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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第九十四話 消えた数

全軍の荷駄の帳面をまとめるのは、思っていた以上に骨の折れる仕事だった。

美濃へ出た組は、修理亮の組のほかに十を超える。それぞれの組に荷駄の頭がいて、それぞれのやり方で帳面をつけていた。俵の数で書く者。石で書く者。荷車の台数しか書いていない者。中には、帳面そのものをつけていない組もあった。

宗兵衛は佐吉を連れて、一つずつ組を回った。

最初の三つの組は、すんなりと帳面を出してくれた。修理亮の名を出し、殿の仰せだと伝えれば、荷駄の頭たちは渋々ながらも頷いた。

四つ目の組で、宗兵衛は足を止めた。

佐久間の組の荷駄の頭は、年の頃五十を過ぎた男だった。宗兵衛が用件を伝えると、男は帳面を出すどころか、宗兵衛の顔をじろじろと眺めた。

「修理亮殿の与力か。元服したての若造が、わしの帳面を改めると申すか」

「改めるのではありません。数を集めるだけです。殿の仰せです」

「殿の仰せなら、殿の前で出す。与力風情に見せる帳面ではない」

男はそう言って、背を向けた。

宗兵衛はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。殿の仰せだと言っても、相手が出さないと言えば、与力の自分には無理に出させる力はない。それに、男の言い分にも、分からなくはないところがあった。帳面を見せるということは、消えた米の数を見せるということだ。消えた数が多ければ、荷駄の頭の落ち度になる。

その日の夕方、宿所に戻ると、戸口に藤吉郎が立っていた。

「宗兵衛。佐久間殿の荷駄頭に追い返されたそうじゃな」

「どこで聞いたんですか」

「荷駄の者の耳は長い。わしの耳は、もっと長い」

藤吉郎はそう言って笑い、懐から帳面を一冊取り出した。

「わしの組の帳面じゃ。清洲を出た数、陣に着いた数、消えた数。全部書いてある。……上の瀬の借りを、まず一つ返しておく」

宗兵衛は帳面を受け取った。中を開くと、藤吉郎らしい細かい字で、数がびっしりと並んでいた。消えた数も、隠さずに書いてあった。

「それとな」

藤吉郎は声を落とした。

「佐久間殿の荷駄頭が帳面を出さんのは、消えた数が多いからじゃ。あの組は、上の瀬に回らず渡しで待っておった。待っておる間に、濡れた米を捨てておる。それを殿に知られたくないのよ」

「では、どうすれば」

「消えた数を、荷駄頭の落ち度にせぬことじゃ」

藤吉郎はにやりと笑った。

「お主の帳面は、誰が悪いかを書くための帳面ではあるまい。何がいかんかを書く帳面であろう。それを、あの男に分からせてやれ」

翌日、宗兵衛は佐久間の組の荷駄頭のもとを、もう一度訪ねた。今度は、藤吉郎の帳面と、修理亮の組の帳面を持っていった。

「修理亮様の組でも、米は消えています。上の瀬では荷車を一台失いました。木下殿の組でも、渡しで待つ間に米を捨てています。どの組でも消えている。だから、誰か一人の落ち度ではないのです」

宗兵衛は二冊の帳面を男の前に広げた。

「俺が殿に出したいのは、どこで、なぜ消えたかです。誰が消したかではありません」

男はしばらく黙って帳面を眺めていた。それから、ぶっきらぼうに言った。

「……修理亮殿の組の荷車が沈んだ話は、聞いておる。若いのが一人、流されたそうじゃな」

「はい」

「それも、書くのか」

「書きます」

男は宗兵衛の顔をじっと見た。やがて、奥から帳面を一冊持ってきて、宗兵衛の前に投げるように置いた。

「わしの組の数じゃ。濡れて捨てた分も、書いてある。……持っていけ」

十日かけて、宗兵衛はすべての組の帳面を集めた。

夜ごと、宿所の灯の下で数を並べた。佐吉が組ごとの数を読み上げ、宗兵衛が書き写していく。清洲を出た数。陣に着いた数。消えた数。そして、消えた場所。

並べ始めて三日目の夜、佐吉が読み上げる手を止めた。

「宗兵衛様。この数、清洲から遠い組ほど、消えている数が多くありませんか」

宗兵衛は筆を止め、佐吉の顔を見た。佐吉は板切れに組の名を並べ、その横に陣までの日数を書き込んでいた。誰に言われたわけでもない。自分で、数の並べ方を変えてみたのだった。

「並べ直してみよう」

宗兵衛は佐吉の板切れを受け取り、組の順を、清洲からの道の長さで並べ替えた。

組ごとに見れば、消えた数はばらばらだった。だが、道の長さで並べ直すと、きれいに揃った。清洲から一日の所では、ほとんど消えていない。二日の所では、少しずつ消え始める。川を越えて三日目になると、目に見えて増える。雨に遭えば、さらに増える。

道が一日延びるごとに、米がおよそ一割ずつ消えていた。

宗兵衛は、その数を帳面の最後の頁に書いた。誰の落ち度とも書かなかった。ただ、道の長さと、消えた数を並べた。頁の隅には、小さく、並べ方を変えたのは佐吉、と書き添えた。

帳面を書き上げた翌日、宗兵衛は弥吉と共に清洲の外れの村を訪ねた。

彦助の家だった。

小さな家に、母親と、十ほどの妹がいた。彦助は上の瀬から尾張へ連れ帰られ、村の寺に葬られていた。宗兵衛はその日まで、ここへ来ることができなかった。

宗兵衛は、彦助がもらうはずだった扶持と、自分の扶持から分けた米を差し出した。それから、上の瀬で何があったかを話した。弥吉が待てと言ったこと。自分が渡ると決めたこと。七台目の荷車が沈み、彦助が流されたこと。

母親は最後まで黙って聞いていた。泣きもせず、責めもしなかった。

話し終えると、母親はぽつりと言った。

「あの子は、役に立ちましたか」

宗兵衛は少し考えてから答えた。

「彦助が運んだ米で、退く時に、三千の兵が腹を満たしました。崩れた組は一つもありませんでした」

母親は小さく頷いた。それから、宗兵衛の手元の書付に目を留めた。

「それは」

「名を書く帳面です。彦助の名も、書いてあります」

母親は書付を覗き込んだ。だが、字は読めないようだった。代わりに、妹が母親の袖を引いた。

「おっ母。兄ちゃんの名前、どれ」

宗兵衛は頁を開き、彦助の名を指で示した。妹はその字をじっと見つめ、指でなぞった。

「……兄ちゃんも、字は読めんかった」

妹がそう言うと、母親は初めて目を伏せた。

帰り道、弥吉はずっと黙っていた。清洲の町の灯りが見えてきた頃、ようやく口を開いた。

「宗兵衛。お主は、自分が決めたと言うた」

「はい」

「言わんでもよかった。荷車が深みに嵌まった、それだけで済んだ」

「それでは済まないと思いました」

宗兵衛は前を向いたまま言った。

「あの人は、いつか誰かから聞きます。その時に、俺が隠していたと知れば、彦助の死に、もう一つ嘘が重なります」

弥吉はそれ以上何も言わなかった。

翌朝、宗兵衛は帳面を修理亮に差し出した。修理亮は黙って頁をめくり、最後の頁で手を止めた。そこには、道の長さと、消えた数だけが並んでいる。

「これを、殿にそのまま出すのか」

「数を、そのまま書いただけです」

修理亮はしばらく最後の頁を見つめていた。それから、帳面を閉じた。

「わしが持っていく」

三日後、修理亮が殿のもとから戻ってきた。宗兵衛を呼ぶと、修理亮は短く言った。

「殿は、帳面を最後まで読まれた。そして、最後の頁を指で二度叩かれた。それだけじゃ」

修理亮は少し間を置いた。

「明日、殿は鷹狩りに出られる。北の方へな」

【あとがき】

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、美濃攻めの荷駄の帳面をまとめる回でした。帳面を出したがらない者がいるのは、消えた数が自分の落ち度にされることを恐れるからです。宗兵衛は、誰が悪いかではなく、何が問題なのかを書く帳面を作ろうとしました。そして並べた数が示したのは、道が長くなるほど米が消えていくということでした。宗兵衛は、この先に信長が城を北へ移すことを知っていますが、それを口にはしません。ただ、数をそのまま書いただけです。また、彦助の家族を訪ねる場面では、宗兵衛は自分が決めたことを隠さずに伝えました。作中の数はあくまで物語上の目安です。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。

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