第九十一話 春の雨
美濃に入って三日目から、小競り合いが始まった。
織田の軍勢が稲葉山へ向かう道を進むと、林の陰や川の土手から、美濃の兵が矢を射かけてくる。追えば逃げ、止まればまた出てくる。大きな戦にはならない。だが、そのたびに隊列が止まり、一日で進めるはずの道が半日分しか進めなかった。
隊列が止まれば、荷駄も止まる。荷駄が止まれば、米の減り方だけが変わらずに続く。
宗兵衛は毎晩、陣の米を数えた。佐吉が俵の数を板切れに書き、宗兵衛がそれを書付に移す。一日に減る数は、清洲で見積もった通りだった。違うのは、進んだ道の長さだけだった。
四日目の夜、陣の外れで騒ぎが起きた。
荷駄の車を止めていた辺りに、美濃の兵が数人忍び寄り、火矢を射かけてきたのだ。見張りに立っていた平六がすぐに声を上げ、荷駄の者たちが桶の水を浴びせて火を消した。焼けたのは荷車一台と、俵が三つだけだった。
宗兵衛が駆けつけると、平六は焦げた縄を手に、息を荒くしていた。
「申し訳ござらん。三つ、やられました」
「三つで済んだのは、平六さんが声を上げてくれたからです」
宗兵衛はそう言って、焦げた俵を確かめた。中の米は半分ほど黒くなっていた。
「美濃の者は、兵より先に米を狙ってきておるのう」
いつの間にか弥吉が隣に立っていた。弥吉は焼けた荷車の車輪を蹴り、まだ使えるかどうかを見ていた。
「村を空にして、こっちの米を焼く。戦で勝てずとも、腹を減らさせれば勝てると思うておるのじゃろう」
宗兵衛は黙って頷いた。翌日から、荷駄の見張りを倍にした。その分、昼に荷を担ぐ手が減った。
六日目の昼、二度目の荷が陣に着いた。
清洲から三日早く出させた荷だった。荷車を引いてきた者たちは、泥にまみれた顔で笑っていた。宗兵衛が数を確かめると、清洲を出た時の数と、陣に着いた数は、二俵しか違っていなかった。油紙を被せた俵は、どれも乾いていた。
甚内が荷車の列を見ながら、ぼそりと言った。
「三日早めておらねば、今ごろ陣の米は底をついておったな」
「清洲の米蔵の割り振りは、狂いました」
「狂った分は帰ってから書き直すと言うたのは、お主じゃ。忘れるでないぞ」
甚内はそう言って、小さく鼻を鳴らした。
八日目の明け方、雨が降り始めた。
最初は霧のような細い雨だった。だが、昼を過ぎる頃には本降りになり、夕方には陣の地面がぬかるみに変わっていた。兵たちは陣小屋の下に身を寄せ、槍の穂先から雨粒が滴っていた。
宗兵衛は陣の米を置いている場所へ走った。
清洲から運んできた俵は、陣の真ん中の、少し高くなった場所に積んである。上には筵を被せていた。だが、雨は筵を通して染み込み、下からはぬかるんだ地面の水が俵の底を濡らし始めていた。油紙を被せていたのは、雨の多い道を通る荷だけだった。陣に着いた後のことまでは、考えていなかった。
「佐吉。空き家を回って、板戸と床板を集めてきてくれ。荷駄の手が空いている者は、全員だ」
佐吉は頷いて駆け出していった。
陣の周りの村は、どれも空だった。人も米もない。だが、家は残っていた。荷駄の者たちが空き家から板戸を外し、床板を剥がして運んでくる。宗兵衛はそれを地面に並べさせ、その上に石を置いて高さを作り、俵を一つずつ積み直していった。
平六が泥まみれになって俵を担ぎながら言った。
「美濃の者が空けていった家が、美濃攻めの米を守るとはのう」
「借りたものは、帰る時に戻しておきましょう」
宗兵衛がそう言うと、平六は呆れたように笑った。
「戦に来て、空き家の戸の心配をするのは、宗兵衛様くらいじゃ」
夜半までかかって、俵はすべて板の上に積み直された。宗兵衛は灯の下で俵を一つずつ開け、濡れた米を確かめた。底の方が湿った俵が十。中まで濡れてしまったものが三つ。湿った分は先に炊いて食べさせ、濡れたものは干して粥にするよう、炊事の者に伝えた。
雨は、翌日も止まなかった。
十日目の朝、木曽川の渡しから使いが来た。使いの男は全身ずぶ濡れで、陣に着くなり膝をついた。
「川の水が、昨日から増え続けております。渡しの舟は、もう出せません。清洲から来た三度目の荷は、尾張の岸で止まっております」
宗兵衛は書付を開き、陣に残っている米の数を見た。
板の上に積み直した俵。干している濡れた米。昨夜までの減り方。
修理亮の陣小屋に呼ばれたのは、その日の昼前だった。修理亮は甚内と共に、絵図を広げて待っていた。
「宗兵衛。陣の米は、何日もつ」
「今のまま食べれば、五日です」
「減らせば」
「一日五合を三合にすれば、八日。二合にすれば、十二日です」
修理亮は黙って絵図を見ていた。陣小屋の屋根を叩く雨の音だけが響いていた。
「本陣からは、退くなと仰せじゃ」
修理亮が言った。
「美濃の者は、こちらが米に困っておることを知っておる。ここで退けば、美濃の者は勝ったと言いふらす。来年の戦が、それだけ苦しくなる。……だが、二合で槍は振れん」
修理亮は顔を上げ、宗兵衛を見た。
「三合にする。それで八日。その八日のうちに、川の向こうの荷をこちらへ渡す手を探せ」
「はっ」
その日の夕餉から、米は三合になった。
炊事場の前に並んだ足軽たちの間から、不満の声が上がった。昨日までより明らかに少ない椀の中身を見て、一人が声を荒らげた。
「戦の最中に飯を減らすとは、どういうことじゃ。荷駄は何をしておる」
炊事の者が困った顔で宗兵衛の方を見た。宗兵衛は列の後ろに並び、自分の椀を差し出した。中身は、足軽たちと同じ三合だった。
「荷は川の向こうで止まっております。川が引けば、必ず届けます。それまでは、俺も同じだけしか食いません」
声を荒らげた足軽は、宗兵衛の椀を覗き込み、それから黙って自分の椀に目を落とした。佐吉も宗兵衛の後ろに並び、同じ三合を受け取った。誰も、それ以上は何も言わなかった。
雨の中で冷えていく飯を食べながら、宗兵衛は考えていた。三合で八日。その数は、帳面の上では正しい。だが、腹を空かせた三百の兵が八日間黙っていてくれるかどうかは、帳面には書いていない。
夕餉の後、雨はさらに強くなっていた。宗兵衛は荷駄の陣へ戻り、弥吉を探した。弥吉は荷車の下に潜り込み、車軸の泥を掻き出していた。
「弥吉さん。木曽川で、今の渡しのほかに、荷を渡せる所はありませんか」
弥吉は荷車の下から這い出し、雨に濡れた顔を袖で拭った。それからしばらく、黙って考えていた。
「……上の瀬なら、あるいはな」
「上の瀬」
「渡しから半日ほど川上に、川が浅く広がっておる所がある。普段は舟で渡るより遠回りになるで、誰も使わん。だが、あそこは川幅が広い分、水が引くのも早い。わしが若い頃、大水の後に一度だけ、あそこを荷車で渡ったことがある」
「何日で引きますか」
「雨が止んでから、二日か三日じゃろう。……だが、宗兵衛。あそこは流れが読みにくい。浅いと思うて踏み込んだら、急に深くなる所がある。わしも、あの時は一人流されかけた」
宗兵衛は絵図を広げ、弥吉の言う場所を探した。木曽川の流れが、半日分ほど川上で大きく膨らんでいる。渡しからは遠い。だが、そこから陣までの道は、渡しを使うよりわずかに短かった。
宗兵衛は空を見上げた。雨は、まだ止む気配がなかった。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、美濃の陣で兵糧を守る回でした。戦の大きな勝ち負けの陰で、宗兵衛たちは火矢から荷を守り、雨から俵を守り、そして増水した川に阻まれた荷をどう陣へ届けるかに頭を悩ませています。戦国時代の戦では、兵糧が尽きれば兵は戦えません。だからこそ、敵の兵糧を狙うことも、味方の兵糧を守ることも、立派な戦いの一つでした。修理亮は、退くなという本陣の命令と、兵の腹の具合の間で、一日三合という答えを出しています。なお、作中の「上の瀬」は物語上の創作の場所です。次回、宗兵衛は弥吉の言う上の瀬へ向かいます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




