第八十九話 東を結ぶ
熱田までの道は、霜が溶けるにつれてぬかるみ始めた。
宗兵衛は一行の先頭を歩きながら、佐吉が板切れに書いてきた道の様子を一つずつ確かめていった。轍の深い場所。水の溜まりやすい窪み。荷車がすれ違えない細い橋。どれも書いてある通りだった。馬に水をやる場所では、弥吉たちが先回りして桶を並べていた。
一度目の休みの時、杉浦の弟が宗兵衛のそばへ来た。一行の殿を歩いていたはずの男だった。
「沢井殿。一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「あの男に伝えてくれぬか。西の門に立たされておる、あの男に」
杉浦の弟は、少しの間だけ言葉を探した。
「又兵衛という名は、わしも覚えておく、と。三河へ帰っても、兄の名と並べて覚えておく、と」
宗兵衛は頷いた。
「必ず伝えます。……お名前を、伺ってもよろしいですか」
杉浦の弟は、虚を突かれたような顔をした。兄の名は名乗っても、自分の名は名乗っていなかったことに、今気づいたらしい。
「杉浦藤十郎じゃ」
宗兵衛は書付を開き、杉浦弥七郎の名の隣に、弟、藤十郎、と書き足した。藤十郎はそれを横から覗き込み、何も言わずに列へ戻っていった。
昼前、一行は熱田に着いた。
市の立つ辻は、思った通り静かだった。市は昨日終わっている。宗兵衛は念のため道を分ける割り振りも用意していたが、使わずに済んだ。
熱田の社の鳥居の前で、一行は馬を降りた。元康とわずかな供だけが境内へ入っていく。宗兵衛たちは鳥居の外で待った。
鎮守の森が、冬の空を遮っていた。宗兵衛は、二年近く前の朝を思い出していた。この鳥居の前で、自分は槍を握って立っていた。境内から出てきた信長が舞い、軍勢が桶狭間へ向かった。あの朝、自分はまだ名字も持たない足軽だった。
今、同じ鳥居の前に立っている。三河の殿の参詣の、道案内として。
しばらくして、元康が境内から出てきた。参詣の前と後で、顔つきは何も変わっていなかった。だが、元康は馬に乗る前に、町の方を一度だけ振り返った。
数正が宗兵衛の方を見た。宗兵衛は小さく頷き、一行の先に立った。社から町を抜けて東へ向かう道は、加藤の屋敷の前を通る。わざわざ回り道をするのではない。三河へ帰る道筋の上に、その屋敷があるだけだった。宗兵衛は、そう割り振っておいた。
屋敷の前に差しかかった時、元康が馬の足を緩めた。
止まりはしなかった。門の前を、ゆっくりと通り過ぎていく。元康の目は、門の脇の、何もない地面に向けられていた。
ちょうどその時、後ろから荷車の音が近づいてきた。弥吉たちの荷駄だった。休みの場で使った桶と飼い葉を積んで、一行の脇をすり抜けていく。一台、二台、三台、四台。
元康は荷車を目で追っていた。そして、隣を歩く数正に、何かを短く言った。宗兵衛のいる先頭までは、はっきりとは聞こえなかった。だが、数正の答える声だけは届いた。
「はい。四台でございます」
元康はそれきり何も言わず、前を向いた。
宗兵衛は前を向いたまま歩き続けた。弥吉の話を思い出していた。門の脇に座り、通る荷車を数えていた子。帰る時に何台要るか、数えている。
あの子は、今日、帰っていく。
熱田の町外れ、鳴海へ向かう道の手前で、宗兵衛の役目は終わった。ここから先は、三河の衆だけで進む。
数正が一行から離れ、宗兵衛の前に立った。
「ここまでで十分じゃ。……世話になった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「礼を言われることはしておらん」
数正はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「沢井殿。この盟約が、いつまで続くかは誰にも分からん。三河の家中にも、まだ織田を信じておらん者は多い。わしもその一人じゃった」
「はい」
「だが、もし続くなら、それは殿と殿が交わした盃だけで続くのではない。宿の膳や、厩の藁や、嘘をつかなかった与力のような、細かいものが積み重なって続くのじゃろう。……わしは、そう思うことにした」
数正は軽く頭を下げ、一行の方へ戻っていった。
宗兵衛は道の端に立ち、遠ざかっていく一行を見送った。最後尾で、藤十郎が一度だけ振り返った。それから、一行は鳴海の方へ消えていった。
清洲に戻ったのは、日が暮れてからだった。
宗兵衛はその足で修理亮の屋敷へ上がり、道中のことを順に伝えた。熱田の社への参詣のこと。加藤の屋敷の前で、元康が足を緩めたこと。数正の別れの言葉のこと。荷車の数のことだけは、言わなかった。それは元康の思い出であって、宗兵衛が報告することではないと思った。言う相手を選ぶ。今度は、誰にも言わないことを選んだ。
修理亮は黙って聞き終えると、帳面を一冊、宗兵衛の前に置いた。秋に宗兵衛と甚内が出した、春の兵糧の見積もりだった。
「東は片付いた」
修理亮は言った。
「三河の境に置いておった兵は、春までに引き上げる。東の砦へ運んでおった米も、もう要らん。……甚内から聞いた。お主が三河の噂の時に言うておった勘定じゃな。それが、本当の数になった」
宗兵衛は帳面を手に取った。川沿いの村の年貢を先送りにした穴。大きな村の年貢。荷駄の目減り。陣夫。そこに、東の砦の兵糧が加わる。
「この数で、見積もりを書き直せ。春に、美濃へ出る」
「はっ」
「今度の美濃は、去年までとは違う。後ろを気にせずに、美濃だけを見て戦える。……そのぶん、しくじった時の言い訳もできん」
修理亮の声は静かだった。だが、その目はもう、清洲の北を見ていた。
翌朝、宗兵衛は平六の住む長屋を訪ねた。三河の衆が帰り、平六の謹慎が始まったばかりだった。戸口に出てきた平六は、少しやつれた顔をしていた。
宗兵衛は藤十郎の言葉を伝えた。又兵衛の名は覚えておく。兄の名と並べて覚えておく。
平六は戸口に立ったまま、しばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……三河の者に、又兵衛の名を覚えられるとはな」
平六は笑おうとして、うまく笑えなかったようだった。
「ひと月、ここで大人しくしておる。それが済んだら、また荷を回させてくだされ。美濃へ出るなら、荷駄の手は一人でも多い方がよかろう」
「お願いします」
宗兵衛は頭を下げ、長屋を後にした。
その夜、宗兵衛は書付を開いた。三河の衆が来てからの頁を、初めから読み返していく。石川数正。松平元康。杉浦弥七郎と、又兵衛。藤十郎。どれも、ひと月前には書付になかった名だった。その中に一行だけ、名の書かれていない行があった。熱田、加藤の屋敷の前、荷車四台。修理亮には言わなかったが、書付には書いておいた。見たことを、なかったことにはしない。ただ、誰に見せるかは選ぶ。
宗兵衛は新しい頁を開き、一番上に書いた。
東、結ぶ。次は北。
それから、頁の端に、いつもの一行を書き足した。
天正十年まで、あと二十年。
去年の秋に書いた時は、二十一年だった。年が明けて、数が一つ減った。あの秋からまだ四月ほどしか経っていない。その間に、家来と暮らし、村の勘定をし、盟約の裏方を務めた。支度は、少しずつ進んでいる。だが、宗兵衛の知る限り、美濃はこの先、何年も織田の前に立ち塞がる。
灯を消すと、外では冬の風が鳴っていた。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回で、三河の松平との盟約をめぐる話が一区切りとなりました。宗兵衛は表に立つことはありませんでしたが、宿の割り振り、飯や馬の支度、そして自分のしくじりへの向き合い方を通して、盟約の裏方を務めました。石川数正の「細かいものが積み重なって続く」という言葉は、この盟約編の締めくくりとして描いたものです。織田と松平の盟約は、この後、信長が亡くなるまで続いたとされています。また、作中の杉浦藤十郎は創作の人物です。次回からは、後ろを気にせずに戦えるようになった織田が、美濃に挑みます。ですが、美濃の壁は思った以上に厚いものでした。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




