第19話 秘めた力
ハルディア砦の中は、外の静けさとは正反対だった。
「東側の見張り台、交代!」
「負傷者をこちらへ!」
「魔法兵は城壁へ!」
「門を開けるな! 絶対に開けるな!」
怒号が飛び交い、兵士たちが駆け回っている。
血に濡れた者が運び込まれ、治療を受ける者の呻き声が響く。武器を手に取った兵士たちは、次々と城壁へ向かっていた。
砦全体が、いつ戦闘に突入してもおかしくない緊張に包まれている。
「……ひどい」
リーゼが呟いた。
カナタも言葉を失っていた。
城壁の向こうには、無数の魔物が蠢いている。森からは今も新たな影が現れ、砦へ向かってゆっくりと距離を詰めていた。
遠くから、低い唸り声が重なって聞こえる。
まるで森そのものが、こちらへ押し寄せてくるようだった。
「伝書人の方ですね」
声をかけてきたのは、傷のついた鎧を身につけた男性だった。
「私はハルディア砦副隊長、グレンです」
「リュネアの伝書院から来ました」
リーゼが答え、封筒を差し出す。
「緊急伝書を」
「ありがとうございます」
グレンは封筒を受け取ると、白い封蝋を確認した。だが、胸元へしまう手つきには余裕がない。外から響いた咆哮に、彼の視線が一瞬だけ城壁へ向いた。
「これを待っていました」
「状況は?」
リーゼが尋ねる。
グレンは、短く息を吐いた。
「最悪です」
その一言に、迷いはなかった。
「昨日の時点では、まだ散発的な襲撃でした。夜の間に何度か魔物が近づいてきた程度です」
「今日は?」
「完全に様子が違う」
グレンは城壁の向こうを睨んだ。
「魔物が、この砦を目指して集まっています」
「理由は分かっているんですか?」
「……それを、今から説明します」
◇
砦の作戦室。
大きな机の上には、周辺の地図が広げられていた。
地図の上には、魔物の目撃地点、襲撃地点、負傷者が出た場所が赤い印で記されている。さらに、そのすべてを結ぶように、魔物の移動方向を示す矢印が伸びていた。
赤い印は、時間が経つほど砦へ近づいている。
「最初は、単純な異常発生だと思っていました」
グレンが言った。
「森の奥から、魔物が押し出されてきた。縄張り争いか、何かに追われているのだろうと」
「それだけでは説明がつかない?」
リーゼが地図を見つめる。
「はい」
グレンは、いくつもの印を指でなぞった。
「魔物には縄張りがあります。種類が違えば、生息域も行動範囲も違う。普通なら、これほど多くの魔物が同じ方向へ動くことはありません」
「それなのに」
リーゼが続ける。
「違う種類の魔物が、同じ場所へ向かっている」
「その通りです」
グレンは地図の中央を指した。
「原因は、ここです」
そこには、ハルディア砦から少し離れた山の名前が記されていた。
「ラグナ山?」
カナタが読み上げる。
「はい」
「そこに何があるんですか?」
グレンは一枚の報告書を取り出した。紙の端には泥がこびりつき、ところどころに血の跡が残っている。
「昨日の夜、斥候隊がラグナ山の中腹で異常を確認しました」
グレンは報告書に目を落とした。
「山の内部から、大規模な魔力反応が発生していたそうです」
「魔力?」
リーゼが身を乗り出す。
「どのくらいですか?」
「測定できませんでした」
「……」
「魔道具の限界を超えています。測定器は反応した直後に焼き切れ、斥候隊は撤退を余儀なくされました」
カナタの胸の奥が、わずかにざわめいた。
測定不能。
その言葉には、どこか聞き覚えがあった。
「そして」
グレンは続けた。
「その魔力反応が確認されてから、魔物の動きが変わりました」
地図上の矢印を指す。
「魔物が山から離れ」
指が砦の方へ移る。
「こちらへ向かい始めた」
◇
「つまり」
カナタが言った。
「魔物は、その魔力から逃げてきている?」
「それが最初の予想でした」
グレンは首を横に振る。
「ですが、違った」
「違う?」
「山から逃げている魔物だけではありません」
グレンはラグナ山の印を見つめた。
「自分から山へ向かっている個体も確認されています」
「……」
カナタは黙り込んだ。
「逃げている魔物と、向かっている魔物がいる?」
リーゼが確認する。
「はい」
「では、一体何が……」
「分かっていません」
グレンは苦々しく答えた。
「ただ、今朝になって状況がさらに悪化しました」
その時、作戦室の扉が勢いよく開いた。
「副隊長!」
若い兵士が、息を切らして駆け込んでくる。手には新しい報告書が握られていた。
「何だ」
「斥候から追加報告です」
「読め」
「はい」
兵士は紙を広げた。
「ラグナ山の中腹付近で、大型魔物の群れを確認。数は、確認できただけで十以上」
部屋の空気が重く沈んだ。
「さらに」
兵士は唇を湿らせた。
「山の中心部に近づくほど、魔物の数が増えているとのことです」
「大型魔物が、十以上……」
リーゼが呟く。
大型魔物が一体でも砦へ向かえば、城壁は無事では済まない。十体以上が群れを成しているなら、正面から止めるのは困難だった。
「中心に」
リーゼが地図を見つめる。
「何かがある」
カナタも、同じ結論に達していた。
◇
その後、斥候隊からさらに詳しい情報が届いた。
ラグナ山の奥。
以前は何もなかった場所に、大きな亀裂が生じている。
地面は裂け、そこから青白い光が漏れている。周囲の岩肌には、まるで内側から押し広げられたような亀裂が走っていた。
そして、その裂け目から、強い魔力が絶え間なく流れ出している。
「地下から?」
カナタが尋ねる。
「そう考えられています」
グレンが答えた。
「魔力の噴出」
リーゼが言った。
「それなら、魔物が集まる理由も……」
「はい」
グレンが頷く。
「魔力に引き寄せられている可能性が高い」
魔物は、強い魔力に反応することがある。
特に、魔力濃度が異常に高い場所では、理性を失ったように行動を変える個体もいる。餌を求めるように近づくものもいれば、本能的な恐怖から逃げ出すものもいる。
「つまり」
カナタが言った。
「山から魔力が噴き出して」
「魔物がそれに反応して」
「この周辺に集まっている」
「そう考えるのが自然です」
リーゼが答えた。
だが、それで状況が好転するわけではない。
魔物はすでに砦の周囲を埋めつつある。森の中では枝が折れ、地面が踏み鳴らされている。遠くで、何か巨大なものが吠えた。
作戦室の窓が、低い振動に震える。
「……今のは?」
カナタが尋ねる。
グレンの表情が硬くなった。
「大型種です」
「近いんですか?」
「先ほどの報告より、さらに近づいている可能性があります」
その直後、砦の外から鐘の音が鳴り響いた。
一度。
二度。
三度。
警戒を示す鐘だった。
兵士たちの怒号が、壁越しに聞こえてくる。
「魔物が、もう城壁の近くまで来ています」
グレンが言った。
◇
「砦を守るには?」
リーゼが尋ねる。
グレンは地図から目を離さなかった。
「正直に言えば、厳しいです」
「兵力が足りない?」
「それだけではありません」
グレンは城壁の方を見た。
「数が多すぎる」
さらに、ラグナ山の印へ視線を戻す。
「大型魔物までいる。このまま増え続ければ、いずれ城壁が耐えられなくなる」
「城壁が破られたら?」
カナタが聞く。
「砦の中へ雪崩れ込みます」
グレンの声は低かった。
「この砦は、周辺の村々を守る最後の防衛線です。ここが落ちれば、魔物は街道へ流れ、避難の間もなく村が襲われる」
リーゼは息を呑んだ。
砦だけの問題ではない。
この場所が崩れれば、その先にいる人々まで危険にさらされる。
「今夜を越えられるかどうかも、分かりません」
グレンは淡々と告げた。
「次の襲撃で門が破られる可能性もあります」
外から、また咆哮が響いた。
今度は先ほどより近い。
兵士たちの足音が一斉に走り出す。
「東側、魔物接近!」
「弓兵を配置!」
「大型種を確認! 魔法兵、準備しろ!」
作戦室の中にまで、切迫した声が届いていた。
リーゼは拳を握った。
伝書人として、戦闘の専門家ではない。
魔法も使える。剣も扱える。普通の兵士よりは、はるかに実戦経験がある。
だが、この数を相手にできるほどではない。
「何か……」
リーゼは必死に考えた。
「私にできること……」
魔法で足止めする。
結界を張る。
負傷した兵士を治療する。
砦と外部の連絡を維持する。
どれも必要だ。
けれど、どれも決定打にはならない。
魔物の数そのものを減らすことはできない。
集まってくる原因も止められない。
このままでは、いずれ押し切られる。
「私一人では」
リーゼが呟いた。
「どうにもできませんね」
「リーゼ……」
カナタが彼女を見る。
リーゼが弱音を吐くのは珍しかった。
「ごめんなさい」
彼女は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「こういう時に、もっと何かできればいいんですが」
外で、金属が激しくぶつかる音がした。
続いて、兵士の叫び声。
リーゼの拳が、さらに強く握り込まれる。
「伝書人としては、それなりに経験があります」
彼女は言った。
「でも、この規模になると……」
言葉が途切れた。
◇
その時。
カナタは、自分の手を見た。
魔力。
自分の中にある、途方もないほど巨大な魔力。
これまで何度も言われてきた。
量だけなら異常。
測定不能。
普通の魔術師とは比較できない。
だが、カナタ自身は、それをほとんど使えていない。
だから今まで、それを大きな力だと思ったことはなかった。
制御できない、厄介なもの。
暴れさせれば、周囲を傷つけるかもしれないもの。
そう考えていた。
けれど。
「……待てよ」
カナタが呟く。
「カナタ?」
リーゼが振り向く。
「俺の魔力」
「はい」
「前に、長距離通信をしたことがあっただろ」
カナタは思い出す。
普通なら何度も中継が必要な距離。それを自分は、何十キロも魔力を維持したまま繋ぐことができた。
大量の魔力を、長時間、広い範囲へ行き渡らせる。
それなら。
「魔力を大量に使えるなら」
カナタは地図を見た。
「魔物を倒す必要はないんじゃないか?」
「……?」
リーゼが首を傾げる。
「集まっている原因が、魔力なんだろ?」
「はい」
「だったら」
カナタはラグナ山を指した。
「魔力を別の場所へ誘導できれば」
リーゼの目が大きくなる。
「魔物の群れを」
「動かせるかもしれない」
◇
「ですが」
リーゼはすぐに現実へ引き戻すように言った。
「そんなことが可能なんですか?」
「分からない」
「魔力を使って、魔物を誘導するなんて……」
「やったことはない」
カナタは正直に答えた。
「でも」
自分の内側へ意識を向ける。
深い。
どこまで続いているのか分からない。
底の見えない魔力が、静かに、しかし確かに存在している。
「俺の魔力なら」
カナタはゆっくりと言った。
「できるかもしれない」
その時、外で大きな衝撃音が響いた。
作戦室の壁が揺れ、机の上の地図が跳ねる。
「何だ!」
グレンが扉へ向かって叫ぶ。
外から返事が飛んできた。
「東側の城壁に大型種が接触! 外壁に亀裂!」
作戦室の空気が凍りついた。
「被害は!」
「確認中です! 次の攻撃に備えてください!」
グレンは歯を食いしばった。
「もう時間がない」
リーゼはカナタを見た。
「……カナタ」
「うん」
「それは、危険なことではありませんか?」
「分からない」
「魔力を大量に使うんですよね?」
「たぶん」
「なら、無理をしてはいけません」
「分かってる」
「カナタの魔力がどれだけ大きくても」
リーゼは真剣な目で彼を見る。
「身体が耐えられるとは限りません」
「……うん」
「それに、魔物を刺激したら、逆にこちらへ向かってくる可能性もあります」
「そうだな」
「失敗すれば」
「分かってる」
カナタは静かに頷いた。
外では、兵士たちが叫び続けている。
「第二防壁、展開!」
「負傷者を下げろ!」
「門前に近づけるな!」
次の衝撃が来る。
その予感が、誰の胸にもあった。
「でも」
カナタは外を見た。
城壁の向こうには、魔物の群れ。
砦の中には、治療を受ける兵士たち。
怯えながら身を寄せ合う人々。
そして、今も届き続ける報告。
「このままだと」
カナタは言った。
「もっと怪我人が出る」
リーゼは黙って聞いている。
「砦も危なくなる」
また、遠くで咆哮が響いた。
「何もしないで見てるのは」
カナタは拳を握った。
「嫌だ」
◇
カナタは、自分の中にある魔力を、初めて「力」として考えた。
今まで、制御することばかり考えていた。
暴れないように。
漏らさないように。
小さく使うように。
けれど、もしかすると。
使い方そのものが、違っていたのかもしれない。
「俺の魔力は」
カナタが言う。
「普通の魔法を強くするだけじゃない」
リーゼが黙って聞いている。
「普通の人には魔力が足りなくてできないことを」
カナタは、ラグナ山の方角を見た。
「俺なら、できる可能性がある」
長距離通信。
大規模な魔法。
広い範囲での長時間の維持。
これまで少しずつ見えてきた、自分の魔力の特殊性。
そして今回、初めて。
それを誰かを助けるために使えるかもしれない。
「……やってみたい」
カナタは言った。
「でも」
リーゼが答える。
「私も手伝います」
「リーゼ」
「一人ではやらせません」
彼女は、いつもの伝書人の顔に戻っていた。
ただし、その目には隠しきれない緊張がある。
「危険なら止めます」
「分かった」
「魔力の流れも確認します」
「うん」
「それから」
リーゼは、わずかに笑った。
「帰るところまでが任務ですから」
カナタも笑おうとした。
だが、外から響いた轟音に、その表情はすぐに消えた。
「それ、いつものやつだな」
「大切なことです」
直後、伝令兵が作戦室へ駆け込んできた。
「副隊長! 東側の外壁に大きな亀裂! 次の攻撃で破られる可能性があります!」
グレンが振り返る。
「魔法兵を全員、東側へ回せ!」
「すでに向かわせています!」
「足りない!」
グレンの怒声が響いた。
「何としても持たせろ! 夜明けまで、絶対に持たせるんだ!」
カナタは、地図の上に置かれたラグナ山の印を見つめた。
夜明けまで。
それだけの時間すら、残されていないかもしれない。
◇
その夜。
ハルディア砦の城壁から、二人は外を見ていた。
魔物の群れが、月明かりの下で蠢いている。
無数の影が、城壁の前で押し合い、唸り、時折こちらへ突進してくる。矢が放たれ、魔法が炸裂し、何体かが倒れる。
だが、後ろから次の魔物が押し寄せてくる。
倒した数より、増える数の方が多い。
そのさらに向こうに、ラグナ山がある。
山の奥から、青白い光が空へ伸びていた。
光は先ほどより強くなっている。
「……あれが原因」
カナタが呟く。
「おそらく」
リーゼが答えた。
城壁の下で、兵士たちが慌ただしく走り回っている。
誰かが「大型種が動いた」と叫んだ。
別の場所では、負傷者を運ぶ担架が通り過ぎる。
「明日」
リーゼが言った。
「うん」
「魔力を使ってみますか?」
「うん」
カナタは自分の胸元に手を当てた。
そこには、青い羽根がある。
いつもより、少しだけ温かい。
そして、ラグナ山の方向へ向けた瞬間。
羽根が淡く光った。
「……」
カナタは息を止めた。
「今」
リーゼも、それを見ていた。
「光りましたね」
「うん」
ほんの一瞬。
青い光が、羽根の中を走った。
まるで、山の奥にある何かへ呼びかけるように。
その直後、ラグナ山の方角から、地鳴りが響いた。
魔物たちが一斉に顔を上げる。
城壁の上にいた兵士たちが、息を呑んだ。
「……カナタ」
「何?」
「もしかすると」
リーゼはラグナ山を見つめた。
「今回のことは、魔力だけの問題ではないのかもしれません」
「……」
カナタも山を見る。
青白い光。
集まる魔物。
反応した青い羽根。
そして、自分の中にある巨大な魔力。
それぞれが、偶然そこにあるとは思えなかった。
青い羽根が光った瞬間、ラグナ山の光もまた強くなった。
まるで遠く離れた二つの何かが、互いの存在を確かめ合ったように。
羽根は、カナタの手の中でかすかに震えていた。
その震えは、恐怖ではない。
呼びかけに応えようとしているようだった。
だが、考えている時間はもうなかった。
城壁の下で、警鐘が激しく鳴り始める。
「魔物、総攻撃です!」
兵士の叫び声が響いた。
群れが一斉に動き出す。
地面が揺れ、無数の足音が重なった。
その瞬間、青い羽根が再び光った。
今度は、先ほどよりも強く。
光は羽根からカナタの腕へ走り、胸の奥へ沈んでいく。
同時に、ラグナ山の青白い光が大きく脈打った。
山の奥から、何かが目を覚ましたような気配が伝わってくる。
カナタの中で、巨大な魔力が初めて明確な意思を持って動いた。
押し込めていた力が、呼び声に応じて、ゆっくりと広がっていく。
「カナタ……!」
リーゼが叫ぶ。
カナタは答えなかった。
答えられなかった。
視界の先で、魔物の群れが迫ってくる。
その向こうで、ラグナ山が青く燃えている。
そして手の中の羽根が、まるで帰る場所を示すように、山へ向かって光の筋を伸ばしていた。
何かが、カナタを呼んでいる。
あるいは。
カナタの力を、待っている。
「まずは」
カナタは、震える息を吐いた。
「砦を助けよう」
「はい!」
二人は城壁の上に並んで立った。
次の瞬間、魔物の群れが城壁へ殺到する。
カナタは、青い羽根を握りしめた。
これまで一度も、本気で使ったことのない力。
制御することすら難しかった、巨大すぎる魔力。
それを初めて、「誰かを守るため」に解き放つ。
羽根の光が、さらに強くなる。
ラグナ山の奥で、何かが応えた。
果たして、カナタの力は砦を救えるのか。
青い羽根は、何をラグナ山へ導こうとしているのか。
そして、山の裂け目の向こうには、何が待っているのか。
カナタが魔力を解き放った瞬間。
夜の世界が、青い光に呑まれた。




