第九十八話 ぬかるみ
三月の半ば、川沿いの村の男たちが村へ帰った。
田起こしが始まったのだ。約束通りだった。最後の日、小太郎の父は綱を置き、宗兵衛の前で頭を下げた。
「秋の刈り入れが済んだら、また来られます」
「秋には、もう石は運び終えているはずです」
宗兵衛がそう答えると、男は少し考えてから笑った。
「なら、城ができたら見に来ます。わしらが引いた石が、どこに積まれたか」
男たちが去ると、修羅の綱を引く手は半分になった。
修羅を二つ動かすには、四十人が要る。今、宗兵衛の手元にいるのは、組の荷駄の者と、修理亮が回してくれた足軽を合わせて三十人ほどだった。修羅は一つしか動かせない。一日に運べる石は、一つになった。
宗兵衛は書付を開き、残りの石の数を数え直した。
石工の見立てでは、中腹の石垣に要る石は、まだ千を超えている。一日に一つでは、夏どころか、年が明けても終わらない。
その夜、宗兵衛は修理亮の屋敷へ行き、書付を見せた。
修理亮は数字を黙って追い、それから顔を上げた。
「人を増やせ、とは言わんのだな」
「増やせるなら増やしたいです。ですが、どの組も人が足りていません。殿は夏までに移ると仰せです。人を取り合えば、どこかの普請が遅れます」
「では、どうする」
宗兵衛は書付の別の頁を開いた。
「石を小さくします」
修理亮が眉を上げた。
「石工の頭に聞きました。石垣の表に出る石は大きくなければならない。ですが、裏に詰める石は、小さくても構わないそうです。裏の石なら、荷車でも運べます。荷車なら、四人で一台引けます」
「修羅は表の石だけにするのか」
「はい。修羅は一日に一つ、表の石を引きます。荷車は、裏の石を一日に何度も運びます。それで、数は合うはずです」
修理亮はしばらく書付を見つめていた。
「石工の頭は、それでよいと言うたのか」
「頭は、最初は嫌な顔をしました。大きな石を割るのは手間だからと。ですが、平六が修羅の話をした時から、頭は平六の言うことは聞くようになりました。平六が間に入ってくれました」
修理亮は小さく鼻を鳴らした。笑ったのかどうか、宗兵衛には分からなかった。
「よかろう。やってみよ」
翌日から、運び方を変えた。
修羅は朝に岩崎の山を出て、夕方に小牧山の麓に着く。その間に、荷車が三台、裏の石を積んで三度ずつ往復する。石工たちは大きな石を割る手間に文句を言ったが、割った石が次々に運ばれていくのを見るうちに、だんだん口数が減っていった。
十日後、宗兵衛は書付の数を数え直した。このまま進めば、夏の初めには中腹の石垣に足りる。ようやく、数が合った。
四月に入ると、雨が続いた。
春の長雨だった。三日降っては一日止み、また降る。岩崎の山から小牧山までの道は、みるみるうちにぬかるみに変わった。
荷車の車輪が泥に沈んだ。四人で引いても動かない。後ろから押すと、今度は人の足が泥に取られる。修羅はもっとひどかった。丸太を並べても、丸太ごと泥に沈んでいく。
宗兵衛は、泥だらけになりながら道を歩いた。どこが一番ぬかるむか。どこなら土が固いか。書付に一つずつ書き込んでいく。だが、書いたところで、道が乾くわけではなかった。
四月の半ば、雨は止む日を挟まずに五日続いた。その五日、石は一つも小牧山に着かなかった。
その夜、甚内が宗兵衛の小屋を訪ねてきた。濡れた笠を土間に置き、囲炉裏の前に腰を下ろす。
「石が止まっておるそうじゃな」
「はい。五日、一つも着いていません」
「止めればよい」
宗兵衛は顔を上げた。甚内は火に手をかざしたまま続けた。
「雨の中で人足を泥に沈めて、足を折る者が出たら、晴れても運べん。止めるのも勘定のうちじゃ。美濃でお主が書いた帳面には、そう書いてあったはずじゃ」
宗兵衛は答えられなかった。十日前に合った数が、この五日で崩れていく。それを思うと、止めるという答えが、頭から抜け落ちていた。
「明日も降るなら、明日は休ませます」
「それでよい」
甚内は立ち上がり、笠を拾った。
六日目の朝、雨は小降りになっていた。それでも道はぬかるんだままだった。今日は休ませるか、一台だけでも出すか。宗兵衛が岩崎の山の麓で荷車を見ながら迷っていると、弥吉が駆けてきた。
「宗兵衛。麓の道を見てこい」
「麓の道が、どうかしましたか」
「いいから見てこい」
宗兵衛は佐吉を連れて、小牧山の方へ歩いた。
道の半ばを過ぎたあたりで、宗兵衛は足を止めた。
ぬかるみの上に、板が敷かれていた。
材木を割った端の板だった。厚さも長さも不揃いで、柱にも梁にも使えない半端な板ばかりだ。それが、道のぬかるみの一番ひどい所に、何十枚も並べられていた。板の上を、荷車が音を立てて通っていく。車輪は、沈まなかった。
板を敷いているのは、見慣れない人足たちだった。その真ん中で、泥だらけの小柄な男が、声を張り上げていた。
「そこはもう一枚重ねよ。車輪の通る所だけでよい。端まで敷くな、板が足りん」
藤吉郎だった。
宗兵衛が近づくと、藤吉郎は振り返って、にやりと笑った。
「おう、宗兵衛。遅かったな」
「藤吉郎殿。この板は……」
「わしの組の材木の端じゃ。柱を取った後の板は、薪にするしかない。薪にするなら、その前に一度、道に敷いても罰は当たるまい」
藤吉郎は板を一枚、足で踏んで沈み具合を確かめた。
「お主が書付を持ち歩いておるのを見て、真似をしてみた。どこがぬかるむか、わしは知らなんだ。だが、お主の組の荷駄の者に聞いたら、皆、同じ場所を言いよった。荷駄の者は、自分の足で知っておる」
宗兵衛は何も言えなかった。二宮山の勘定をした時、佐吉の板切れを見て、同じことを自分が思ったのだ。米を運ぶ者の目で見れば、どの山が楽かは分かる。石を運ぶ者の足で歩けば、どこがぬかるむかも分かる。
「借りは、これで返した」
藤吉郎は言った。
「道を譲ってもろうた借りじゃ。板は、晴れたら回収して薪にする。わしの組は損をしておらん。お主の石は届く。それでよかろう」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。借りを返しただけじゃ」
藤吉郎はそう言うと、また人足たちに声を張り上げ始めた。
その日の夕方、荷車が三台、小牧山の麓に着いた。裏に詰める小さな石を積んだ荷車だった。五日ぶりの石だった。
宗兵衛は書付を開き、その日の一行を書いた。
雨。荷車三台着く。道の板は藤吉郎殿の組の端材。ぬかるみの場所は荷駄の者が教えた。
書き終えてから、宗兵衛はしばらく筆を止めていた。
藤吉郎は、借りを返したと言った。だが、宗兵衛には、借りが一つ増えたようにしか思えなかった。
麓の方から、蹄の音が近づいてきた。
雨の中を、数騎の武者が小牧山へ向かっていた。先頭の馬に乗る男は、笠も被らず、濡れるに任せていた。
殿だった。
信長は、板の敷かれた道の脇で馬を止めた。荷車が板の上を通っていくのを、しばらく黙って見ていた。それから、板を敷いている人足たちの方を見た。藤吉郎が泥の中で膝をつき、頭を下げた。宗兵衛も、その後ろで頭を下げた。
信長は何も言わなかった。馬の腹を軽く蹴り、小牧山の方へ去っていった。
藤吉郎が顔を上げ、泥を払いながら呟いた。
「見ておられたな」
「はい」
「何も仰らなんだ」
藤吉郎はそう言って、それから、少し嬉しそうに笑った。
「何も仰らん時の方が、よう見ておられる。わしは、そう思うことにしておる」
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、小牧山の普請で起きた二つの困りごとを描きました。人足が減った分を、石を表と裏に分けて運び方を変えることで補った話と、春の長雨でぬかるんだ道に、藤吉郎が材木の端の板を敷いた話です。石垣は、表に見える大きな石の裏に、小さな石を詰めて造られるのが一般的でした。ただし、小牧山の普請で実際にこのような段取りが行われたかどうかは分かっておらず、今回の話は創作です。藤吉郎は「借りを返した」と言いましたが、宗兵衛は借りが増えたと感じています。この二人の貸し借りは、まだしばらく続きそうです。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




