第九十五話 北を見る人
その年の夏から秋にかけて、信長はたびたび鷹狩りに出た。
行き先は、いつも北だった。清洲を朝早く発ち、日が暮れてから戻ってくる。獲物を下げて帰ってくる日もあれば、何も持たずに帰ってくる日もあった。家中の者たちは、殿の鷹狩り好きは今に始まったことではないと笑っていた。
宗兵衛は笑えなかった。
帳面の最後の頁を、殿は指で二度叩いた。その翌日から、北への鷹狩りが始まった。偶然とは思えなかった。だが、それを誰かに言うことはできなかった。
八月の終わり、宗兵衛は馬場で佐脇藤八に会った。
藤八は栗毛の馬の脚を洗っていた。宗兵衛に気づくと、手を止めずに言った。
「宗兵衛殿か。久しいな。美濃では大変だったそうじゃな」
「荷駄の者を一人、死なせました」
宗兵衛が答えると、藤八は手を止めた。しばらく宗兵衛の顔を見てから、静かに頷いた。
「それも書いたのであろう。お主のことじゃ」
「はい」
藤八はまた馬の脚に水をかけ始めた。
「殿の鷹狩りに、わしもお供しておる」
藤八は声を落とした。
「鷹を放つのは、一日に二度か三度じゃ。あとは、ずっと馬に乗って歩いておられる。小高い丘に登っては、北を見ておられる。それから、川を見ておられる。川がどこから来て、どこへ流れていくのか。舟が上れるのはどこまでか。土地の者を呼んで、そればかりお尋ねになる」
宗兵衛は黙って聞いていた。
「一度、殿が独り言のように仰ったことがある。米は、運ぶより先に置いておくものじゃ、と」
藤八は宗兵衛の方を見た。
「お主の帳面のことは、わしも聞いておる。最後の頁を、殿は清洲に戻られてからもう一度読まれたそうじゃ。……何が書いてあったのか、わしは知らん。知らんでよいのであろう」
宗兵衛は答えなかった。藤八も、それ以上は聞かなかった。
九月の半ば、宗兵衛は甚内と共に、川沿いの村を訪ねた。
去年の秋、水を被った村だった。年貢を先送りにし、種籾を残した村だ。
村に着くと、田は一面、黄金色に揺れていた。稲は重く頭を垂れ、刈り入れを待っていた。土手の向こうの木曽川は、穏やかに流れていた。
庄屋が出迎えた。去年、土間に額をこすりつけた男だった。今年は、腰を折って頭を下げただけだった。
「今年は、例年より実りがよろしゅうございます。去年待っていただいた分も、半分はお納めできます。残りの半分は、来年の秋に必ず」
甚内は庄屋の顔を見てから、宗兵衛の方を見た。
「宗兵衛殿の勘定通りか」
「二年で見れば、です」
宗兵衛が答えると、甚内は鼻を鳴らした。だが、その口元はわずかに緩んでいた。
田の畦を歩いていると、子供が一人、駆け寄ってきた。小太郎だった。去年の秋より背が伸びていた。
「お侍さま」
小太郎は宗兵衛の前で止まり、息を切らしながら言った。
「お父も、帰ってきた。美濃から」
宗兵衛は一瞬考えてから、気づいた。春の美濃攻めに陣夫として出された十一人。その中に、小太郎の父親もいたのだ。
「十一人、皆帰ってきたか」
小太郎は指を折って数え、大きく頷いた。
「皆。お父は、荷を担いで、川を二回渡ったって」
宗兵衛は小太郎の頭に手を置いた。それから、懐の書付を開き、この村の頁に書き足した。陣夫十一人、皆帰る。小太郎の父も。
帰り道、甚内がぽつりと言った。
「わしは去年、この村に情けをかける理由はないと言うた」
「はい」
「今も、その考えは変わらん。荷を美濃へ流した村じゃ」
甚内は前を向いたまま続けた。
「だが、この村が潰れておったら、今年の年貢はなかった。来年の分もなかった。……情けではなく、勘定で残した村が、勘定通りに返してきた。わしはそれを、帳面で見た。それだけじゃ」
宗兵衛は黙って並んで歩いた。
年が明けて、永禄六年になった。
宗兵衛は書付の端に、いつもの一行を書いた。天正十年まで、あと十九年。
その頃から、清洲の城下に妙な噂が流れ始めた。殿が、城を移されるらしい。どこへ移るのかは、誰も知らなかった。だが、殿が鷹狩りのたびに北の山を見ておられたことは、誰もが知っていた。
「城を移すなど、まさかのう」
荷駄置き場で、弥吉が縄を綯いながら言った。
「清洲は殿のお父上の代からの城じゃ。町も大きい。商人も集まっておる。それを捨てて、どこへ行くというのじゃ」
平六が荷車の車輪に油を差しながら答えた。
「北と言うても、山ばかりじゃ。家も田もない所に、何千もの家中を引っ越させるのか。女房が何と言うか」
宗兵衛は黙って帳面をつけていた。
城を移すことは、知っていた。行き先が小牧山であることも知っていた。そしてもう一つ、知っていることがあった。殿は最初、別の山の名を口にする。
家中の者たちが嫌がる、遠い山の名を。
一月の終わり、修理亮が自分の組の者たちを屋敷に集めた。
宗兵衛も甚内と共に呼ばれた。広間には、修理亮の家臣と与力が、顔を揃えていた。皆、何が告げられるのかを薄々感じているのか、口数が少なかった。
修理亮は上座に座ると、前置きなく言った。
「明日、殿が家中の者を集められる。城のことじゃ」
広間がざわめいた。
「わしも、詳しくは聞かされておらん。ただ、殿はこう仰せになった。集まった者たちの顔を、よく見ておけ、と」
修理亮は広間を見回した。その目が、一瞬だけ宗兵衛の上で止まった。
「以上じゃ。明日は、皆遅れるな」
屋敷を出ると、甚内が並んで歩きながら言った。
「お主、驚いておらんな」
「……いえ」
「美濃へ出る前もそうじゃった。何か言いかけて、やめた顔をしておった」
甚内は前を向いたまま続けた。
「何を知っておるのか、わしは聞かん。だが、一つだけ言うておく。明日、殿が何を仰っても、お主は驚いた顔をしておけ。殿は、集まった者の顔を見ると仰せじゃ。一人だけ驚かん者がおれば、殿はその者を見る」
宗兵衛は足を止めかけた。甚内は振り返らなかった。
「わしは、お主がその目に晒されるのを見たくない。それだけじゃ」
その夜、宗兵衛はなかなか眠れなかった。
明日、殿は家中の者たちの前で、城を移すと告げる。そして、その行き先として、家中の者たちが顔を曇らせるような山の名を挙げる。家中の者たちは嫌がり、不満を口にする。その後で、殿は別の山を示す。小牧山を。
宗兵衛はそれを知っている。だが、知っているのは、書物に書かれた筋書きだけだった。殿がなぜそうするのか。家中の者たちが、その時どんな顔をするのか。それは、明日、自分の目で見るしかない。
土間で寝ていた佐吉が、寝返りを打った。
「宗兵衛様。眠れないのですか」
「ああ。少しな」
「明日、殿は何を仰るのでしょうか」
宗兵衛は少し考えてから答えた。
「分からない。だから、よく見ておこうと思う」
翌朝、清洲の城の広間に、織田の家中が集まった。
宗兵衛は修理亮の与力として、広間の一番後ろの端に座った。前の方には、家中の重臣たちが並んでいる。佐久間の顔も見えた。藤吉郎は、宗兵衛とは反対側の端にいた。
やがて、信長が上座に現れた。
広間が静まり返った。信長は座に着くと、居並ぶ家臣たちを一度だけ見渡した。そして、短く告げた。
「城を移す。二宮山へ移る」
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、信長が城を移すと告げるまでの前夜の話でした。美濃攻めの後、信長はたびたび北へ鷹狩りに出ていたという形で描いています。宗兵衛の帳面が直接の理由になったわけではありません。信長自身が、川を見て、道を見て、考え続けていた。その中に、帳面の一頁が加わっただけです。また、去年の秋に水を被った川沿いの村が、勘定通りに年貢を返してくる場面も描きました。そして最後に、信長が告げた行き先は「二宮山」でした。『信長公記』には、信長が初め二宮山へ移ると告げ、家臣たちを困らせた後で小牧山を示したという話が記されています。次回から、いよいよ小牧山の話が始まります。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




