第九十三話 退き口
退くと決まった陣は、攻める時よりも騒がしかった。
陣小屋が畳まれ、荷が荷車に積まれていく。足軽たちは口々に何かを言い合っていた。腹が減った。美濃の者に追われる。川はまだ渡れるのか。声の多くは、不安から出ていた。
宗兵衛は修理亮の陣小屋にいた。
「他の組の様子は」
修理亮が問うと、甚内が答えた。
「どの組も、米は二日か三日分しか残っておりません。佐久間殿の組は、昨夜で炊く米が尽きたと聞きました。木下殿の預かる荷駄も、三度目の荷が届かず、粥ばかりだそうで」
宗兵衛は書付を開いた。修理亮の組の米は、上の瀬から運んだ分を合わせて、三合で十日分ある。三百人で十日。言い換えれば、三千人で一日。
「修理亮様」
宗兵衛は口を開いた。
「この米を、退き口で他の組にも分けさせてください」
甚内が顔を上げた。修理亮は黙って宗兵衛を見ていた。
「ここから尾張の岸までは、二日かかります。腹を空かせた兵が、美濃の兵に追われながら二日歩けば、隊列が崩れます。崩れた隊列は、川の手前で襲われます。一つの組だけが腹を満たしていても、隣の組が崩れれば、俺たちも巻き込まれます」
「わしの組の米を、他の組に配れと申すか」
修理亮の声は低かった。
「上の瀬で一人死なせて運んだ米じゃ。それを、他の組に分けるのか」
宗兵衛は書付の頁に目を落とした。そこには、彦助の名が書いてある。
「彦助が運んだ米だからです」
宗兵衛は顔を上げた。
「この米が、退き口で一人でも多くの者を尾張へ帰すなら、彦助は無駄に死んだのではないと、俺は思えます。俺たちの組の腹だけを満たして、隣の組が川の手前で崩れるのを見ていたら、俺は彦助に何も言えません」
陣小屋の中が静かになった。
修理亮はしばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「米は、わしの米ではない。織田の米じゃ」
修理亮は甚内の方を向いた。
「本陣へ申し上げてくる。修理亮の組の米を、退き口で分けると。……宗兵衛、どこで、どれだけ配るか、割り振りを作れ。半刻でじゃ」
「はっ」
宗兵衛は陣小屋を飛び出した。
半刻で作った割り振りは、粗いものだった。だが、骨組みは決まっていた。
退き口は二つ使う。水の引いた渡しと、上の瀬だ。渡しは舟が出せるようになっていたが、一度に渡せる数が限られる。上の瀬は、水が引いて浅瀬の筋が広がっていた。二つの道に軍勢を分ければ、川の手前で詰まる時間が半分になる。
米は、それぞれの川の手前で配る。歩いている間に配れば、隊列が乱れる。川の手前なら、どのみち渡る順番を待つ間がある。その間に炊いた飯を一人に一つずつ握らせ、腹を満たしてから川を渡らせる。
宗兵衛は荷車を二手に分けた。渡しの方は甚内に、上の瀬の方は自分が受け持つ。弥吉と平六は上の瀬に、佐吉は渡しの方につけた。
「宗兵衛様。俺も上の瀬に行かせてください」
佐吉が言った。宗兵衛は首を振った。
「渡しの方は、炊く場所と配る列を決める者が要る。甚内殿は兵を動かすので手一杯になる。お前は、俺がいなくても、見たものをそのまま書ける。だから、渡しに行ってくれ」
佐吉は唇を噛んだが、やがて頷いた。
その日の昼、軍勢は退き始めた。
修理亮の組は、隊列の一番後ろを受け持った。殿だった。美濃の兵が追ってくれば、真っ先にぶつかるのは修理亮の組になる。荷車は隊列の中ほどに入れ、殿の兵と荷車の間を、甚内の手の者が固めた。
美濃の兵は、やはり追ってきた。林の陰から矢が飛び、小さな一団が隊列の後ろに斬りかかってくる。そのたびに、修理亮の組の兵が押し返した。修理亮自身が馬上で槍を振るい、美濃の兵を退けるのが遠くに見えた。
宗兵衛は荷車の脇を歩きながら、何度も後ろを振り返った。殿の兵は、今朝の飯を三合食べていた。腹に力が入っている。だから、押し返せる。
翌日の昼、上の瀬に着いた。
川は、あの日とはまるで違っていた。水は澄み始め、浅瀬の筋がはっきりと見えている。あの日、色が濃いと弥吉が言った場所は、今は膝ほどの深さしかなかった。
弥吉はしばらく川面を見ていたが、何も言わなかった。
宗兵衛は川の手前に炊き場を作らせた。荷駄の者たちが鍋を据え、米を炊く。炊けた飯を、荷駄の若い者たちが握っていく。上の瀬に回された組の兵が、次々と川の手前に集まってきた。
宗兵衛は兵たちを一列に並ばせ、握り飯を一つずつ渡した。受け取った兵たちは、その場で頬張り、それから川へ入っていった。
列の中に、見覚えのある顔があった。藤吉郎だった。藤吉郎は自分の組の荷駄の者を連れていた。どの顔も、頬がこけていた。
藤吉郎は宗兵衛から握り飯を受け取ると、しばらくそれを見つめていた。
「宗兵衛。この米は、修理亮殿の組の米か」
「織田の米です」
宗兵衛が答えると、藤吉郎は一瞬だけ目を丸くした。それから、握り飯を一口かじり、小さく笑った。
「……借りじゃな、これは」
「借りではありません」
「いや、借りじゃ。わしは、借りは必ず返す男でな」
藤吉郎はそう言って、自分の組の者たちに握り飯を配る手伝いを始めた。
軍勢が川を渡り終えたのは、日が傾く頃だった。
宗兵衛は最後の荷車と共に、上の瀬を渡った。荷車の一台には、筵にくるんだ彦助が乗せてあった。尾張へ連れて帰ると、宗兵衛が決めていた。
川の真ん中で、宗兵衛は足を止めた。あの日、七台目の荷車が沈んだ場所だった。今は、膝の下を澄んだ水が流れているだけだった。
尾張の岸に上がると、弥吉が待っていた。
「宗兵衛」
弥吉は川の方を見たまま言った。
「今日なら、渡れた。あの日は、渡れなんだ。……それだけのことじゃ。それだけのことで、人は死ぬ」
宗兵衛は黙って頷いた。
その夜、尾張の岸の陣で、渡しから佐吉が戻ってきた。佐吉は板切れを差し出した。そこには、渡しで配った握り飯の数と、渡った組の名が並んでいた。字はまだ拙かったが、一つも抜けていなかった。
「渡しでも、崩れた組はありませんでした」
佐吉はそう言ってから、少しためらうように付け加えた。
「それと……殿が、炊き場の前を通られました」
宗兵衛は顔を上げた。
「本陣の衆と一緒に、馬で。握り飯を待つ列の脇で、少しだけ馬を止められました。列の長さと、鍋の数と、荷車の方を順にご覧になっておりました。何も仰いませんでした。そのまま、舟の方へ行かれました」
「そうか」
「甚内様が、あとで言っておられました。殿は、何も仰らん時の方が、よく見ておられる、と」
宗兵衛は黙って頷き、佐吉の板切れの数を書付に写した。それから、新しい頁に一行だけ書いた。
退く時こそ、米。
三日後、軍勢は清洲に戻った。
宗兵衛が帳面を抱えて修理亮の屋敷へ上がると、修理亮は一通の書状を手にしていた。
「殿からじゃ」
修理亮は書状を畳み、宗兵衛を見た。
「此度の美濃攻めで、各組の荷駄が清洲を出た数と、陣に着いた数、そして消えた数。それを全部、帳面にして出せと仰せじゃ。どの組のものもな」
修理亮は少しだけ間を置いた。
「その帳面をまとめるのは、お主じゃ」
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、美濃から退く道の話でした。戦に勝てずに退く時こそ、兵糧が軍勢の命綱になります。腹を空かせた軍勢は、追われれば隊列が崩れ、川の手前で大きな損害を出しかねません。宗兵衛は、自分の組の米を全軍に分けることで、退き口を支えました。殿を務めた修理亮の組が美濃の兵を押し返せたのも、その日の朝の飯があったからです。戦国時代の撤退戦は、攻める時以上に難しいものとされています。また、柴田勝家はその勇猛さから「かかれ柴田」と呼ばれたと伝えられています。次回、宗兵衛は全軍の荷駄の帳面をまとめることになります。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




