第九十六話 二宮山
広間が、ざわめきに包まれた。
二宮山。清洲から北へ遠く離れた、尾張の北の端の山だった。麓には人家も少なく、山は険しい。その名を聞いた家臣たちの顔に、戸惑いが広がっていくのが、広間の一番後ろからでもよく見えた。
宗兵衛は、甚内に言われた通り、目を見開いて顔を上げた。だが、その目が見ていたのは信長ではなかった。前に並ぶ重臣たちの背中だった。肩が強張っている者。隣と顔を見合わせる者。口を開きかけて、閉じる者。
誰も、声に出して異を唱えはしなかった。
信長は広間を見渡したまま、続けた。
「明日、皆で山へ登る。屋敷の場所を割り振る。各々、自分の屋敷をどこに建てるか、その目で見て決めよ」
それだけ言うと、信長は立ち上がり、広間を出ていった。
信長の姿が消えると、広間の空気が一気に緩んだ。あちこちで、ため息とも呻きともつかない声が漏れた。
「二宮山とは……」
「あの山に、何千もの家中を上げるのか」
「水はどうする。米はどうする」
宗兵衛の隣で、甚内が小さく息を吐いた。
「驚いた顔は、できておったぞ」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない。わしも、本当に驚いた」
甚内はそう言って、苦い顔で立ち上がった。
翌日、織田の家中は二宮山に登った。
山道は細く、険しかった。馬を下りて歩かなければならない所がいくつもあった。中腹まで登ったところで、信長は家臣たちを立ち止まらせ、山の斜面を指して言った。
「ここから上を、重臣どもの屋敷とする。その下を、組ごとに割る」
家臣たちは斜面を見上げた。木々が生い茂り、岩が剥き出しになっている。ここに屋敷を建てるには、まず木を伐り、岩を除き、土を均さなければならない。
修理亮の組に割り当てられたのは、中腹の東側の斜面だった。
修理亮は斜面を見渡してから、宗兵衛を呼んだ。
「宗兵衛。ここに組の屋敷を建てるとして、どれだけの手間がかかるか、勘定してみよ。材木、石、人足、日数。それと、ここで暮らすのにどれだけの米と水が要るか」
「はっ」
宗兵衛は書付を開いた。
知っていた。この山に、城は建たない。殿はいずれ、この話を取り下げる。だが、今それを知っているのは、自分だけだった。修理亮も、甚内も、ここにいる誰もが、本当にこの山に移るつもりで、斜面を見上げている。
勘定を手抜きすれば、それは嘘になる。知っている先を理由に、今の勘定をおろそかにすれば、それはもう与力の仕事ではない。
宗兵衛は佐吉を連れて斜面を歩いた。
木を数え、岩の大きさを測った。土の固さを確かめ、水の出る場所を探した。だが、沢は山の裏側にしかなかった。こちらの斜面で暮らすなら、水は毎日、山の裏から運び上げなければならない。
米も同じだった。二宮山の麓には、大きな川がない。清洲から運ぶ米は、荷車で麓まで運び、そこから人の背で担ぎ上げることになる。荷車は、この山道を登れない。
山を下りる時、荷駄の者として同行していた弥吉が、ぼそりと言った。
「宗兵衛。この山に米を上げるのは、美濃へ運ぶより骨じゃぞ」
「はい」
「美濃は遠いが、道は平らじゃ。この山は近いが、上へ運ばねばならん。荷車が使えん分、人の足で運ぶしかない」
平六も、隣で黙って頷いていた。
それから七日かけて、宗兵衛は勘定をまとめた。
材木と石は、山で伐り出せば足りる。だが、人足の数が桁違いだった。米と水を毎日担ぎ上げるだけで、修理亮の組の荷駄の者が、全員かかりきりになる。屋敷を建てる人手は、別に雇わなければならない。
宗兵衛は、その数を一つずつ書いた。誇張もせず、手加減もしなかった。
書き終えた夜、佐吉が板切れを手に、宗兵衛の前に座った。
「宗兵衛様。荷駄の者たちに聞いて回ったことを、書いておきました」
板切れには、荷駄の者たちの話が並んでいた。どの山なら荷が楽か。どこの道なら荷車が通れるか。その中に、一つだけ、宗兵衛の目を引く一行があった。
小牧の山。川が麓まで来ている。舟で荷を運べる。弥吉さんの話。
宗兵衛は、その一行をしばらく見つめていた。
「弥吉さんが、そう言ったのか」
「はい。小牧の山は、低い山だけど、麓の近くまで川が来ているそうです。舟で荷を上げられるから、米を運ぶなら二宮山よりずっと楽だろうと」
宗兵衛は何も言えなかった。
自分は、小牧山の名を一度も口にしていない。口にしてはならないと、ずっと黙っていた。だが、荷駄の者は、自分の足で知っていた。米を運ぶ者の目で見れば、どの山が楽かは、自然に分かるのだ。
「書いておいてくれて、ありがとう」
宗兵衛は佐吉の板切れの一行を、自分の書付にそのまま写した。弥吉さんの話、と添えて。
翌朝、宗兵衛は勘定の帳面を修理亮に差し出した。修理亮は黙って頁をめくり、最後の頁で手を止めた。そこには、二宮山の勘定の後に、荷駄の者たちの話が並んでいた。小牧の山の一行も、そこにあった。
修理亮は長いことその頁を見ていた。
「これは、お主の考えか」
「いいえ。荷駄の者たちの話です。俺は、聞いたことをそのまま書いただけです」
修理亮はしばらく宗兵衛の顔を見ていたが、やがて帳面を閉じた。
「殿に出す。……二宮山の勘定としてな。後ろの頁を殿がどうご覧になるかは、殿のお考えじゃ」
それから十日ほどが過ぎた。
二宮山の斜面では、木の伐り出しが始まりかけていた。家臣たちは口々に不満を漏らしながらも、殿の命に従って、少しずつ支度を進めていた。城下では、清洲の商人たちが、店をどうするかと頭を抱えていた。
ある日、宗兵衛は二宮山の麓で藤吉郎と行き会った。藤吉郎は自分の組の割り当てを見に来たらしく、泥だらけの草鞋で山道を下りてきた。
「宗兵衛。お主のところも、勘定を出したそうじゃな」
「はい。正直に書きました」
「わしもじゃ」
藤吉郎はにやりと笑い、それから山を振り返った。
「正直に書いたら、とても殿にお見せできる数ではなくなった。……妙な話よな。殿は、それを分かっておって、皆に勘定をさせておられる気がする」
宗兵衛は答えなかった。藤吉郎も、答えを待たずに去っていった。
二月の初め、家中の者たちが再び広間に集められた。
宗兵衛は前と同じ、広間の一番後ろの端に座った。家臣たちの顔は、前に集められた時よりもずっと暗かった。二宮山に登り、斜面を見上げ、自分の屋敷を建てる苦労を思い知った顔だった。
信長が上座に現れた。家臣たちを見渡し、短く告げた。
「二宮山は、やめじゃ」
広間が静まり返った。
「小牧山へ移る。小牧の山は、麓まで川が来ておる。家財も米も、舟で運べる」
一瞬の沈黙の後、広間の空気が変わった。安堵の息が、あちこちから漏れた。二宮山に比べれば、小牧山は清洲から近く、低い山だった。誰かが小さく笑い、それが隣へ、また隣へと広がっていった。
宗兵衛は、その様子を広間の端から見ていた。
最初に遠い山を告げ、皆を困らせる。その後で、近い山を示す。そうすれば、城を移すことそのものに不満を言う者はいなくなる。書物に書かれていた筋書きの通りだった。
だが、書物には書かれていなかったことがある。
殿が二宮山の後に告げた理由は、麓まで川が来ている、舟で運べる、だった。それは、荷駄の者が自分の足で知っていたことと、同じ言葉だった。
信長は広間を見渡した。その目が、広間の後ろの端に向いたような気がした。だが、それが自分を見たのかどうか、宗兵衛には分からなかった。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、信長が二宮山へ城を移すと告げ、その後で小牧山に改めた場面を描きました。『信長公記』には、信長が初め家臣たちを二宮山に登らせ、屋敷の割り当てまで命じた後で、小牧山へ移ると告げたという話が記されています。小牧山は麓まで川が通じていて、家財を運ぶのに便利だったため、家臣たちは喜んで移ったとされています。二宮山は、現在の犬山市の本宮山のことだと考えられています。宗兵衛はこの筋書きを知っていましたが、二宮山の勘定を手抜きせず、正直に書きました。小牧山の名を出したのは宗兵衛ではなく、荷駄の者の弥吉です。次回から、小牧山の普請が始まります。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




