第25話 風の向こうに届いたもの
王都から戻って、数週間が経った。
あれほど大きな出来事が続いたことが、まるで遠い夢だったように。
ハルディア砦。
ラグナ山。
集まってきた魔物たち。
自分でも扱いきれないほどの魔力。
そして、軍からの勧誘。
どれも、少し前のカナタなら想像すらできなかった出来事だった。
けれど。
「カナタさん、こちらの伝書、今日中にお願いします」
「了解です」
「それと、こちらは東地区です。途中で雨が降るかもしれませんから、防水袋を忘れないようにしてくださいね」
「はい」
今のカナタにとっては。
こうして机の上に並べられた伝書の束のほうが、ずっと身近なものになっていた。
朝。
伝書院に届いた手紙を仕分ける。
宛先を確認する。
必要なものを鞄へ入れる。
地図を広げて道順を確認する。
天候を確認する。
危険な地域がないか調べる。
そして。
届けに行く。
特別なことではない。
けれど、その一つ一つを確実にこなすことが、今のカナタには大切だった。
「……だいぶ慣れましたね」
隣から声がした。
振り向くと、リーゼが立っている。
今日も伝書人としての制服姿。
肩まで届く淡い栗色の髪は、いつものように片側を小さな髪留めでまとめている。
胸元には銀色の徽章。
腰には短剣。
そして、伝書人として使い込まれた革の鞄。
「そうかな」
「はい。最初の頃とは全然違います」
「最初は何をするにも緊張してたからな」
「それだけではありませんよ」
リーゼはカナタの机を見る。
そこには、今日の配達予定と地図。
さらに、簡単な天候予測と休憩地点まで書き込まれていた。
「以前は『どうやって届けるか』を考えていました」
「今は?」
「『どうすれば無理なく届けて帰ってこられるか』を考えています」
「……それ、そんなに違う?」
「とても大きな違いです」
リーゼは小さく笑った。
「伝書人にとって、一番大切なことですから」
カナタも地図へ視線を戻す。
「急がない」
「はい」
「無理をしない」
「はい」
「手紙を濡らさない」
「はい」
「宛先を間違えない」
「それは当然です」
「ちゃんと帰ってくる」
「……はい」
最後の言葉だけ。
リーゼの返事が、ほんの少しだけ遅れた。
カナタは気づかない。
地図を畳み、立ち上がる。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。気をつけてくださいね」
その言葉は、いつものものだった。
カナタの仕事は、少しずつ増えていた。
最初は近くの村への一通。
それが二通になり、三通になった。
町から町へ。
商店から工房へ。
農村から王都へ。
時には少し遠い宿場町まで。
もちろん、危険な地域へ行くときは一人ではない。
経験の浅いカナタが無理をすることを、伝書院はまだ認めていなかった。
それでも。
以前より長い距離を任されるようになった。
帰ってくる時間も安定してきた。
報告書も簡潔で分かりやすい。
道中で見つけた危険箇所。
魔物の痕跡。
崩れかけた橋。
雨でぬかるんだ道。
旅人が困っていた場所。
そういったものまで、カナタは記録していた。
伝書院にとって、それらは手紙と同じくらい価値のある情報だった。
「この報告、よく見ていますね」
ある日の夕方。
セレフィナがカナタの報告書を読みながら言った。
「そうですか?」
「ええ。以前より、ずっと具体的になっています」
「せっかく通った道なので」
「その考え方が、あなたらしいですね」
セレフィナは報告書を机へ置いた。
「ハルディア砦での一件があってから、あなたを見る目も変わりました」
「……いい意味で?」
「もちろん」
少しだけ笑ってから、セレフィナは続けた。
「ですが、あなたが評価されているのは、あの魔力だけではありません」
「え?」
「伝書人としての仕事を、着実に覚えていることです」
カナタは黙って聞いていた。
「巨大な魔力を持っていても、仕事を任せられなければ意味がありません。逆に言えば、あなたは今、自分の力をどう使うべきかを少しずつ理解し始めています」
「……まだ全然ですけどね」
「だからこそ、これからです」
セレフィナは穏やかに言った。
「あなたには、まだ時間があります」
その言葉が、カナタには少し嬉しかった。
その日の仕事を終えたあと。
カナタは伝書院の裏庭で、魔力制御の練習をしていた。
「もっと小さく」
リーゼの声がする。
「はい」
「力を入れるのではなく、流すだけです」
「……難しいな」
「最初に比べれば、とても上手になっていますよ」
カナタの手のひらに、小さな光が浮かぶ。
以前なら、意識した瞬間に大きな魔力が流れていた。
今は違う。
必要な分だけ。
ほんの少しだけ。
魔力を流すことができる。
「今の、とても綺麗でした」
「ほんと?」
「はい」
リーゼは嬉しそうに頷いた。
けれど。
次の瞬間。
「……あ」
ふらり。
「リーゼ?」
「少しだけ……魔力が気持ちよくて……」
リーゼは近くの壁に手をついた。
頬がほんのり赤い。
「また魔力に酔ってる?」
「……少しだけです」
「やっぱり相性がいいんだな」
「そうみたいですね」
リーゼは困ったように笑う。
「でも、以前より制御が上手になったので、私も楽になりました」
「じゃあ、もう少し続ける?」
「……はい」
少し間を置いて。
「もう少しだけ、お願いします」
カナタは苦笑した。
「無理はしないでよ」
「それはカナタさんもですよ」
「俺?」
「はい」
リーゼは真っ直ぐにカナタを見る。
「あなたは、自分が思っている以上に無理をしますから」
「……そうかな」
「そうです」
即答だった。
「だから、私が見ています」
「……ありがとう」
カナタは小さく笑った。
リーゼも笑う。
それ以上は、何も言わなかった。
そして。
そんな日々の中で。
一通の手紙が、伝書院へ届いた。
その手紙は、普段のものとは少し違っていた。
封筒の色が、薄い灰色。
宛先は、王都からかなり離れた場所にある小さな町。
そして差出人の欄には。
人間の名前ではない文字が記されていた。
「……これ、異人種からの伝書ですか?」
カナタが尋ねると、受付担当の職員が頷いた。
「そうです。最近、少し増えています」
「異人種って……エルフとか獣人とか?」
「ええ」
この世界には、人間だけが暮らしているわけではない。
エルフ。
獣人。
ドワーフ。
その他にも、人間とは異なる文化や言葉を持つ種族が存在する。
王国の中で暮らす者もいれば、国境の外に独自の集落や領域を持つ者もいる。
これまでも交易や伝書のやり取りはあった。
珍しいことではない。
けれど。
「最近、何かあったんですか?」
カナタが聞くと、職員は少し困った顔をした。
「……少し、揉め事が増えているみたいです」
「揉め事?」
「国境近くで、商人同士のトラブルがあったとか。森の資源を巡って話がまとまらないとか。逆に、異人種側の集落へ人間が勝手に入り込んだという話もあります」
「……それって」
「戦争というほどのものではありません」
職員はそう言った。
「今のところは、ですけどね」
カナタは灰色の封筒を見つめた。
一通の手紙。
そこには、人間のものとは違う文字が並んでいる。
それでも。
伝えたい相手がいる。
誰かに届けてほしいという気持ちは、人間の手紙と変わらない。
「カナタさん」
隣にいたリーゼが静かに声をかけた。
「はい」
「この辺りの伝書を、少し気をつけて見るようにしておきましょう」
「危険なんですか?」
「まだ分かりません」
リーゼは灰色の封筒を見る。
「ですが、何かが変わり始めている時は、最初に現場へ届くのが伝書だったりしますから」
「……手紙が?」
「はい」
リーゼは頷いた。
「人が何を考えているのか。何に怒っているのか。何を恐れているのか。何を求めているのか」
その言葉に、カナタは少しだけ黙った。
手紙とは。
ただ言葉を運ぶものではない。
時には。
人と人の間にあるものまで運んでしまう。
「……なんか、難しい仕事だな」
「最初からそうでしたよ」
リーゼは笑った。
「カナタさんが知らなかっただけです」
「そっか」
カナタは苦笑する。
そして。
灰色の封筒を大切に鞄へ入れた。
その日の配達先は、王都から少し離れた集落だった。
夕方。
カナタが戻ってくると、伝書院の入口にリーゼが立っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「遅かったので、少し心配しました」
「途中で橋が混んでたんだよ」
「そうだったんですね」
リーゼはカナタの姿を上から下まで確認する。
怪我はない。
服も破れていない。
鞄も無事。
それを確認してから、ようやく小さく息を吐いた。
「よかったです」
「そんなに心配だった?」
「……少しだけです」
「そっか」
「はい」
リーゼはそれ以上何も言わなかった。
ただ。
カナタが戻ってきたことを確認できたのが嬉しい。
そんな表情をしていた。
夜。
月影亭へ戻る道。
カナタとリーゼは並んで歩いていた。
王都の街灯が、二人の足元を照らしている。
「明日は?」
「西の村です」
「また一人?」
「はい。近いので」
「分かりました」
リーゼは少し考えてから言った。
「では、帰ってくる頃に伝書院で待っています」
「わざわざ?」
「仕事がありますから」
「それなら安心だな」
「……そういうことにしておいてください」
リーゼは少しだけ笑った。
彼女にも自分の仕事がある。
自分の担当する伝書。
自分の巡回。
自分の責任。
それでも。
カナタが出発するときには見送り。
帰ってくれば、まず無事を確認する。
報告書を読んで。
道中に危険がなかったかを確認する。
それはもう、彼女にとって自然な習慣になっていた。
月影亭の前で、二人は足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい、カナタさん」
「おやすみ、リーゼ」
それぞれの部屋へ向かう。
その途中。
カナタはふと、自分の胸元に手を当てた。
服の内側。
そこには、あの日からずっと持ち歩いているものがある。
淡い青色の軸を持つ、奇妙な羽根。
あの森で拾った羽根。
そして。
異世界へ来る前に買った、青い便箋。
今ではもう、最初ほど頻繁に反応することはない。
けれど時々。
誰かの大切な手紙を運んでいるとき。
あるいは、知らない土地の話を聞いたとき。
羽根はほんの少しだけ温かくなる。
まるで。
まだ何かを待っているように。
窓の外を見る。
王都の向こう。
遠くに連なる山々。
さらにその先には、まだ行ったことのない町がある。
知らない村。
知らない街道。
知らない人たち。
そして。
まだ届けたことのない手紙がある。
カナタは思った。
この世界に来たばかりの頃。
自分は、帰る場所を探していた。
けれど今は。
少しだけ違う。
帰る場所を探すだけではなく。
自分が帰ってくる場所が、ここにある。
伝書院。
月影亭。
そして。
「……リーゼ」
誰もいない部屋で、名前を呟く。
返事はない。
けれど、不思議と寂しくなかった。
翌朝。
「カナタさん、忘れ物はありませんか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
「水筒は?」
「ある」
「地図は?」
「ある」
「予備の布は?」
「……ある」
「よかったです」
リーゼは満足そうに頷く。
その顔を見て、カナタは笑った。
「リーゼのほうこそ、鍵は?」
「…………」
「また忘れた?」
「……少々お待ちください」
リーゼは鞄の中を探し始めた。
ごそごそ。
ごそごそ。
「あった!」
「よかった」
「……昨日の服のポケットに入れたままでした」
「仕事中じゃなくてよかったな」
「本当にそうですね……」
二人で笑う。
いつもの朝だった。
けれど。
カナタが門を出るとき。
リーゼはいつもより少しだけ長く、その背中を見ていた。
「カナタさん」
「ん?」
「気をつけて帰ってきてくださいね」
カナタは振り返る。
そして。
「うん。行ってくる」
笑って手を上げた。
風が吹いた。
街路樹の葉が揺れる。
カナタの背中を押すように。
どこか遠くへ運ぶように。
リーゼはその背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
――第一部。
『風の向こうへ』。
異世界へ迷い込んだ青年は。
知らない世界で、伝書人という仕事を知った。
誰かから誰かへ。
一通の手紙を届ける。
それだけの仕事だと思っていた。
けれど。
手紙には、人の想いが詰まっていた。
待っている人がいた。
帰りを願う人がいた。
大切な人へ、言葉を届けたい人がいた。
そして。
その想いを届けるために、自分も旅をするのだと知った。
巨大すぎる魔力。
青い羽根。
古い伝書の記録。
そして、まだ見つかっていない「最後の手紙」。
カナタの旅には、まだ分からないことが多い。
けれど。
今はそれでいい。
答えを探すためだけに旅をする必要はない。
目の前にある一通を。
目の前にいる誰かのために。
確実に届ける。
それが、今のカナタの選んだ道だった。
風の向こうには。
まだ知らない世界が広がっている。
そして、その先には。
新しい手紙が待っている。
カナタは今日も歩く。
伝書人として。
誰かの想いを鞄に詰めて。
まだ見ぬ場所へ。
――第一部『風の向こうへ』・完。
第二部
『境界線の向こう側』
人間の町。
エルフの森。
獣人たちの集落。
それぞれの暮らしがあり、それぞれの文化がある。
これまでカナタが届けてきた手紙は、その境界を越えることもあった。
だが。
境界には、見えない線がある。
その線を越えたとき。
ただ一通の手紙を届けるだけでは、済まなくなることがある。
争いは、いつだって大きな音を立てて始まるとは限らない。
一つの誤解。
一つの噂。
一つの行き違い。
そして。
誰かが誰かを信じられなくなった、その瞬間から始まる。
カナタはまだ知らない。
自分がこれから運ぶ手紙の中に。
人間と異人種の間に広がり始めた、静かな亀裂が混ざっていることを。
そして。
その境界を越えて手紙を届けられる者こそが、必要とされる時が来ることを。
これは。
戦争の物語ではない。
けれど。
平穏だけでもない。
伝書人・白石カナタの旅は。
新しい境界線の向こう側へと続いていく。




