとっては、もう「職場」という言葉だけでは表せない場所になっていた。
「おはようございます、カナタさん」
「おはよう、リーゼ」
入口で声をかけてきたのはリーゼだった。
すでに仕事着に着替えている。
白いブラウス。
紺色のベスト。
膝丈のスカート。
肩から革の鞄を提げ、胸元には銀色の徽章。
今日も変わらない、伝書人の姿。
「今日は早いですね」
「リーゼこそ」
「私はいつもこれくらいです」
「昨日、鍵忘れてたけど」
「……それは忘れてください」
「無理だろ」
「お願いします」
リーゼは少しだけ頬を膨らませた。
その表情に、カナタは笑う。
「朝から元気だな」
「カナタさんが余計なことを言うからです」
「はいはい」
二人並んで、伝書院へ入っていく。
朝の伝書院は忙しい。
夜の間に集められた伝書。
早朝に届いた荷物。
各地区から届けられた報告書。
それらを仕分けし、送り先を確認する。
カナタも自分の机につくと、いつものように作業を始めた。
「東地区、三通」
「西地区、二通」
「フォルネの森方面は……」
カナタは地図を見る。
「今日はありませんね」
「そうですね」
リーゼが答える。
「最近は森の奥へ向かう伝書が減っています」
「魔物の件があったから?」
「それもあります」
リーゼは少しだけ表情を曇らせた。
フォルネの森。
カナタがこの世界で最初に目を覚ました場所。
そして、彼の旅が始まった場所でもある。
「森の奥は、まだ不安定ですから」
「また魔物が増えたりする可能性もある?」
「分かりません」
リーゼはそう答えてから。
「だからこそ、無理はしないでくださいね」
「俺、今日は森に行かないよ」
「知っています」
「じゃあなんで」
「念のためです」
「……はい」
カナタは苦笑した。
そんな中。
一人の職員が、少し慌てた様子で奥から出てきた。
「院長、これを確認していただけますか?」
「何かありましたか?」
セレフィナが書類を受け取る。
そして。
眉をわずかに動かした。
「……これは?」
「今朝、北側の中継所から届いたものです」
カナタは何気なくそちらを見る。
灰色の封筒。
見覚えのあるものだった。
以前届いた、異人種からの伝書。
「……またですか」
リーゼが呟いた。
「ええ」
セレフィナが答える。
「ただし、今回は少し違います」
「何がですか?」
カナタが聞く。
セレフィナは封筒を裏返した。
差出人の名前。
そして、その下に記された場所。
「人間側の町ではありません」
カナタが目を細める。
「じゃあ……」
「獣人族の集落です」
伝書院の空気が、ほんの少し変わった。
獣人。
この世界には、人間以外にも多くの種族が存在する。
耳や尾など、人間とは異なる身体的特徴を持つ者。
エルフのように長い耳を持つ者。
ドワーフのように小柄な体格を持つ者。
それぞれに独自の文化があり、暮らしがある。
リュネアにも、異人種の商人や旅人は珍しくない。
だから。
異人種から手紙が届くこと自体は、珍しいことではない。
ただ。
この手紙の宛先は。
これまで伝書院が定期的に扱ってきた場所ではなかった。
「この集落への伝書は、以前にも?」
カナタが尋ねる。
「何度かあります」
セレフィナが答える。
「ですが、ここ数ヶ月で少し状況が変わっています」
「状況?」
「人間側との交易が減っています」
セレフィナは地図を広げた。
リュネアの北東。
街道を外れた場所に、小さな印がある。
「ここが獣人族の集落です」
「意外と近いですね」
「距離だけなら」
リーゼが地図を見る。
「問題は、その間にある森です」
「森?」
「人間側と獣人側の双方が利用している場所です」
リーゼの指が地図上を滑る。
「以前は商人も旅人も普通に通っていました。でも最近、双方から『相手が勝手に領域へ入ってきた』という報告が増えています」
「……領域争い?」
「まだ、それほど大きな話ではありません」
セレフィナが言う。
「ですが、こういう小さな行き違いが積み重なると、取り返しがつかなくなることがあります」
カナタは黙って地図を見る。
ハルディア砦の時とは違う。
魔物が襲ってくるわけではない。
軍隊が動いているわけでもない。
誰かが剣を抜いているわけでもない。
それでも。
何かが少しずつ変わっている。
「それで、この手紙は?」
「獣人族側から、リュネアに住む人間へ宛てたものです」
「……誰に?」
カナタが尋ねた。
セレフィナは封筒の宛名を確認する。
「ダリオ・フェルンさんです」
「知ってる」
リーゼが答えた。
「工房街にある小さな木工工房の方です」
「木工?」
「はい。以前は獣人族との交易をしていた方です」
セレフィナが補足した。
「特に獣人族が使う狩猟道具や農具を作っていました」
「じゃあ、異人種との付き合いも長いんだ」
「ええ」
そこで。
セレフィナの表情が少し曇った。
「ですが、半年前から交易をやめています」
「何かあったんですか?」
「……事件がありました」
セレフィナは少し考えてから話した。
「北東の森で、ダリオさんの弟が獣人族の若者たちと揉めたのです」
「揉めた?」
「詳しいところは双方の証言が食い違っています。ただ、その際にダリオさんの弟が怪我をしました」
カナタは黙って聞いていた。
「それ以来、ダリオさんは獣人族との取引を止めました」
「……それだけ?」
「いいえ」
セレフィナは首を横に振った。
「獣人族側にも言い分があります」
地図の上。
獣人族の集落を指で示す。
「彼らは、最初に森へ入り込んだのは人間側だと言っています」
「……どっちが本当なんだ?」
「分かりません」
セレフィナは静かに答えた。
「だからこそ、厄介なのです」
誰か一人が完全に悪い。
そういう話なら簡単だった。
けれど。
双方が自分たちこそ被害者だと思っている。
その状態で時間だけが過ぎれば。
小さな事件が、次の事件を生む。
「ダリオさんは、獣人族のことを嫌っているんですか?」
カナタが尋ねた。
「……本人に聞かなければ分かりません」
セレフィナはそう答えた。
「ただ、昔は違いました」
「昔?」
「彼は獣人族の集落へ何度も足を運んでいました。交易だけではなく、個人的な付き合いもあったようです」
「じゃあ……」
カナタは灰色の封筒を見る。
「この手紙は、その頃の知り合いから?」
「おそらく」
セレフィナは宛名をもう一度確認した。
「差出人は、ミルザ・ラグという獣人族の女性です」
「女性?」
「現在の集落の長を務めています」
リーゼが少し驚いた。
「ミルザさん……」
「知っていますか?」
「名前だけです。以前、伝書の記録で見たことがあります」
セレフィナは頷いた。
「彼女は、ダリオさんと長年付き合いのあった人物です」
「じゃあ、なんで今さら?」
「それも、この手紙の中身を見ない限りは分かりません」
伝書院の規則。
届ける手紙を勝手に読むことはできない。
たとえ、その内容が国と国の問題に繋がる可能性があったとしても。
伝書人が勝手に判断することではない。
カナタは手紙を見つめた。
不思議だった。
紙一枚。
封筒一つ。
それなのに。
その向こうには、半年間話していない人間と獣人がいる。
かつては取引をして。
言葉を交わして。
笑っていたかもしれない。
それが。
今では互いに相手を警戒している。
「この手紙、俺が届けます」
カナタが言った。
セレフィナが顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「はい」
カナタは頷いた。
「手紙の内容は知らないけど」
灰色の封筒を手に取る。
「届くべき相手には、ちゃんと届けたいです」
リーゼが静かに微笑んだ。
「カナタさんらしいですね」
「そうかな」
「はい」
そして。
「ただし、今回は私も同行します」
「仕事は?」
「調整します」
「また心配してる?」
「……しています」
リーゼは素直に答えた。
「最近、北東方面の報告が増えていますから」
「分かった。よろしく」
「はい」
準備を整え、二人はリュネアの街へ出た。
向かう先は工房街。
ダリオ・フェルンの工房だった。
工房街は、朝から木を削る音が響いていた。
大工。
家具職人。
荷車職人。
木製の道具を作る職人。
様々な工房が並んでいる。
「ここですね」
リーゼが足を止める。
看板には、簡素な文字で。
――フェルン木工工房。
カナタは扉を叩いた。
「すみません。伝書院から来ました」
「……伝書?」
中から男の声がした。
しばらくして。
四十代ほどの男性が姿を現した。
腕まくりしたシャツ。
木屑のついた前掛け。
日に焼けた顔。
「ダリオ・フェルンさんですか?」
「そうだが」
カナタは封筒を差し出す。
「こちらを」
ダリオの顔が固まった。
灰色の封筒。
そこに記された名前を見た瞬間。
明らかに表情が変わった。
「……ミルザ」
小さな声だった。
「知ってる人?」
カナタが聞く。
ダリオは答えなかった。
ただ。
震える手で封筒を受け取った。
そしてしばらく、封筒を開けようとしない。
「……半年ぶりだ」
やがて、ぽつりと呟く。
「何がですか?」
「この名前を見るのがだ」
ダリオは封筒を握りしめた。
「俺は、あの集落とはもう関わらないと決めた」
怒っているようにも。
悲しんでいるようにも聞こえた。
「弟が怪我をした」
「……はい」
「俺はあいつを守れなかった。だから、もう二度とあの森へ行かないと決めた」
ダリオは封筒を見つめる。
「なのに……今さら何の用だ」
カナタには答えられない。
手紙の中身を知らないからだ。
だから。
「それは、俺には分かりません」
正直に答えた。
「でも」
カナタは続ける。
「手紙を届けてほしいと思った人がいた。それだけは分かります」
ダリオが顔を上げる。
「……」
「だから、俺は届けました」
しばらく。
誰も何も言わなかった。
やがて。
ダリオは封筒を胸元へ押し当てる。
「……そうか」
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
「ありがとう」
カナタは頷いた。
「どういたしまして」
それだけ言って、工房を離れようとする。
その時。
「待ってくれ」
ダリオが呼び止めた。
振り返る。
「この手紙を……届けに来てくれて、本当にありがとう」
「はい」
「それと」
ダリオは少し迷ってから言った。
「もし、またあの集落から手紙が来たら」
「はい」
「……今度も、届けてくれ」
カナタは頷いた。
「もちろんです」
それだけ答えて、工房を出た。
外へ出ると、リーゼが待っていた。
「どうでしたか?」
「分からない」
「そうですか」
「でも」
カナタは歩き出した。
「嫌いになったわけじゃないんじゃないかな」
リーゼが横を見る。
「どうしてそう思うんですか?」
「手紙を見た時の顔」
カナタは少し考える。
「怒ってるっていうより……寂しそうだった」
リーゼは何も言わず、微笑んだ。
「伝書人は、人の顔を見る仕事ではありませんけどね」
「そうだな」
「でも、届けた手紙が何かを変えることはあります」
「……変わればいいな」
「はい」
二人は並んで歩いた。
その日の夕方。
伝書院へ戻ると、セレフィナが新しい報告書を確認していた。
「ダリオさんへ無事届けました」
「そうですか」
「それと……」
カナタは拾った木札のことを報告した。
「北東街道の森の入口で、これを拾いました」
木札を渡す。
セレフィナはそれを見る。
刻まれた獣の爪のような模様。
その表情がわずかに変わった。
「……これは」
「何か分かりますか?」
「獣人族の中でも、特定の集落が使う印に似ています」
「じゃあ、やっぱりあの集落の?」
「可能性はあります」
セレフィナは木札を裏返す。
裏には、小さな傷が一本。
「ただ……」
「ただ?」
「これが、単なる落とし物ならいいのですが」
セレフィナはそれ以上言わなかった。
カナタも聞かなかった。
まだ何も分からない。
だからこそ。
今は、目の前の仕事を続けるしかない。
夜。
月影亭。
カナタは部屋で、青い羽根を取り出した。
淡い光が、ほんの少しだけ羽根の先に宿っている。
「……今日は、いつもと違ったな」
異人種からの手紙。
半年ぶりに届いた旧友からの便り。
森で拾った木札。
そして。
まだ何も起きていないのに、どこか張りつめた空気。
カナタは窓の外を見る。
リュネアの街は静かだった。
今日も平和だ。
けれど。
街の外では。
人間と異人種の間に、少しずつ見えない線が引かれ始めている。
その線は、まだ細い。
まだ誰も、それを「争い」とは呼ばない。
けれど。
誰かが森へ入った。
誰かが怒った。
誰かが怪我をした。
誰かが、もう関わらないと決めた。
そして。
誰かが、それでも手紙を書いた。
廊下から足音が聞こえた。
「カナタさん?」
「リーゼ?」
「もう寝ましたか?」
「まだ」
扉越しに声がする。
「明日は少し早いですから、ちゃんと寝てくださいね」
「リーゼもね」
「私は大丈夫です」
「……鍵なくさないように」
「もう、それは言わないでください」
小さな笑い声。
「おやすみなさい、カナタさん」
「おやすみ、リーゼ」
足音が遠ざかっていく。
カナタは羽根をしまった。
そして、静かに目を閉じた。
明日も。
きっと一通の手紙を届ける。
それだけの一日になる。
――そのはずだった。
まだ誰も知らない。
人間と異人種の間に生まれた小さな亀裂が。
やがて、いくつもの街と村を巻き込み。
軍でもなく、戦争でもない。
それでも多くの人々の暮らしを脅かす争いへ変わっていくことを。
そして。
その時。
境界線を越えて手紙を届けられる伝書人が。
必要とされることになる。
カナタはまだ知らない。
自分の鞄に入る一通一通が。
いつか。
人と人。
種族と種族。
そして、敵と味方。
その境界を越えるためのものになることを。




