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伝書人は今日も旅をする  作者: 金麦
第一部 風の向こうへ
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25/30

第25話 風の向こうに届いたもの


 王都から戻って、数週間が経った。


 あれほど大きな出来事が続いたことが、まるで遠い夢だったように。


 ハルディア砦。


 ラグナ山。


 集まってきた魔物たち。


 自分でも扱いきれないほどの魔力。


 そして、軍からの勧誘。


 どれも、少し前のカナタなら想像すらできなかった出来事だった。


 けれど。


「カナタさん、こちらの伝書、今日中にお願いします」


「了解です」


「それと、こちらは東地区です。途中で雨が降るかもしれませんから、防水袋を忘れないようにしてくださいね」


「はい」


 今のカナタにとっては。


 こうして机の上に並べられた伝書の束のほうが、ずっと身近なものになっていた。


 朝。


 伝書院に届いた手紙を仕分ける。


 宛先を確認する。


 必要なものを鞄へ入れる。


 地図を広げて道順を確認する。


 天候を確認する。


 危険な地域がないか調べる。


 そして。


 届けに行く。


 特別なことではない。


 けれど、その一つ一つを確実にこなすことが、今のカナタには大切だった。


「……だいぶ慣れましたね」


 隣から声がした。


 振り向くと、リーゼが立っている。


 今日も伝書人としての制服姿。


 肩まで届く淡い栗色の髪は、いつものように片側を小さな髪留めでまとめている。


 胸元には銀色の徽章。


 腰には短剣。


 そして、伝書人として使い込まれた革の鞄。


「そうかな」


「はい。最初の頃とは全然違います」


「最初は何をするにも緊張してたからな」


「それだけではありませんよ」


 リーゼはカナタの机を見る。


 そこには、今日の配達予定と地図。


 さらに、簡単な天候予測と休憩地点まで書き込まれていた。


「以前は『どうやって届けるか』を考えていました」


「今は?」


「『どうすれば無理なく届けて帰ってこられるか』を考えています」


「……それ、そんなに違う?」


「とても大きな違いです」


 リーゼは小さく笑った。


「伝書人にとって、一番大切なことですから」


 カナタも地図へ視線を戻す。


「急がない」


「はい」


「無理をしない」


「はい」


「手紙を濡らさない」


「はい」


「宛先を間違えない」


「それは当然です」


「ちゃんと帰ってくる」


「……はい」


 最後の言葉だけ。


 リーゼの返事が、ほんの少しだけ遅れた。


 カナタは気づかない。


 地図を畳み、立ち上がる。


「じゃあ、行ってくる」


「はい。気をつけてくださいね」


 その言葉は、いつものものだった。


 カナタの仕事は、少しずつ増えていた。


 最初は近くの村への一通。


 それが二通になり、三通になった。


 町から町へ。


 商店から工房へ。


 農村から王都へ。


 時には少し遠い宿場町まで。


 もちろん、危険な地域へ行くときは一人ではない。


 経験の浅いカナタが無理をすることを、伝書院はまだ認めていなかった。


 それでも。


 以前より長い距離を任されるようになった。


 帰ってくる時間も安定してきた。


 報告書も簡潔で分かりやすい。


 道中で見つけた危険箇所。


 魔物の痕跡。


 崩れかけた橋。


 雨でぬかるんだ道。


 旅人が困っていた場所。


 そういったものまで、カナタは記録していた。


 伝書院にとって、それらは手紙と同じくらい価値のある情報だった。


「この報告、よく見ていますね」


 ある日の夕方。


 セレフィナがカナタの報告書を読みながら言った。


「そうですか?」


「ええ。以前より、ずっと具体的になっています」


「せっかく通った道なので」


「その考え方が、あなたらしいですね」


 セレフィナは報告書を机へ置いた。


「ハルディア砦での一件があってから、あなたを見る目も変わりました」


「……いい意味で?」


「もちろん」


 少しだけ笑ってから、セレフィナは続けた。


「ですが、あなたが評価されているのは、あの魔力だけではありません」


「え?」


「伝書人としての仕事を、着実に覚えていることです」


 カナタは黙って聞いていた。


「巨大な魔力を持っていても、仕事を任せられなければ意味がありません。逆に言えば、あなたは今、自分の力をどう使うべきかを少しずつ理解し始めています」


「……まだ全然ですけどね」


「だからこそ、これからです」


 セレフィナは穏やかに言った。


「あなたには、まだ時間があります」


 その言葉が、カナタには少し嬉しかった。


 その日の仕事を終えたあと。


 カナタは伝書院の裏庭で、魔力制御の練習をしていた。


「もっと小さく」


 リーゼの声がする。


「はい」


「力を入れるのではなく、流すだけです」


「……難しいな」


「最初に比べれば、とても上手になっていますよ」


 カナタの手のひらに、小さな光が浮かぶ。


 以前なら、意識した瞬間に大きな魔力が流れていた。


 今は違う。


 必要な分だけ。


 ほんの少しだけ。


 魔力を流すことができる。


「今の、とても綺麗でした」


「ほんと?」


「はい」


 リーゼは嬉しそうに頷いた。


 けれど。


 次の瞬間。


「……あ」


 ふらり。


「リーゼ?」


「少しだけ……魔力が気持ちよくて……」


 リーゼは近くの壁に手をついた。


 頬がほんのり赤い。


「また魔力に酔ってる?」


「……少しだけです」


「やっぱり相性がいいんだな」


「そうみたいですね」


 リーゼは困ったように笑う。


「でも、以前より制御が上手になったので、私も楽になりました」


「じゃあ、もう少し続ける?」


「……はい」


 少し間を置いて。


「もう少しだけ、お願いします」


 カナタは苦笑した。


「無理はしないでよ」


「それはカナタさんもですよ」


「俺?」


「はい」


 リーゼは真っ直ぐにカナタを見る。


「あなたは、自分が思っている以上に無理をしますから」


「……そうかな」


「そうです」


 即答だった。


「だから、私が見ています」


「……ありがとう」


 カナタは小さく笑った。


 リーゼも笑う。


 それ以上は、何も言わなかった。


 そして。


 そんな日々の中で。


 一通の手紙が、伝書院へ届いた。


 その手紙は、普段のものとは少し違っていた。


 封筒の色が、薄い灰色。


 宛先は、王都からかなり離れた場所にある小さな町。


 そして差出人の欄には。


 人間の名前ではない文字が記されていた。


「……これ、異人種からの伝書ですか?」


 カナタが尋ねると、受付担当の職員が頷いた。


「そうです。最近、少し増えています」


「異人種って……エルフとか獣人とか?」


「ええ」


 この世界には、人間だけが暮らしているわけではない。


 エルフ。


 獣人。


 ドワーフ。


 その他にも、人間とは異なる文化や言葉を持つ種族が存在する。


 王国の中で暮らす者もいれば、国境の外に独自の集落や領域を持つ者もいる。


 これまでも交易や伝書のやり取りはあった。


 珍しいことではない。


 けれど。


「最近、何かあったんですか?」


 カナタが聞くと、職員は少し困った顔をした。


「……少し、揉め事が増えているみたいです」


「揉め事?」


「国境近くで、商人同士のトラブルがあったとか。森の資源を巡って話がまとまらないとか。逆に、異人種側の集落へ人間が勝手に入り込んだという話もあります」


「……それって」


「戦争というほどのものではありません」


 職員はそう言った。


「今のところは、ですけどね」


 カナタは灰色の封筒を見つめた。


 一通の手紙。


 そこには、人間のものとは違う文字が並んでいる。


 それでも。


 伝えたい相手がいる。


 誰かに届けてほしいという気持ちは、人間の手紙と変わらない。


「カナタさん」


 隣にいたリーゼが静かに声をかけた。


「はい」


「この辺りの伝書を、少し気をつけて見るようにしておきましょう」


「危険なんですか?」


「まだ分かりません」


 リーゼは灰色の封筒を見る。


「ですが、何かが変わり始めている時は、最初に現場へ届くのが伝書だったりしますから」


「……手紙が?」


「はい」


 リーゼは頷いた。


「人が何を考えているのか。何に怒っているのか。何を恐れているのか。何を求めているのか」


 その言葉に、カナタは少しだけ黙った。


 手紙とは。


 ただ言葉を運ぶものではない。


 時には。


 人と人の間にあるものまで運んでしまう。


「……なんか、難しい仕事だな」


「最初からそうでしたよ」


 リーゼは笑った。


「カナタさんが知らなかっただけです」


「そっか」


 カナタは苦笑する。


 そして。


 灰色の封筒を大切に鞄へ入れた。


 その日の配達先は、王都から少し離れた集落だった。


 夕方。


 カナタが戻ってくると、伝書院の入口にリーゼが立っていた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


「遅かったので、少し心配しました」


「途中で橋が混んでたんだよ」


「そうだったんですね」


 リーゼはカナタの姿を上から下まで確認する。


 怪我はない。


 服も破れていない。


 鞄も無事。


 それを確認してから、ようやく小さく息を吐いた。


「よかったです」


「そんなに心配だった?」


「……少しだけです」


「そっか」


「はい」


 リーゼはそれ以上何も言わなかった。


 ただ。


 カナタが戻ってきたことを確認できたのが嬉しい。


 そんな表情をしていた。


 夜。


 月影亭へ戻る道。


 カナタとリーゼは並んで歩いていた。


 王都の街灯が、二人の足元を照らしている。


「明日は?」


「西の村です」


「また一人?」


「はい。近いので」


「分かりました」


 リーゼは少し考えてから言った。


「では、帰ってくる頃に伝書院で待っています」


「わざわざ?」


「仕事がありますから」


「それなら安心だな」


「……そういうことにしておいてください」


 リーゼは少しだけ笑った。


 彼女にも自分の仕事がある。


 自分の担当する伝書。


 自分の巡回。


 自分の責任。


 それでも。


 カナタが出発するときには見送り。


 帰ってくれば、まず無事を確認する。


 報告書を読んで。


 道中に危険がなかったかを確認する。


 それはもう、彼女にとって自然な習慣になっていた。


 月影亭の前で、二人は足を止めた。


「じゃあ、また明日」


「はい。おやすみなさい、カナタさん」


「おやすみ、リーゼ」


 それぞれの部屋へ向かう。


 その途中。


 カナタはふと、自分の胸元に手を当てた。


 服の内側。


 そこには、あの日からずっと持ち歩いているものがある。


 淡い青色の軸を持つ、奇妙な羽根。


 あの森で拾った羽根。


 そして。


 異世界へ来る前に買った、青い便箋。


 今ではもう、最初ほど頻繁に反応することはない。


 けれど時々。


 誰かの大切な手紙を運んでいるとき。


 あるいは、知らない土地の話を聞いたとき。


 羽根はほんの少しだけ温かくなる。


 まるで。


 まだ何かを待っているように。


 窓の外を見る。


 王都の向こう。


 遠くに連なる山々。


 さらにその先には、まだ行ったことのない町がある。


 知らない村。


 知らない街道。


 知らない人たち。


 そして。


 まだ届けたことのない手紙がある。


 カナタは思った。


 この世界に来たばかりの頃。


 自分は、帰る場所を探していた。


 けれど今は。


 少しだけ違う。


 帰る場所を探すだけではなく。


 自分が帰ってくる場所が、ここにある。


 伝書院。


 月影亭。


 そして。


「……リーゼ」


 誰もいない部屋で、名前を呟く。


 返事はない。


 けれど、不思議と寂しくなかった。


 翌朝。


「カナタさん、忘れ物はありませんか?」


「大丈夫」


「本当に?」


「本当に」


「水筒は?」


「ある」


「地図は?」


「ある」


「予備の布は?」


「……ある」


「よかったです」


 リーゼは満足そうに頷く。


 その顔を見て、カナタは笑った。


「リーゼのほうこそ、鍵は?」


「…………」


「また忘れた?」


「……少々お待ちください」


 リーゼは鞄の中を探し始めた。


 ごそごそ。


 ごそごそ。


「あった!」


「よかった」


「……昨日の服のポケットに入れたままでした」


「仕事中じゃなくてよかったな」


「本当にそうですね……」


 二人で笑う。


 いつもの朝だった。


 けれど。


 カナタが門を出るとき。


 リーゼはいつもより少しだけ長く、その背中を見ていた。


「カナタさん」


「ん?」


「気をつけて帰ってきてくださいね」


 カナタは振り返る。


 そして。


「うん。行ってくる」


 笑って手を上げた。


 風が吹いた。


 街路樹の葉が揺れる。


 カナタの背中を押すように。


 どこか遠くへ運ぶように。


 リーゼはその背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。


 ――第一部。


 『風の向こうへ』。


 異世界へ迷い込んだ青年は。


 知らない世界で、伝書人という仕事を知った。


 誰かから誰かへ。


 一通の手紙を届ける。


 それだけの仕事だと思っていた。


 けれど。


 手紙には、人の想いが詰まっていた。


 待っている人がいた。


 帰りを願う人がいた。


 大切な人へ、言葉を届けたい人がいた。


 そして。


 その想いを届けるために、自分も旅をするのだと知った。


 巨大すぎる魔力。


 青い羽根。


 古い伝書の記録。


 そして、まだ見つかっていない「最後の手紙」。


 カナタの旅には、まだ分からないことが多い。


 けれど。


 今はそれでいい。


 答えを探すためだけに旅をする必要はない。


 目の前にある一通を。


 目の前にいる誰かのために。


 確実に届ける。


 それが、今のカナタの選んだ道だった。


 風の向こうには。


 まだ知らない世界が広がっている。


 そして、その先には。


 新しい手紙が待っている。


 カナタは今日も歩く。


 伝書人として。


 誰かの想いを鞄に詰めて。


 まだ見ぬ場所へ。


 ――第一部『風の向こうへ』・完。


第二部


『境界線の向こう側』


 人間の町。


 エルフの森。


 獣人たちの集落。


 それぞれの暮らしがあり、それぞれの文化がある。


 これまでカナタが届けてきた手紙は、その境界を越えることもあった。


 だが。


 境界には、見えない線がある。


 その線を越えたとき。


 ただ一通の手紙を届けるだけでは、済まなくなることがある。


 争いは、いつだって大きな音を立てて始まるとは限らない。


 一つの誤解。


 一つの噂。


 一つの行き違い。


 そして。


 誰かが誰かを信じられなくなった、その瞬間から始まる。


 カナタはまだ知らない。


 自分がこれから運ぶ手紙の中に。


 人間と異人種の間に広がり始めた、静かな亀裂が混ざっていることを。


 そして。


 その境界を越えて手紙を届けられる者こそが、必要とされる時が来ることを。


 これは。


 戦争の物語ではない。


 けれど。


 平穏だけでもない。


 伝書人・白石カナタの旅は。


 新しい境界線の向こう側へと続いていく。

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