第九十話 遠い道
二月の終わり、平六が荷駄置き場に戻ってきた。
ひと月の謹慎の間に、頬が少しこけていた。だが、荷車の前に立つと、平六はすぐに縄の締め具合を確かめ始めた。若い荷駄の者たちが手を止めて見ている。平六は顔も上げずに言った。
「何を見ておる。春には美濃へ出るのじゃ。手を動かせ」
弥吉が隣で笑った。
「戻ってきて最初の言葉がそれか。ひと月寝ておって、口だけは元気になったのう」
「寝てはおらん。女房に薪を割らされておった」
荷駄置き場に笑いが起きた。宗兵衛は少し離れたところでそれを見ていた。平六の謹慎は、宗兵衛の割り振りのしくじりから始まったことでもある。平六が笑って戻ってきたことに、宗兵衛は胸の奥で小さく息を吐いた。
その日の午後、宗兵衛は甚内と共に修理亮の屋敷へ上がった。書き直した兵糧の見積もりを持っていくためだった。
東の砦から浮いた米。川沿いの村から先送りにした年貢の穴。大きな村の年貢。陣夫の分。荷駄の目減りを抑えた分。すべてを足し引きした数が、帳面の最後の頁に並んでいた。
修理亮は数を目で追い、頷いた。
「わしの組だけで、三百を二十日動かせるか」
「動かせます。ただ」
宗兵衛は帳面の別の頁を開いた。
「米が足りるかどうかと、米が届くかどうかは、別のことです」
修理亮が顔を上げた。
宗兵衛は書付に描いた絵図を広げた。清洲から北へ向かう道。木曽川。その先の美濃の村々。そして、稲葉山へ向かう道。
「清洲から木曽川の渡しまで、荷車で丸一日かかります。川を渡すのに半日。渡ってから陣までさらに一日。帰りも同じだけかかります。一台の荷車が清洲と陣を一度行き来するのに、五日はかかる勘定です」
甚内が横から口を挟んだ。
「それは分かっておる。去年までもそうじゃった」
「はい。去年までは、戦の日数が短かったので、それで足りておりました。ですが、二十日戦うなら、荷車は陣と清洲の間を四度行き来しなければなりません。そのうちの一度でも、雨で川が渡れなければ、陣の米が切れます」
宗兵衛は絵図の木曽川を指でなぞった。
「米は、清洲にはあります。陣にないだけです。道が長すぎるのです」
部屋が静かになった。
宗兵衛は、その先の言葉を飲み込んだ。
道が長いなら、道を短くすればいい。米を置く場所を、美濃に近づければいい。そして宗兵衛は、それがいずれ形になることを知っていた。来年、信長は清洲を離れ、北の小牧山に城を移す。
だが、それを口にすることはできなかった。城を移すなど、与力が言い出すことではない。それに、知っている先の話を持ち出せば、それはもう勘定ではなくなる。
宗兵衛にできるのは、数を並べることだけだった。
修理亮はしばらく絵図を見つめていたが、やがて静かに言った。
「そのことは、殿もご存じじゃ」
宗兵衛は顔を上げた。
「殿は、美濃へ出るたびに、帰りの道で川を見ておられる。何も仰らん。だが、見ておられるのは川ではない。川の向こうと、こちらとの間の、長い道じゃ」
修理亮はそれ以上は言わず、帳面を閉じた。
「お主の勘定は分かった。だが、今は今の道で戦うしかない。二十日を四度の行き来で支えよ。雨が降った時の手も考えておけ」
「はっ」
屋敷を出ると、甚内が並んで歩きながら言った。
「お主、何か言いかけてやめたな」
「……いえ」
「顔に出ておる。修理亮様もお気づきであったろう」
甚内は前を向いたまま続けた。
「言わなかったのは、正しい。何を言いかけたのかは知らんが、与力が言うてよいことと、言うてはならんことがある。お主はそれを、分かっておるようじゃ」
宗兵衛は答えなかった。甚内の言う通りだった。だが、言わずにいることの重さは、少しも軽くならなかった。
三月の初め、織田の軍勢は清洲を発った。
宗兵衛は修理亮の組の荷駄と共に、隊列の後ろを歩いた。佐吉が隣にいる。荷車の列の中ほどには、平六と弥吉の姿もあった。俵には、雨の多い道を行く分だけ油紙が被せてある。
木曽川の渡しに着いたのは、翌日の昼過ぎだった。川幅は広く、流れは速い。対岸の美濃の岸が、春霞の向こうにぼんやりと見えていた。舟の数は限られている。兵が先に渡り、荷駄はその後になる。宗兵衛は荷車の順番を割り振りながら、何度も空を見上げた。雲は薄い。今日は降らないだろう。
渡しの岸の少し上手に、馬上の一団がいた。
宗兵衛は、その先頭の男が誰なのか、遠目にも分かった。信長だった。
信長は馬を止めたまま、川を見ていた。供の者たちが何か話しかけているが、信長は答えない。ただ、流れの速さを確かめるように、川面に目を落としている。それから、ゆっくりと顔を上げ、対岸のさらに先を見た。美濃の山々が、霞の中に連なっていた。
その中に、ひときわ高い山があった。稲葉山だった。
信長の供の中に、見覚えのある顔があった。佐脇藤八だった。藤八は宗兵衛に気づいたのか、ほんの一瞬だけこちらに目を向けた。だが、すぐに信長の方へ顔を戻した。
宗兵衛は、修理亮の言葉を思い出していた。殿が見ておられるのは川ではない。川の向こうと、こちらとの間の、長い道じゃ。
「宗兵衛、川が多いのう」
背後から声がした。振り返ると、藤吉郎が荷車の脇に立っていた。藤吉郎も、どこかの組の荷を預かっているらしい。
「美濃へ行くには、川を三つも四つも越えねばならん。越えるたびに荷が遅れる。……わしは、川が嫌いじゃ」
藤吉郎はそう言って笑い、それから声を落とした。
「殿も、同じことを考えておられる顔じゃな」
宗兵衛は何も言わなかった。藤吉郎もそれ以上は聞かず、自分の荷車の方へ戻っていった。
荷駄が対岸に渡り終えたのは、日が傾いてからだった。その夜は、美濃の岸の近くで陣を張った。
宗兵衛は、陣の近くの村へ佐吉を走らせた。去年までの戦では、荷駄の米が届くまでの間、近くの村から米を買い入れることがあった。今度も、少しでも買えれば、荷車の行き来が一度減る。
半刻ほどして、佐吉が戻ってきた。顔が強張っていた。
「宗兵衛様。村には、誰もおりません」
「誰も、か」
「家はあります。ですが、人がいません。米びつも、納屋も、空でした。種籾まで持ち出されています。……井戸の中に、何かが投げ込まれておりました」
宗兵衛は絵図に目を落とした。陣の周りの村は、一つ二つではない。
その夜のうちに、他の組の者たちからも同じ知らせが届いた。どの村も空だった。米も、人も、家畜もいない。美濃の者たちは、織田が来る前に、すべてを持ち去っていた。
宗兵衛は書付を開き、陣の周りの村の名を一つずつ書いた。その横に、空、と書き添えていく。
陣の米は、清洲から運ぶしかなかった。あの長い道を、四度。
宗兵衛は筆を置き、甚内の陣小屋へ向かった。甚内はまだ起きていた。
「二度目の荷を、清洲から早めに出させたいのです。今夜のうちに使いを走らせれば、三日早く着きます」
「三日早めれば、清洲の米蔵の割り振りが狂うぞ」
「狂います。ですが、陣の米が切れるよりはましです。狂った分は、帰ってから俺が書き直します」
甚内はしばらく宗兵衛の顔を見ていたが、やがて若い足軽を呼んだ。
「清洲へ走れ。夜道じゃ、気をつけよ」
足軽が闇の中へ駆け出していく。宗兵衛はその背中を見送りながら、木曽川の方角を見た。今は晴れている。だが、春の川は、いつ機嫌を変えるか分からなかった。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回から、第四章の後半にあたる美濃攻めの話が始まりました。三河との盟約で東の憂いがなくなり、織田は美濃に集中できるようになります。ですが、清洲から美濃へは木曽川を越える長い道があり、兵や米を運ぶだけでも大きな手間がかかりました。宗兵衛は、この先に信長が小牧山へ城を移すことを知っています。それでも、それを口にすることはできません。宗兵衛にできるのは、道の長さを数として示すことだけでした。なお、美濃方が村を空にして織田方の兵糧の調達を妨げたという描写は、物語上の創作です。次回、空の村を前に、宗兵衛の勘定が試されます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




