第20話 すべての魔力を
夜のハルディア砦。
城壁の向こうでは。
無数の魔物が蠢いていた。
月明かりの下。
その数は、昼間に見た時よりも増えている。
遠くには大型魔物の姿まである。
それらが。
まるで何かに導かれるように。
少しずつ砦へ近づいていた。
「……このままじゃ、本当に持たない」
カナタは呟いた。
隣にいるリーゼも。
険しい表情で魔物の群れを見ている。
「はい」
「原因はラグナ山」
「魔力の噴出」
「そして、魔物はその魔力に引き寄せられてる」
「おそらく」
カナタは。
地図を広げた。
砦。
ラグナ山。
周辺の森。
街道。
そして。
魔物の現在位置。
「だったら」
カナタは指を動かす。
「ここから魔力を出して」
「はい」
「魔物を、砦から遠ざける」
「……」
リーゼが地図を見る。
「どこへ?」
「ラグナ山とは反対側」
「南側ですか?」
「いや」
カナタは少し考える。
「南だと、別の村に近づく」
「確かに」
「西も街道がある」
さらに地図を見る。
「東側」
そこには。
人の住んでいない広い荒野があった。
「ここなら」
カナタが言う。
「魔物を誘導しても、人に被害が出にくい」
リーゼは地図を見つめる。
「……可能性はあります」
「問題は」
「魔力の規模ですね」
「うん」
カナタは頷く。
魔物の数は。
すでに数え切れない。
それらを一斉に誘導するには。
当然、それだけ大きな魔力が必要になる。
「どのくらい必要になるか」
リーゼが尋ねる。
「分からない」
「カナタの魔力でも?」
「分からない」
カナタは。
自分の胸に手を当てた。
巨大な魔力。
底が見えないほどの量。
けれど。
「使い切ったことがないから」
それが。
どれほどなのか。
自分でも分からない。
◇
「作戦は三段階です」
リーゼが地図に指を置いた。
「まず、カナタが東側へ魔力を流す」
「うん」
「その魔力に魔物が反応することを確認する」
「それから?」
「十分に魔物が移動したら、私が砦側に残っている魔物を誘導します」
「リーゼの魔法で?」
「はい。強制的に動かすのではなく、進行方向を少しずつ変えます」
カナタは頷いた。
「それなら」
「はい」
「俺が全部やる必要はない」
「そうです」
リーゼは少し安心したように笑う。
「カナタ一人で全部背負う必要はありません」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力する」
「もう」
リーゼが苦笑する。
「そこは、ちゃんと約束してください」
「分かった」
◇
作戦が決まった。
砦の兵士たちにも伝えられる。
「東側へ魔力を誘導する?」
グレン副隊長が聞き返す。
「はい」
リーゼが説明する。
「魔物が現在、ラグナ山から発生している魔力に反応しているなら、より強い魔力を別方向に発生させれば、そちらへ注意を向けられる可能性があります」
「可能性、か」
「確実ではありません」
リーゼは正直に答えた。
「ですが、他に有効な手段がありません」
グレンは。
しばらくカナタを見る。
「それを彼が?」
「はい」
「大丈夫なのか?」
カナタは答える。
「やってみます」
「……」
「成功すれば、砦への圧力を減らせる」
「失敗したら?」
「その時は」
カナタは一度息を吸う。
「その時に考えます」
グレンは。
しばらく黙っていた。
やがて。
「分かった」
頷く。
「我々は君たちが作戦を実行する間、城壁を守る」
「お願いします」
「無理だと思ったら、すぐに中止しろ」
「はい」
◇
東側の城壁。
カナタは。
一人で立っていた。
少し離れた場所にリーゼがいる。
「準備はいいですか?」
「うん」
「魔力は、最初から全開にしないでください」
「分かってる」
「少しずつです」
「うん」
カナタは目を閉じる。
呼吸を整える。
身体の中。
深い場所にある魔力へ意識を向ける。
「……」
いつもなら。
少し動かすだけでも怖かった。
巨大すぎる力。
制御できなければ。
周囲を巻き込んでしまう。
けれど。
今日は。
違う。
「行くよ」
「はい」
カナタが。
魔力を外へ流した。
◇
最初は。
ほんの少しだった。
淡い光が。
カナタの足元に広がる。
そして。
地面を伝うように。
東へ伸びていく。
「……」
リーゼが魔力を感知する。
「大丈夫です」
「うん」
「もう少しだけ」
カナタが魔力を増やす。
光が広がる。
十メートル。
三十メートル。
百メートル。
さらに。
その先へ。
「……すごい」
リーゼが呟いた。
カナタの魔力は。
止まらない。
普通なら。
この規模の魔法を維持するだけで。
すぐに限界が来る。
だが。
カナタは。
まだ余裕があった。
「魔物が動きます!」
兵士が叫んだ。
城壁の下。
一匹の魔物が。
カナタの魔力へ反応した。
頭を上げる。
東を見る。
そして。
ゆっくりと歩き始めた。
「成功……?」
カナタが呟く。
「まだです」
リーゼが答える。
「一匹だけではありません」
別の魔物が。
また一匹。
さらに一匹。
東へ向きを変える。
やがて。
群れの一部が。
一斉に動き始めた。
「……!」
カナタの目が開く。
「効いてる」
「はい!」
◇
だが。
問題はここからだった。
魔物の数は。
あまりにも多い。
一部が動いても。
残った魔物が大量にいる。
「もっと広げます」
カナタが言う。
「待ってください」
リーゼが止める。
「無理は――」
「大丈夫」
「カナタ」
「まだいける」
カナタは魔力を増やした。
光の範囲が。
一気に広がる。
東側の大地を覆っていく。
魔物たちが次々と反応する。
「動いてる!」
兵士が叫ぶ。
「魔物が東へ向かっている!」
砦の城壁から。
歓声にも似た声が上がった。
だが。
カナタは。
笑っていなかった。
「……」
額から。
汗が流れている。
「カナタ?」
「大丈夫」
声が少し掠れていた。
「まだいける」
◇
魔力を。
さらに広げる。
東。
東。
もっと遠くへ。
魔物が。
カナタの魔力へ引かれて移動していく。
数十。
百。
それ以上。
砦を取り囲んでいた魔物の群れが。
少しずつ。
東へ移動していく。
「あと少しです」
リーゼが言う。
「大型種がまだ残っています」
カナタは。
大型魔物を見る。
その巨大な身体は。
まだ砦の方を向いている。
「……あいつらも」
「はい」
「動かさないと」
カナタは。
魔力をさらに強くする。
「カナタ!」
リーゼが叫ぶ。
「これ以上は――」
「大丈夫!」
カナタが答える。
「まだ、ある!」
自分でも。
驚くほどの魔力が。
身体の奥から湧き出してくる。
もっと。
もっと。
まだ使える。
それなら。
砦を守れる。
「行け……!」
魔力が。
一気に広がった。
◇
その瞬間。
カナタの視界が揺れた。
「……?」
足元が。
少しふらつく。
「カナタ!」
「大丈夫……」
膝に力を入れる。
立っている。
まだ立てる。
「魔力が」
リーゼが顔を青くする。
「急激に減っています」
「……分かる」
初めてだった。
自分の中にあれほどあった魔力が。
明確に。
減っている。
底が。
見え始めていた。
「でも」
カナタは。
東へ向かう魔物を見る。
まだ。
大型魔物が残っている。
「あと少し」
「駄目です」
リーゼが強く言う。
「ここから先は危険です」
「でも」
「カナタ!」
「砦を守らないと!」
その声に。
リーゼは黙った。
カナタの顔を見る。
苦しそうだった。
呼吸も荒い。
それでも。
魔力を止めようとしない。
「……」
リーゼは。
歯を食いしばった。
そして。
「分かりました」
「リーゼ?」
「最後までやりましょう」
リーゼも。
自分の魔力を解放する。
「私が周囲の魔物の流れを調整します」
「……ありがとう」
「ただし」
リーゼは。
カナタを見る。
「本当に限界になったら、絶対に止めます」
「うん」
◇
二人の魔力が。
重なった。
リーゼが。
魔物の進行方向を微調整する。
カナタが。
東側へ巨大な魔力を流し続ける。
群れが。
少しずつ。
砦から離れていく。
大型魔物も。
ようやく動き始めた。
「……動いた」
カナタが呟く。
「はい!」
「もう少し」
「カナタ」
「あと少しだけ!」
東へ。
さらに遠く。
人のいない荒野へ。
魔物を誘導する。
砦との距離が。
どんどん開いていく。
城壁の前から。
魔物が減っていく。
「今です!」
リーゼが叫んだ。
「ほとんど移動しました!」
カナタは。
荒い呼吸を繰り返す。
「……じゃあ」
「はい」
「最後に」
カナタは。
残った魔力を。
すべて東へ流した。
◇
――ドンッ。
空気が震えた。
青白い光が。
荒野一帯を覆った。
魔物たちが。
一斉に東へ向かう。
大型魔物も。
群れの後を追うように移動していく。
そして。
砦の前から。
魔物が消えた。
「……」
静寂。
誰も。
すぐには声を出せなかった。
兵士たちが。
城壁から外を見る。
「……いない」
誰かが呟いた。
「魔物が」
「いなくなった……」
その瞬間。
砦中から。
大きな歓声が上がった。
「やったぞ!」
「魔物が離れた!」
「助かった!」
カナタは。
その声を聞いて。
小さく笑った。
「……よかった」
そして。
身体が。
大きく揺れた。
「カナタ!」
リーゼが支える。
「大丈夫?」
「……うん」
答えようとする。
だが。
声が出ない。
「カナタ?」
視界が。
暗くなる。
「……あれ」
足元から。
力が抜けた。
「カナタ!」
リーゼが抱き留める。
カナタの身体は。
驚くほど軽かった。
「しっかりしてください!」
「……」
返事がない。
「カナタ!」
リーゼが呼び続ける。
呼吸はある。
だが。
弱い。
「魔力が……」
リーゼが。
カナタの身体に手を当てる。
ほとんど。
感じない。
「……空っぽ」
カナタの巨大な魔力が。
ほとんど残っていなかった。
◇
「医療班を!」
兵士が叫ぶ。
「呼んでください!」
リーゼは。
カナタを抱えたまま。
必死に呼びかける。
「カナタ」
「……」
「聞こえますか?」
カナタの呼吸が弱い。
リーゼは、握った手から魔力を送り続けていた。
けれど。
「……足りない」
いくら魔力を流しても。
カナタの身体の奥まで、うまく届いていない。
魔力の通り道が細くなっている。
極限まで魔力を使い果たしたことで、カナタ自身の魔力循環がほとんど止まっていた。
「どうすれば……」
リーゼは焦った。
魔力枯渇。
それ自体は、伝書人としての訓練でも知っている。
大量の魔力を一気に失えば、身体は急激に弱っていく。
最悪の場合。
命に関わる。
「……カナタ」
返事はない。
リーゼは唇を噛んだ。
治療師を待つ。
それが普通なら。
けれど。
今のカナタには。
待っている時間がない。
「魔力を……もっと直接」
その言葉が。
頭の中に浮かんだ瞬間。
リーゼの身体が固まった。
思い出した。
以前の魔力訓練。
カナタの手に触れた時。
彼の魔力は。
自分の魔力と驚くほど自然に馴染んだ。
普通なら。
他人の魔力を直接送り込むには、それなりの技術が必要になる。
相手との相性が悪ければ。
魔力が弾かれることさえある。
なのに。
カナタとは違った。
自分の魔力が。
まるで最初から知っていた道を進むように。
彼の中へ入っていった。
「……」
リーゼは。
カナタの手を見る。
そして。
自分の唇に。
無意識に触れた。
「……駄目」
小さく呟く。
頭に浮かんだ方法を。
自分で否定する。
「それは……」
魔力を直接繋ぐ。
それだけなら。
できる。
手を重ねてもいい。
額を合わせてもいい。
身体を密着させれば。
魔力の伝達効率も上がる。
それでも。
もっと直接的な方法がある。
それを。
リーゼは知っていた。
知ってしまっている。
「……キスなんて」
声に出した途端。
胸が大きく跳ねた。
顔が熱くなる。
「何を考えているんですか、私は……」
カナタは意識を失っている。
今は治療が必要。
そんな状況で。
自分が考えていることに。
リーゼは強い羞恥を覚えた。
「違います」
誰に言うでもなく。
自分へ言い聞かせる。
「そういう意味じゃありません」
これは。
治療。
魔力供給。
ただそれだけ。
そうしなければ。
カナタが危ない。
「……分かっています」
それでも。
身体が動かなかった。
目の前には。
眠ったままのカナタ。
ついさっきまで。
自分と一緒に作戦を考えて。
自分の力で砦を守ろうとして。
そして。
限界まで魔力を使った。
無茶をした。
本当に。
馬鹿なくらい。
「どうして……」
リーゼの目に涙が浮かぶ。
「どうして、そこまで……」
自分でも分からないほど。
胸が苦しくなる。
助けたい。
ただそれだけだった。
だから。
自分にできるなら。
何だってする。
そう思った。
なのに。
「……怖い」
リーゼは小さく呟いた。
キスそのものが怖いわけではない。
違う。
その行為をしてしまった後。
自分がカナタをどう意識してしまうのか。
それが怖かった。
これまで。
二人は伝書人として一緒に仕事をしてきた。
朝。
眠そうな自分を見て。
カナタが呆れたように笑う。
仕事から帰れば。
「おかえり」と言ってくれる。
一緒に訓練して。
魔力の流れを確認して。
くだらない話をして。
時々。
少しだけ楽しくなる。
その関係が。
自分の中で。
少しずつ大切になっていることには。
リーゼ自身も。
薄々気づいていた。
「だから……」
リーゼは目を閉じる。
「余計に、したくない」
こんな形で。
こんな状況で。
意識を失っているカナタに。
自分から口づけるなんて。
もしカナタが目を覚ましていたら。
絶対にできない。
できるはずがない。
「……」
それでも。
カナタの呼吸が。
また弱くなる。
「……っ」
迷っている時間が。
ない。
リーゼはカナタの頬に手を添えた。
「ごめんなさい」
声が震える。
「本当に……ごめんなさい」
返事はない。
「でも」
リーゼは涙を拭った。
「今だけは」
自分に言い聞かせる。
「伝書人としてじゃなくて」
もう一度。
カナタを見る。
「あなたを助けるために」
ゆっくり。
身体を抱き起こす。
カナタの頭を支える。
腕の中に。
大切な人を抱きしめるように。
けれど。
リーゼはその言葉を。
心の中で否定した。
大切な人。
――その表現を使うのは。
まだ早い。
自分でも。
何を感じているのか。
分からないのだから。
「……これは治療です」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
何度も。
「治療です」
それでも。
顔を近づけると。
胸の鼓動が速くなる。
息が苦しい。
怖い。
恥ずかしい。
離れたい。
けれど。
離れたくない。
「……カナタ」
最後に。
名前を呼んだ。
そして。
そっと唇を重ねる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
触れる。
その瞬間。
「……!」
魔力が。
一気に流れた。
リーゼの魔力が。
カナタへ向かって。
まっすぐに流れ込んでいく。
「……入ってる」
驚きで。
リーゼの目が開く。
今までとは。
まるで違った。
魔力の境界が。
なくなっていく。
自分の魔力が。
カナタの中へ。
抵抗なく溶けていく。
「……こんなに」
リーゼは。
カナタを抱きしめたまま。
魔力を送り続ける。
カナタの呼吸が。
少しだけ強くなった。
「よかった……」
涙が頬を伝う。
それでも。
まだ足りない。
リーゼはもう一度。
短く口づける。
「戻ってきてください」
その言葉とともに。
さらに魔力を送る。
「お願いです」
カナタの魔力循環が。
少しずつ動き始める。
弱かった脈が。
ほんの少し安定する。
「……よかった」
リーゼは。
カナタを抱きしめたまま。
目を閉じた。
そして。
ようやく理解する。
自分は。
さっきまで。
キスをすることを恥ずかしがっていた。
怖がっていた。
けれど。
今は違う。
ただ。
この人が生きていること。
それだけが嬉しい。
「……」
リーゼは。
自分の胸に顔を寄せるカナタを見る。
「本当に……無茶をする人ですね」
声は。
少し震えていた。
「私に、こんなことまでさせて」
もちろん。
カナタには聞こえていない。
だからこそ。
言えた。
「……困ります」
涙を拭う。
「こんなに心配させないでください」
カナタの身体に。
もう一度。
魔力を送る。
今度は。
口づけをする必要はなかった。
二人の魔力は。
すでに深く繋がっている。
まるで。
最初から。
そうなることを知っていたかのように。
リーゼはそのことに。
少しだけ。
不思議な不安を覚えた。
けれど今は。
考えない。
ただ。
カナタが目を覚ますまで。
そばにいる。
それだけだった。
◇
しばらくして。
「……リーゼ」
かすかな声。
「……!」
リーゼの身体が止まる。
「カナタ?」
カナタが。
ゆっくり目を開ける。
「ここ……」
「はい」
リーゼは。
慌てて涙を拭う。
「ここにいます」
「……魔力」
「はい」
「くれた?」
「……はい」
カナタは。
ぼんやりとリーゼを見る。
「ありがとう」
「お礼は後です」
リーゼは。
少しだけ顔を逸らした。
「今は休んでください」
「……うん」
カナタは。
安心したように目を閉じる。
リーゼは。
しばらく何も言わなかった。
ただ。
カナタの手を握っている。
そして。
さっきまでの出来事を思い出す。
顔が。
また熱くなった。
「……忘れてください」
眠っているカナタに。
小さく呟く。
「今のは……治療ですから」
そう言いながら。
自分自身に言い聞かせる。
けれど。
胸の鼓動だけは。
なかなか静まってくれなかった。
そして。
カナタの胸元にある青い羽根が。
誰にも気づかれないほど淡く。
もう一度。
青い光を灯した。




