第10話 銀色の徽章
朝。
月影亭には、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいた。
窓の外では、小鳥が鳴いている。
街も少しずつ目を覚まし始めている。
けれど。
カナタは、まだベッドの中にいた。
「……今日は休みか」
目を開けてから、しばらく天井を見る。
仕事の日なら、もう起きる時間だ。
けれど今日は休日。
急いで起きる必要はない。
そう思うと、身体から力が抜ける。
「……もうちょっと寝ようかな」
再び目を閉じようとした。
そのとき。
昨夜のことを思い出した。
魔力の制御を失敗した。
リーゼへ大量の魔力が流れた。
そして。
普段のリーゼとは思えないほど、ふわふわになっていた。
『離れないでください』
『もう一回、名前呼んでください』
『一緒に朝寝坊しましょう』
「……」
カナタは布団の中で固まった。
「……本当に酔っぱらってたんだな」
そう結論づける。
魔力酔い。
たぶん、酒に酔ったのと似たようなものなのだろう。
ならば。
今日のリーゼは――。
「……起きてるかな」
カナタはベッドから出た。
身支度を整える。
そして隣の部屋の前へ向かった。
コンコン。
「リーゼ?」
返事はない。
「リーゼ、朝だよ」
静寂。
「……」
もう一度。
コンコン。
「リーゼ?」
やはり返事はない。
カナタは少し考える。
「……寝てるな」
予想通りだった。
「リーゼ、起きてる?」
「…………」
「寝てるよな」
「…………はい」
「起きてたの?」
「……今、起きました」
扉の向こうから、ものすごく眠そうな声が返ってきた。
「入っていい?」
「……少々、お待ちください」
しばらくして扉が開く。
「……おはようございます」
「おはよう」
リーゼは見るからに眠そうだった。
髪はぼさぼさ。
目は半分しか開いていない。
そして。
「……頭が重いです」
「大丈夫?」
「たぶん……」
「二日酔いみたいだな」
「二日酔いではありません」
「でも昨日の魔力酔いだろ?」
「……それは」
リーゼは少し黙った。
「否定できません」
「やっぱり」
「昨日は……少し魔力を受けすぎました」
「ごめん」
「謝らなくていいです」
リーゼは額を押さえる。
「ただ……」
「ただ?」
「身体の中に、まだカナタの魔力が残っているような感じがします」
「まだ?」
「はい」
リーゼは目を閉じる。
「温かいんです」
「それって大丈夫なの?」
「害はありません」
「ならよかった」
「……ただ」
「?」
「少し……落ち着きます」
リーゼは小さく呟いた。
カナタには、その言葉の意味がよく分からなかった。
「魔力ってそんな感じなの?」
「普通は、ここまで感じません」
「そうなの?」
「はい」
リーゼは少し考える。
「カナタの魔力が特殊なんだと思います」
「俺の魔力が?」
「量だけではありません」
リーゼは胸元に手を当てる。
「昨日、触れたとき……すごく深かったんです」
「深い?」
「底が見えないというか」
「……それは俺も分からない」
「そうですよね」
リーゼは苦笑した。
「だから、今日は魔法の練習をしないほうがいいと思います」
「分かった」
「休日ですから」
「うん」
「……でも」
「ん?」
「少しだけなら」
カナタは思わず笑った。
「やっぱり練習するんじゃん」
「……少しだけです」
「はいはい」
「本当に少しだけです」
そう言ってから。
リーゼは欠伸をした。
「その前に朝食ですね」
「その前に顔洗ったほうがいいと思う」
「……そうします」
◇
一階へ降りると、セレナが二人を見て笑った。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよう、セレナ」
セレナはリーゼを見る。
「まあ」
「……何ですか?」
「ずいぶん眠そうね」
「……休日なので」
「昨日、夜更かしでもした?」
リーゼが固まる。
「……魔法の練習をしていました」
「そう」
セレナはそれ以上聞かなかった。
ただ。
「ほどほどにね」
「はい」
リーゼは少し恥ずかしそうに返事をした。
朝食が運ばれる。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
卵料理。
リーゼはゆっくり食べ始めた。
「……おいしい」
「いつもより味わってるな」
「今日は特に美味しいです」
「魔力酔いのせい?」
「たぶん」
リーゼはスープを飲む。
「身体が温まります」
食事を終えるころには、少しだけ顔色も良くなっていた。
「それで」
リーゼがカナタを見る。
「今日はどうしますか?」
「俺は街を見てみたい」
「街?」
「まだ仕事の道しか歩いてないから」
「確かに」
リーゼは考える。
「では、案内しましょうか?」
「いいの?」
「休日ですから」
「リーゼも休みなのに」
「私も街を歩くくらいならできます」
「朝は起きられなかったけど?」
「……それは忘れてください」
「無理」
「カナタ」
「はい」
「お願いします」
「分かった」
二人は宿を出た。
◇
休日のリュネアは、仕事の日とは少し違って見えた。
平日より人が多い。
露店が並び、広場には子どもたちが走り回っている。
「ここが中央広場です」
リーゼが説明する。
「普段は仕事で通り過ぎるだけなので、こうして見ると少し違いますね」
「結構広いな」
「リュネアは王都ではありませんが、アルヴェリア王国の中では大きな都市の一つです」
「なるほど」
カナタは周囲を見る。
武器屋。
食料品店。
服屋。
魔道具店。
小さな喫茶店。
見たことのないものが並んでいる。
「魔道具店、入ってみる?」
リーゼが聞く。
「いいの?」
「はい」
二人で店へ入る。
棚には魔石を使った様々な道具が並んでいた。
「これ、何?」
「小型の保温器です」
「こっちは?」
「風を起こす魔道具ですね」
「便利そう」
「伝書人も使うものがあります」
リーゼが一つの小さな器具を手に取る。
「これは遠距離伝書用の補助具です」
「そんなのもあるんだ」
「ただし、かなり高価です」
「……高い」
「はい」
「伝書人って給料いいの?」
「普通です」
「普通なんだ」
「仕事が大変な分、危険手当などがあります」
「なるほど」
カナタは商品を眺める。
すると。
「これ、カナタに似合いそうです」
リーゼが一つの小さな革紐を手に取った。
「何これ?」
「魔力制御用の補助具です」
「俺に?」
「はい」
「使える?」
「練習用なら」
リーゼが店員に値段を聞く。
思ったより安かった。
「買ってみる?」
「うん」
「では」
カナタが財布を取り出す。
「……」
リーゼがじっと見る。
「どうした?」
「お金」
「うん」
「ちゃんと持っているんですね」
「そりゃ持ってるよ」
「異世界から来たばかりなのに」
「……そういえば」
二人で顔を見合わせる。
「俺、この世界の通貨に慣れるの早くない?」
「早いですね」
「生活に慣れるのも早い?」
「かなり」
リーゼは笑った。
「普通ならもっと混乱します」
「まあ、分からないことだらけだけど」
「それでも、前へ進もうとしています」
「そうかな」
「はい」
店を出る。
その後も、リーゼは街の様々な場所を案内した。
大きな噴水。
市場。
冒険者たちが集まる酒場。
古い石造りの教会。
街の外へ続く門。
「ここから先が街道です」
「森も?」
「はい」
リーゼが遠くを見る。
「フォルネの森へ続く道もあります」
「……いつか行く?」
「もちろんです」
「仕事で?」
「仕事で」
リーゼが笑う。
「伝書人ですから」
◇
昼過ぎ。
二人は小さな店で昼食を取った。
リーゼは朝よりずっと元気になっている。
「だいぶ回復したな」
「はい」
「朝は死にそうだったのに」
「そこまでではありません」
「いや、目が半分閉じてた」
「……」
リーゼは少しむくれた。
「カナタは、私のことを何だと思っているんですか?」
「仕事はできるけど、朝に弱い人」
「……」
「あと、ちょっと忘れっぽい」
「……否定できません」
「でも頼りになる」
「……ありがとうございます」
リーゼは嬉しそうに笑った。
昼食を終える。
二人は再び歩き出す。
街を案内してもらいながら、カナタは少しずつこの世界での生活が現実になっていくのを感じていた。
数日前まで。
ここは知らない世界だった。
何も分からなかった。
けれど。
今は違う。
宿がある。
仕事がある。
知っている街がある。
そして。
隣にはリーゼがいる。
「……なんか、不思議だな」
「何がですか?」
「俺、もうこの世界で生活してるんだなって」
リーゼは少しだけカナタを見る。
「そうですね」
「最初はどうなるかと思ったけど」
「私もです」
「リーゼも?」
「はい」
リーゼは笑った。
「森で突然、知らない男性が倒れているんですから」
「それはそうだ」
「しかも身元不明」
「悪かったな」
「いえ」
リーゼは首を横に振る。
「今はもう、少し慣れました」
「俺も」
「……そうですか」
二人の歩幅が自然と揃っていく。
◇
夕方。
月影亭へ戻る。
「今日はありがとう」
「いえ」
「楽しかった」
「私もです」
リーゼはそう答えた。
「明日は仕事ですね」
「うん」
「魔法の練習も」
「もちろん」
「……」
リーゼが少し黙る。
「どうした?」
「いえ」
「?」
「明日、少しだけ……」
「うん?」
「魔力の制御を確認してもいいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
その夜。
カナタは部屋で、昼間買った魔力制御用の革紐を眺めていた。
「これで少しは上手くなるかな」
手首につける。
魔力を流す。
革紐に刻まれた小さな魔法陣が淡く光る。
「……お」
いつもより魔力が安定する。
「すごい」
その瞬間。
扉が叩かれた。
「カナタ」
「リーゼ?」
「少しだけ、いいですか?」
「どうぞ」
扉が開く。
リーゼは部屋へ入ると、カナタの手首を見る。
「似合っています」
「そう?」
「はい」
リーゼが近づく。
「少し確認してみましょう」
「分かった」
カナタが魔力を流す。
今度は、昨日のように暴れない。
淡い光が安定して灯る。
「……上手くなりましたね」
「本当?」
「はい」
リーゼがカナタの手に触れる。
「少しだけ、流れを確認します」
「うん」
魔力が二人の間を流れる。
昨日とは違う。
穏やかな流れ。
リーゼは目を閉じた。
「……」
「どう?」
「……やっぱり」
「何?」
「温かいです」
リーゼは小さく笑った。
「昨日ほど強くありません」
「ならよかった」
「はい」
けれど。
リーゼは、なかなか手を離さなかった。
「リーゼ?」
「……あ」
ようやく気づく。
「すみません」
「いや」
リーゼは少し顔を赤くする。
「その……」
「うん?」
「この魔力」
「うん」
「少し、好きになってきたのかもしれません」
「……え?」
リーゼ自身も言ってから驚いたようだった。
「いえ!」
慌てて手を離す。
「違います!」
「何が?」
「その……魔法としてです!」
「魔法として?」
「はい!」
リーゼは必死に頷く。
「カナタの魔力は、とても扱いやすい……というか」
「俺、制御できてないけど」
「そういう意味ではなくて!」
「じゃあ、どういう意味?」
「……」
リーゼは答えられない。
しばらく黙ったあと。
「……落ち着くんです」
小さな声だった。
「触れていると」
「そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、魔力の練習は楽しい?」
「……はい」
リーゼは少しだけ笑った。
「楽しいです」
それは。
仕事としての答えではなかった。
けれど。
二人とも、それ以上深く考えなかった。
「今日はもう少しだけやる?」
「……はい」
リーゼは頷く。
カナタが魔力を流す。
今度はほんの少し。
リーゼが受け取る。
穏やかな光が二人の間に浮かぶ。
その感覚に。
リーゼは静かに目を閉じた。
「……やっぱり」
「何?」
「心地いいです」
「ならよかった」
カナタは笑う。
リーゼも笑う。
まだ二人は知らない。
この感覚が。
いつしか二人にとって、ただの魔法訓練ではなくなっていくことを。
カナタの魔力に触れることが。
リーゼにとって、少しずつ特別な時間になっていくことを。
そして。
カナタ自身もまた。
魔力を受け取るリーゼの表情を見ることを、少しずつ楽しみにしていることを。
「今日はここまでにしましょう」
「うん」
リーゼが立ち上がる。
扉へ向かう。
そして。
「カナタ」
「ん?」
「明日も……よろしくお願いします」
「もちろん」
「では、おやすみなさい」
「おやすみ、リーゼ」
扉が閉じる。
リーゼは自分の部屋へ戻る。
ベッドに座る。
そして。
自分の手を見る。
「……また、触れたくなっています」
昨日よりも。
少しだけ強く。
けれど、その理由を。
リーゼはまだ知らない。
ただ。
明日も魔法の練習がある。
そう思うだけで。
少しだけ嬉しくなった。
――休日は終わった。
明日からまた仕事。
手紙を受け取り。
手紙を分類し。
誰かのもとへ届ける。
その日々の中で。
二人は少しずつ。
知らない世界と。
互いのことを。
知っていく。
そして。
伝書院の奥深く。
誰もいない記録庫では。
また一冊の古い記録帳が、静かに頁をめくっていた。
そこには。
百年以上前に消えた伝書人――
エレナ・リューネの名。
そして、その下に。
一行だけ。
新しく浮かび上がる文字があった。
――『青き羽根、再び旅を始める』
誰が書いたのか。
いつ書かれたのか。
まだ誰にも分からない。
ただ。
カナタとリーゼの旅は。
少しずつ。
次の場所へ近づいていた。




