第九十二話 上の瀬
十一日目の朝、雨が止んだ。
雲の切れ間から薄い日が差していた。宗兵衛は修理亮の許しを得て、佐吉と弥吉、平六、それに荷駄の若い者を五人連れて陣を出た。若い者の中には、彦助という十七の男がいた。荷駄に来てまだ半年ほどだが、縄の扱いが上手く、弥吉が目をかけている男だった。
上の瀬へ向かう前に、宗兵衛たちは美濃の岸の渡しに寄った。
川は茶色く濁り、渡しの舟着きは水の下に沈んでいた。対岸の尾張の岸には、三度目の荷の荷車が並んでいるのが小さく見えた。だが、声を張り上げても、川の音にかき消されて届かない。
宗兵衛は書付の頁を一枚破り、短く書いた。荷を川上の上の瀬へ移せ。美濃の岸で待つ。沢井宗兵衛。
それを渡しの番をしていた弓の上手い足軽に渡した。足軽は紙を矢に結びつけ、対岸の荷車の近くへ向けて射た。矢は川の上を弧を描いて飛び、尾張の岸の土手に突き立った。しばらくして、対岸で誰かが矢を拾い上げ、こちらに向かって大きく手を振った。
「届いたようじゃな」
弥吉が目を細めて言った。
上の瀬に着いたのは、昼を過ぎてからだった。
弥吉の言った通り、川はそこで大きく広がっていた。川幅は渡しの倍ほどある。その分、流れは浅く、ところどころに砂の州が顔を出し始めていた。だが、水の色はまだ濁っている。州と州の間を流れる水は速く、渦を巻いている所もあった。
「今日は無理じゃ」
弥吉は川面を見るなり言った。
「州が出始めたばかりじゃ。水が引ききるには、あと二日は要る」
その夕方、対岸に三度目の荷の荷車が着いた。荷車は十二台。俵が百を超える。尾張の岸に並んだ荷車を、宗兵衛は美濃の岸から数えた。
翌日、十二日目。水はさらに引いた。州が広がり、川の真ん中に浅瀬の筋が見えるようになった。だが、弥吉はまだ首を振った。
「明日まで待て。あの筋の向こう、色が少し濃い所がある。あそこが深い」
宗兵衛は頷き、その日は待った。
だが、夜になって、陣から使いが来た。使いは佐吉の顔見知りの足軽で、息を切らしていた。
「陣で、揉め事が起きております。三合の飯に腹を立てた者たちが、炊事場の米を勝手に持ち出そうとして、止めに入った者と殴り合いになりました。修理亮様が収められましたが、他の組の者たちの間でも、不満が広がっております」
宗兵衛は黙って聞いていた。
八日はもつ。帳面の上ではそうだった。だが、帳面に書いていないことが、もう起きていた。
使いは続けた。
「それと、今日の昼、美濃の兵がこの辺りを見回っておったという話もございます。荷車が川岸に並んでおるのを、向こうに見られたやもしれません」
宗兵衛は対岸の荷車を見た。暗闇の中で、焚き火の明かりがいくつか揺れている。十二台の荷車は、尾張の岸にいる限り、美濃の兵には手が出せない。だが、渡り始めれば、川の中ほどで荷車は止まる。そこを襲われれば、守りようがない。
夜明け前、宗兵衛は弥吉を起こした。
「今日、渡します」
弥吉は寝床から身を起こし、しばらく宗兵衛の顔を見ていた。
「わしは、明日まで待てと言うたはずじゃ」
「はい。でも、陣の米の揉め事が広がっています。それに、美濃の兵に荷車を見られたかもしれません。明日まで待てば、荷車が狙われるかもしれない」
「狙われるかもしれん、か」
弥吉は低く言った。
「川は、かもしれんでは動かんぞ。……だが、お主が決めることじゃ。お主が決めたなら、わしらは渡す」
宗兵衛は頷いた。決めたのは自分だった。
日が昇ると、宗兵衛は佐吉と平六に縄を持たせ、対岸へ渡らせた。浅瀬の筋を選び、膝の上まで水に浸かりながら、二人は川を渡りきった。尾張の岸と美濃の岸の間に、太い縄が二本張られた。荷車はこの縄に沿って、一台ずつ渡す。押す者と引く者が縄に掴まり、流されないように支える。
一台目は、無事に渡った。二台目も、三台目も渡った。荷車の車輪は砂の州に取られながらも、少しずつ美濃の岸へ近づいてきた。
七台目が川の真ん中に差しかかった時だった。
荷車の右の車輪が、浅瀬の筋から外れた。そこは、弥吉が色が濃いと言った場所だった。車輪が沈み、荷車が大きく傾いた。積んでいた俵が崩れ、川の中へ落ちていく。荷車を押していた者たちが叫び声を上げた。
荷車の脇で縄を握っていた彦助が、崩れた俵を押さえようと手を伸ばした。
その時、足元の砂が流れた。
彦助の体が、川の中へ引き込まれた。縄を掴もうとした手が空を切り、茶色い水が彦助を呑み込んだ。
「彦助!」
平六が縄を離さずに手を伸ばした。だが、届かなかった。彦助の頭が一度だけ水面に浮かび、それから下流へと流されていった。
宗兵衛は岸を走った。佐吉が後を追ってくる。下流の州の端まで走り、川面を見渡した。茶色い水が、何事もなかったように流れていた。
彦助の姿は、どこにもなかった。
残りの荷車は、弥吉が指図して、浅瀬の筋を外れないように一台ずつ渡した。七台目の荷車は川の中に残された。落ちた俵のうち、拾えたのは半分ほどだった。
昼過ぎ、荷車十一台が美濃の岸に揃った。
彦助が見つかったのは、夕方だった。半里ほど下流の、川が曲がる所の葦の中に、引っかかっていた。弥吉が自分で川に入り、彦助を岸まで引き上げた。
弥吉は彦助の顔の泥を袖で拭い、しばらく黙っていた。それから、宗兵衛の方を見ずに言った。
「あの色の濃い所は、明日にはもっと浅くなっておった」
宗兵衛は何も言えなかった。
荷が陣に着いたのは、十四日目の朝だった。
修理亮は荷車の列を見て、それから荷車の数を数えた。十一台。修理亮は宗兵衛を陣小屋に呼んだ。
宗兵衛は、ありのままを話した。上の瀬のこと。弥吉が明日まで待てと言ったこと。陣の揉め事と美濃の兵の見回りを聞いて、自分が渡ると決めたこと。七台目が深みに嵌まり、彦助が流されたこと。
修理亮は最後まで黙って聞いていた。
「待っておれば、彦助は死ななんだか」
「……分かりません。待っておれば、荷車が襲われたかもしれません。陣の揉め事が、もっと大きくなったかもしれません」
宗兵衛は顔を上げた。
「ですが、弥吉さんは待てと言いました。川を一番よく知っている者が待てと言ったのを、俺は聞きませんでした。それは、俺が決めたことです」
修理亮はしばらく宗兵衛を見ていた。
「慰めは言わん」
修理亮は静かに言った。
「荷は届いた。だが、一人死んだ。そのどちらも、お主が決めたことの結果じゃ。片方だけを背負うことはできん。両方背負え」
「……はい」
その夜、宗兵衛は書付を開き、新しい頁に書いた。
彦助。荷駄の者。十七。上の瀬で流される。
その下に、もう一行書き足した。
渡れと決めたのは、俺。
翌朝、本陣から使いが来た。使いは修理亮の陣小屋に入り、短く告げた。
「殿の仰せでございます。全軍、尾張へ退く」
宗兵衛は陣小屋の外で、その声を聞いた。
荷は届いた。修理亮の組の米は、あと十日はもつ。だが、他の組の陣には、荷が届いていなかった。三度目の荷を待っていたのは、修理亮の組だけではなかった。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、宗兵衛が自分の判断で一人の荷駄の者を死なせてしまう回でした。宗兵衛には渡ると決めた理由がありました。陣の揉め事、美濃の兵の目、そして減っていく米。それでも、川を一番よく知る弥吉の言葉を退けたのは宗兵衛自身です。修理亮は慰めを言わず、荷が届いたことと一人が死んだことの両方を背負えと告げました。人を預かる者は、うまくいった結果だけを自分のものにすることはできません。作中の彦助は創作の人物です。彼の名前は、宗兵衛の書付に「名の残らない者」の一人として残ります。そして次回、織田の軍勢は美濃から退くことになります。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




