第21話 『守られた場所、帰る場所』
ハルディア砦を包んでいた魔物の群れが、東へと遠ざかってから数時間。
砦には、ようやく静けさが戻り始めていた。
完全に平穏になったわけではない。
負傷した兵士たちの治療。
壊れた防壁や門の確認。
周囲に残った魔物の痕跡の調査。
やるべきことはいくらでも残っている。
それでも。
先ほどまでの、いつ崩れてもおかしくない緊張感は消えていた。
ハルディア砦は。
守られた。
そして。
その立役者であるカナタは――。
「……まだ、目を覚ましませんか」
簡素な医務室。
ベッドに横たわるカナタの隣で、リーゼが尋ねた。
「呼吸は安定しています」
治療を担当している女性が答える。
「魔力をほとんど使い切っていますから、しばらくは眠ったままでしょう」
「……そうですか」
リーゼはカナタの顔を見つめた。
顔色は、先ほどより少し良くなっている。
呼吸も穏やかだった。
それだけで、張り詰めていた胸の奥がわずかに緩む。
「よかった……」
こぼれた声に、治療師が目を細めた。
「随分と心配していたんですね」
「……はい」
リーゼはカナタから目を離さないまま答えた。
「大切な方ですから」
言ってから、自分で驚いたように口を閉じる。
治療師は何も言わず、静かに部屋を出ていった。
残されたリーゼは、椅子に座り直す。
カナタの手が、ベッドの脇に置かれていた。
そっと指先で触れる。
あの時のことが蘇った。
抱きしめたこと。
魔力を送り込んだこと。
そして――唇を重ねたこと。
「……治療です」
誰もいない部屋で、リーゼは小さく呟いた。
「治療、ですから……」
そう言い聞かせても、頬の熱は引かなかった。
リーゼは握った手に視線を落とす。
触れ合った魔力は、驚くほど自然に繋がった。
まるで、最初から互いの居場所を知っていたように。
「……不思議な人ですね」
眠るカナタに話しかける。
返事はない。
それでも、規則正しい呼吸を聞いていると、少しだけ安心できた。
⸻
それから三日。
カナタはほとんどの時間を眠って過ごした。
一日目は、水を飲み、少し食事をすると、すぐに眠った。
二日目になって、ようやく短い会話ができるようになった。
「……リーゼ」
「はい」
「ここ、砦?」
「そうですよ」
「魔物は?」
「もういません」
「村は?」
「大きな被害は出ていません」
「……そっか」
カナタは目を閉じた。
「よかった」
それだけ言って、また眠ってしまう。
リーゼは思わず笑った。
「自分のことは、後回しなんですね」
「……何か言った?」
目を閉じたまま、カナタが尋ねる。
「いいえ。何も」
「なら、いいけど……」
そのまま寝息が戻る。
リーゼは呆れたように息を吐きながら、掛け布を直した。
「本当に、困った人です」
けれど、その声は優しかった。
三日目。
カナタは、ようやく一人で起き上がれるようになった。
「おお……」
「ゆっくりです」
「もう大丈夫そう」
「その台詞、昨日も聞きました」
「昨日は起き上がれなかったから、今日は進歩してる」
「進歩と無理は別です」
「……はい」
カナタが素直に横になる。
リーゼは思わず笑った。
「今日は聞き分けがいいですね」
「怒られたくないから」
「誰にですか?」
「リーゼに」
「……私、そんなに怖いですか?」
「怖くはないけど、逆らえない」
リーゼは一瞬黙り、それから小さく頬を膨らませた。
「それは、カナタが無茶ばかりするからです」
「否定できないな」
そのやり取りを聞いていた治療師が、微笑ましそうに二人を見た。
「魔力の戻りも順調ですね。これほど早いとは思いませんでした」
「カナタの魔力が多いからでしょうか」
リーゼが尋ねる。
「それもあるでしょう。ただ、あなたの魔力供給も大きいようです」
「私の?」
「ええ。二人の魔力は、かなり馴染みやすいのでしょうね」
リーゼは黙ってカナタを見た。
カナタは意味が分からないという顔をしている。
「……相性がいいってこと?」
「そういうことです」
「それなら、よかった」
カナタが何気なく笑う。
リーゼはその笑顔から目を逸らした。
「……何がよかったんですか?」
「リーゼの魔力なら、安心して借りられるから」
「……そういう言い方は、ずるいです」
「え?」
「何でもありません」
⸻
その日の午後。
リーゼは医務室に戻ると、カナタの隣に腰を下ろした。
「少し、魔力を分けますね」
「また?」
「嫌ですか?」
「いや。楽になるから、助かる」
「では、黙っていてください」
「はい」
リーゼはカナタの手を取った。
ゆっくりと魔力を流す。
「……あったかい」
「そうですか?」
「うん。眠くなる」
「寝ても構いませんよ」
「じゃあ、少しだけ……」
カナタのまぶたが落ちる。
リーゼはその横顔を見つめた。
手を繋いでいるだけでも、魔力は流れる。
けれど、もう少し近くにいれば、もっと安定する。
そう思ったところで、リーゼは自分の考えに気づき、頬を赤くした。
「……カナタ」
「ん……?」
「少し、近くに寄ってもいいですか?」
「もう十分近いと思うけど」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
「……いいから」
リーゼは返事を待たず、カナタの身体をそっと抱きしめた。
カナタの肩がわずかに跳ねる。
「リーゼ?」
「この方が、魔力が流れやすいんです」
「そうなんだ」
「……疑わないんですね」
「リーゼが言うなら、そうなんだろうなって」
あまりにも自然に言われて、リーゼは言葉を失った。
「……本当に、そういうところです」
「何が?」
「何でもありません」
カナタはそれ以上尋ねず、力を抜いた。
腕の中の体温が伝わってくる。
魔力の境界が、ゆっくりと薄れていく。
「……やっぱり、馴染みますね」
「うん。リーゼの魔力、落ち着く」
「落ち着く?」
「そばにいるみたいで」
リーゼの指が、わずかに震えた。
「……そばにいますよ」
「うん」
カナタは目を閉じた。
「分かってる」
やがて、呼吸が穏やかな寝息に変わる。
リーゼは腕の中のカナタを起こさないよう、姿勢を整えた。
離れようと思えば、離れられた。
けれど、そうしなかった。
規則正しい呼吸を聞いていると、胸の奥に残っていた不安が少しずつ薄れていく。
「……もう少しだけ」
返事はない。
リーゼはそのまま、カナタを抱きしめていた。
⸻
翌朝。
「……おはよう」
先に目を覚ましたカナタが、腕の中から声をかけた。
「……おはようございます」
リーゼも目を開ける。
自分がカナタを抱きしめたまま眠っていたことに気づき、顔を真っ赤にした。
「す、すみません!」
「何が?」
「その……ずっと、このままで……」
「よく眠れたよ」
「本当ですか?」
「うん」
カナタは少し考えてから、穏やかに続けた。
「リーゼがいると、安心する」
リーゼはすぐには答えられなかった。
やがて、腕の力を少しだけ緩める。
「……それなら、よかったです」
「リーゼは?」
「え?」
「眠れた?」
「……はい」
リーゼは視線を逸らした。
「私も、よく眠れました」
それから退院するまで。
二人は夜になると、自然に同じベッドで眠るようになった。
最初は魔力循環を安定させるためだった。
けれど、いつしか理由を口にすることはなくなった。
カナタが眠りにつくまで、リーゼは背中から抱きしめている。
カナタも、いつの間にかリーゼの腕に手を添えるようになった。
言葉は少なかった。
それでも、その静かな時間は、二人にとって何よりも安心できるものになっていた。
⸻
さらに二日。
ハルディア砦を出発する頃には、カナタはほとんど普段通りに歩けるようになっていた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「顔色は?」
「たぶん大丈夫」
「たぶん?」
「……大丈夫です」
「最初からそう言ってください」
リーゼはそう言いながら、またカナタの顔を覗き込んだ。
「リーゼ」
「はい?」
「心配しすぎじゃない?」
「心配しますよ」
即答だった。
「カナタは、何も言わずに無茶をするので」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけではありません」
「じゃあ、どうすればいい?」
「次からは、倒れる前に言ってください」
「倒れる前って、分かるものなのかな」
「分からなくても、言ってください」
「難しい注文だな」
「難しくありません」
「はい」
カナタが素直に頷く。
リーゼは少しだけ笑った。
「……本当に、守ってくださいね」
「自分を?」
「はい」
「努力する」
「努力ではなく」
リーゼはカナタの袖をつまんだ。
「約束です」
カナタはその手元を見て、頷いた。
「分かった。約束する」
二人は砦を出た。
来た時とは違い、道の周囲に魔物の姿はない。
静かな風が吹いている。
カナタは歩きながら、ふと息を吐いた。
「……帰ろうか」
「はい」
「リュネアへ」
「一緒に、ですね」
「うん」
⸻
数日後。
リュネアの伝書院。
カナタとリーゼは、院長室で報告を行っていた。
「以上が、ハルディア砦での出来事です」
リーゼが報告書を閉じる。
セレフィナは静かに二人を見た。
「……よく戻ってきました」
「ありがとうございます」
リーゼが頭を下げる。
カナタも続いた。
「本当に、いろいろありました」
「ええ」
セレフィナはカナタを見る。
「今回の件では、あなたの判断が多くの命を救いました」
「俺一人じゃありません」
カナタは隣のリーゼを見る。
「リーゼがいなかったら、俺は途中で倒れてました」
リーゼの指が、報告書の端でわずかに止まった。
セレフィナは二人を見比べたが、それ以上は何も言わなかった。
「まずは二人とも、しばらく通常業務だけにしてください。今回の件で魔力を使いすぎています」
「分かりました」
カナタが答える。
報告が終わり、二人は院長室を出た。
⸻
その日の夕方。
伝書院の仕事を終え、月影亭へ戻る道。
カナタは隣を歩くリーゼを見た。
「リーゼ」
「はい?」
「聞きたいことがある」
「……何でしょう」
「俺が倒れた時のこと」
リーゼの歩みが、ほんの少しだけ鈍る。
「手を繋いでくれたのは覚えてる」
「はい」
「抱きしめてくれたのも」
「……はい」
「その先は?」
リーゼは黙った。
夕暮れの道に、二人の足音だけが響く。
「リーゼ?」
「……忘れてください」
「無理だと思う」
「どうしてですか」
「助けてもらったことだから」
リーゼは視線を落とした。
「治療です」
「うん」
「治療だったんです」
「それは分かってる」
「なら、聞かないでください」
「でも、何をしてくれたのか知りたい」
リーゼの耳まで赤くなる。
「……直接、魔力を繋ぎました」
「直接?」
「……はい」
「どうやって?」
「カナタ」
「はい」
「それ以上は、聞かないでください」
その声があまりに真剣で、カナタは口を閉じた。
「……分かった」
リーゼは小さく息を吐く。
「忘れてください」
「忘れられないけど」
「カナタ」
「ごめん」
少し歩いてから、カナタは続けた。
「でも、ありがとう」
リーゼが顔を上げる。
「……何がですか?」
「俺を助けてくれたこと」
「……」
「本当に助かった」
リーゼはしばらく黙っていた。
やがて、前を向いたまま小さく笑う。
「……どういたしまして」
「リーゼ」
「はい」
「次に俺が無茶したら、また助けてくれる?」
「助ける前に、怒ります」
「怒ったあとなら?」
「……その時は、仕方ありません」
「じゃあ、安心だ」
「安心しないでください」
リーゼはそう言ったが、声には笑いが混じっていた。
二人は並んで歩く。
夕暮れのリュネア。
見慣れた街並み。
いつもの道。
いつもの帰り道。
けれど、砦へ向かう前とは少しだけ違う。
隣にいる相手の体温を、二人とも知ってしまった。
それを、まだ言葉にはしなかった。
ただ。
リーゼは隣を歩くカナタを見て、小さく微笑んだ。
「……帰ってこられて、本当によかったです」
「うん」
カナタも頷く。
「俺も」
少し間を置いて、カナタはリーゼの歩幅に合わせた。
二人はそのまま、月影亭へ向かって歩いていった。れた場所、帰る場所』
ハルディア砦を包んでいた魔物の群れが、東へと遠ざかってから数時間。
砦には、ようやく静けさが戻り始めていた。
完全に平穏になったわけではない。
負傷した兵士たちの治療。
壊れた防壁や門の確認。
周囲に残った魔物の痕跡の調査。
やるべきことはいくらでも残っている。
それでも。
先ほどまでの、いつ崩れてもおかしくない緊張感は消えていた。
ハルディア砦は。
守られた。
そして。
その立役者であるカナタは――。
「……まだ、目を覚ましませんか」
簡素な医務室。
ベッドに横たわるカナタの隣で、リーゼが尋ねた。
「呼吸は安定しています」
治療を担当している女性が答える。
「魔力をほとんど使い切っていますから、しばらくは眠ったままでしょう」
「……そうですか」
リーゼはカナタの顔を見つめた。
顔色は、先ほどより少し良くなっている。
呼吸も穏やかだった。
それだけで、張り詰めていた胸の奥がわずかに緩む。
「よかった……」
こぼれた声に、治療師が目を細めた。
「随分と心配していたんですね」
「……はい」
リーゼはカナタから目を離さないまま答えた。
「大切な方ですから」
言ってから、自分で驚いたように口を閉じる。
治療師は何も言わず、静かに部屋を出ていった。
残されたリーゼは、椅子に座り直す。
カナタの手が、ベッドの脇に置かれていた。
そっと指先で触れる。
あの時のことが蘇った。
抱きしめたこと。
魔力を送り込んだこと。
そして――唇を重ねたこと。
「……治療です」
誰もいない部屋で、リーゼは小さく呟いた。
「治療、ですから……」
そう言い聞かせても、頬の熱は引かなかった。
リーゼは握った手に視線を落とす。
触れ合った魔力は、驚くほど自然に繋がった。
まるで、最初から互いの居場所を知っていたように。
「……不思議な人ですね」
眠るカナタに話しかける。
返事はない。
それでも、規則正しい呼吸を聞いていると、少しだけ安心できた。
⸻
それから三日。
カナタはほとんどの時間を眠って過ごした。
一日目は、水を飲み、少し食事をすると、すぐに眠った。
二日目になって、ようやく短い会話ができるようになった。
「……リーゼ」
「はい」
「ここ、砦?」
「そうですよ」
「魔物は?」
「もういません」
「村は?」
「大きな被害は出ていません」
「……そっか」
カナタは目を閉じた。
「よかった」
それだけ言って、また眠ってしまう。
リーゼは思わず笑った。
「自分のことは、後回しなんですね」
「……何か言った?」
目を閉じたまま、カナタが尋ねる。
「いいえ。何も」
「なら、いいけど……」
そのまま寝息が戻る。
リーゼは呆れたように息を吐きながら、掛け布を直した。
「本当に、困った人です」
けれど、その声は優しかった。
三日目。
カナタは、ようやく一人で起き上がれるようになった。
「おお……」
「ゆっくりです」
「もう大丈夫そう」
「その台詞、昨日も聞きました」
「昨日は起き上がれなかったから、今日は進歩してる」
「進歩と無理は別です」
「……はい」
カナタが素直に横になる。
リーゼは思わず笑った。
「今日は聞き分けがいいですね」
「怒られたくないから」
「誰にですか?」
「リーゼに」
「……私、そんなに怖いですか?」
「怖くはないけど、逆らえない」
リーゼは一瞬黙り、それから小さく頬を膨らませた。
「それは、カナタが無茶ばかりするからです」
「否定できないな」
そのやり取りを聞いていた治療師が、微笑ましそうに二人を見た。
「魔力の戻りも順調ですね。これほど早いとは思いませんでした」
「カナタの魔力が多いからでしょうか」
リーゼが尋ねる。
「それもあるでしょう。ただ、あなたの魔力供給も大きいようです」
「私の?」
「ええ。二人の魔力は、かなり馴染みやすいのでしょうね」
リーゼは黙ってカナタを見た。
カナタは意味が分からないという顔をしている。
「……相性がいいってこと?」
「そういうことです」
「それなら、よかった」
カナタが何気なく笑う。
リーゼはその笑顔から目を逸らした。
「……何がよかったんですか?」
「リーゼの魔力なら、安心して借りられるから」
「……そういう言い方は、ずるいです」
「え?」
「何でもありません」
⸻
その日の午後。
リーゼは医務室に戻ると、カナタの隣に腰を下ろした。
「少し、魔力を分けますね」
「また?」
「嫌ですか?」
「いや。楽になるから、助かる」
「では、黙っていてください」
「はい」
リーゼはカナタの手を取った。
ゆっくりと魔力を流す。
「……あったかい」
「そうですか?」
「うん。眠くなる」
「寝ても構いませんよ」
「じゃあ、少しだけ……」
カナタのまぶたが落ちる。
リーゼはその横顔を見つめた。
手を繋いでいるだけでも、魔力は流れる。
けれど、もう少し近くにいれば、もっと安定する。
そう思ったところで、リーゼは自分の考えに気づき、頬を赤くした。
「……カナタ」
「ん……?」
「少し、近くに寄ってもいいですか?」
「もう十分近いと思うけど」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
「……いいから」
リーゼは返事を待たず、カナタの身体をそっと抱きしめた。
カナタの肩がわずかに跳ねる。
「リーゼ?」
「この方が、魔力が流れやすいんです」
「そうなんだ」
「……疑わないんですね」
「リーゼが言うなら、そうなんだろうなって」
あまりにも自然に言われて、リーゼは言葉を失った。
「……本当に、そういうところです」
「何が?」
「何でもありません」
カナタはそれ以上尋ねず、力を抜いた。
腕の中の体温が伝わってくる。
魔力の境界が、ゆっくりと薄れていく。
「……やっぱり、馴染みますね」
「うん。リーゼの魔力、落ち着く」
「落ち着く?」
「そばにいるみたいで」
リーゼの指が、わずかに震えた。
「……そばにいますよ」
「うん」
カナタは目を閉じた。
「分かってる」
やがて、呼吸が穏やかな寝息に変わる。
リーゼは腕の中のカナタを起こさないよう、姿勢を整えた。
離れようと思えば、離れられた。
けれど、そうしなかった。
規則正しい呼吸を聞いていると、胸の奥に残っていた不安が少しずつ薄れていく。
「……もう少しだけ」
返事はない。
リーゼはそのまま、カナタを抱きしめていた。
⸻
翌朝。
「……おはよう」
先に目を覚ましたカナタが、腕の中から声をかけた。
「……おはようございます」
リーゼも目を開ける。
自分がカナタを抱きしめたまま眠っていたことに気づき、顔を真っ赤にした。
「す、すみません!」
「何が?」
「その……ずっと、このままで……」
「よく眠れたよ」
「本当ですか?」
「うん」
カナタは少し考えてから、穏やかに続けた。
「リーゼがいると、安心する」
リーゼはすぐには答えられなかった。
やがて、腕の力を少しだけ緩める。
「……それなら、よかったです」
「リーゼは?」
「え?」
「眠れた?」
「……はい」
リーゼは視線を逸らした。
「私も、よく眠れました」
それから退院するまで。
二人は夜になると、自然に同じベッドで眠るようになった。
最初は魔力循環を安定させるためだった。
けれど、いつしか理由を口にすることはなくなった。
カナタが眠りにつくまで、リーゼは背中から抱きしめている。
カナタも、いつの間にかリーゼの腕に手を添えるようになった。
言葉は少なかった。
それでも、その静かな時間は、二人にとって何よりも安心できるものになっていた。
⸻
さらに二日。
ハルディア砦を出発する頃には、カナタはほとんど普段通りに歩けるようになっていた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「顔色は?」
「たぶん大丈夫」
「たぶん?」
「……大丈夫です」
「最初からそう言ってください」
リーゼはそう言いながら、またカナタの顔を覗き込んだ。
「リーゼ」
「はい?」
「心配しすぎじゃない?」
「心配しますよ」
即答だった。
「カナタは、何も言わずに無茶をするので」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけではありません」
「じゃあ、どうすればいい?」
「次からは、倒れる前に言ってください」
「倒れる前って、分かるものなのかな」
「分からなくても、言ってください」
「難しい注文だな」
「難しくありません」
「はい」
カナタが素直に頷く。
リーゼは少しだけ笑った。
「……本当に、守ってくださいね」
「自分を?」
「はい」
「努力する」
「努力ではなく」
リーゼはカナタの袖をつまんだ。
「約束です」
カナタはその手元を見て、頷いた。
「分かった。約束する」
二人は砦を出た。
来た時とは違い、道の周囲に魔物の姿はない。
静かな風が吹いている。
カナタは歩きながら、ふと息を吐いた。
「……帰ろうか」
「はい」
「リュネアへ」
「一緒に、ですね」
「うん」
⸻
数日後。
リュネアの伝書院。
カナタとリーゼは、院長室で報告を行っていた。
「以上が、ハルディア砦での出来事です」
リーゼが報告書を閉じる。
セレフィナは静かに二人を見た。
「……よく戻ってきました」
「ありがとうございます」
リーゼが頭を下げる。
カナタも続いた。
「本当に、いろいろありました」
「ええ」
セレフィナはカナタを見る。
「今回の件では、あなたの判断が多くの命を救いました」
「俺一人じゃありません」
カナタは隣のリーゼを見る。
「リーゼがいなかったら、俺は途中で倒れてました」
リーゼの指が、報告書の端でわずかに止まった。
セレフィナは二人を見比べたが、それ以上は何も言わなかった。
「まずは二人とも、しばらく通常業務だけにしてください。今回の件で魔力を使いすぎています」
「分かりました」
カナタが答える。
報告が終わり、二人は院長室を出た。
⸻
その日の夕方。
伝書院の仕事を終え、月影亭へ戻る道。
カナタは隣を歩くリーゼを見た。
「リーゼ」
「はい?」
「聞きたいことがある」
「……何でしょう」
「俺が倒れた時のこと」
リーゼの歩みが、ほんの少しだけ鈍る。
「手を繋いでくれたのは覚えてる」
「はい」
「抱きしめてくれたのも」
「……はい」
「その先は?」
リーゼは黙った。
夕暮れの道に、二人の足音だけが響く。
「リーゼ?」
「……忘れてください」
「無理だと思う」
「どうしてですか」
「助けてもらったことだから」
リーゼは視線を落とした。
「治療です」
「うん」
「治療だったんです」
「それは分かってる」
「なら、聞かないでください」
「でも、何をしてくれたのか知りたい」
リーゼの耳まで赤くなる。
「……直接、魔力を繋ぎました」
「直接?」
「……はい」
「どうやって?」
「カナタ」
「はい」
「それ以上は、聞かないでください」
その声があまりに真剣で、カナタは口を閉じた。
「……分かった」
リーゼは小さく息を吐く。
「忘れてください」
「忘れられないけど」
「カナタ」
「ごめん」
少し歩いてから、カナタは続けた。
「でも、ありがとう」
リーゼが顔を上げる。
「……何がですか?」
「俺を助けてくれたこと」
「……」
「本当に助かった」
リーゼはしばらく黙っていた。
やがて、前を向いたまま小さく笑う。
「……どういたしまして」
「リーゼ」
「はい」
「次に俺が無茶したら、また助けてくれる?」
「助ける前に、怒ります」
「怒ったあとなら?」
「……その時は、仕方ありません」
「じゃあ、安心だ」
「安心しないでください」
リーゼはそう言ったが、声には笑いが混じっていた。
二人は並んで歩く。
夕暮れのリュネア。
見慣れた街並み。
いつもの道。
いつもの帰り道。
けれど、砦へ向かう前とは少しだけ違う。
隣にいる相手の体温を、二人とも知ってしまった。
それを、まだ言葉にはしなかった。
ただ。
リーゼは隣を歩くカナタを見て、小さく微笑んだ。
「……帰ってこられて、本当によかったです」
「うん」
カナタも頷く。
「俺も」
少し間を置いて、カナタはリーゼの歩幅に合わせた。
二人はそのまま、月影亭へ向かって歩いていった。




