第八十八話 熱田への道
宗兵衛は、少しの間だけ考えた。
隠して寄れば、疑いを招く。かといって、昔の人質の頃の話を表に出せば、織田の家中には、恨みを掘り返しに来たと受け取る者もいるだろう。どちらを選んでも、どこかに無理が出る。
だが、昨夜からずっと考えていたことがあった。嘘をつかないことと、何でも口にすることは違う。
「隠さずに、表から申し出るのがよいと思います」
数正の眉がわずかに動いた。
「ただし、熱田の社へ参詣したい、という申し出にします」
「参詣、か」
「熱田は、清洲から三河へ帰る道筋にあります。社は尾張で一番の宮で、桶狭間の朝、信長様が戦勝を祈られた社でもあります。三河の殿が、盟約の帰りにその社へ参られる。それを咎める者は、織田の家中にはおりません」
数正は黙って宗兵衛を見ていた。
「それは、表向きの理由を作れということか」
「表向きではありません」
宗兵衛は首を振った。
「本当に参詣していただければ、嘘にはなりません。その道すがら、町を通られる。どの家の前を通り、どこで足を止められるかは、殿がお決めになることです」
「昔の宿のことは、誰にも言わぬと申すか」
「いいえ。俺から、修理亮様にだけ申し上げます。案内の割り振りをするのは修理亮様の組です。知らずに割り振れば、またしくじります」
宗兵衛は昨夜の東の門のことを思い出していた。
「隠すのではありません。言う相手を選ぶだけです」
数正はしばらく黙っていたが、やがて後ろに控える杉浦の弟を振り返った。若い侍は、昨夜と同じ硬い顔で宗兵衛を見ていた。
「聞いたか」
「……はい」
「清洲の与力は、嘘をつかずに話を通す道を探しておる。わしらが道中で話しておったような家ではないらしい」
数正はそう言って、宗兵衛に向き直った。
「その段取りで頼む。殿には、わしから申し上げておく」
その日のうちに、宗兵衛は修理亮の屋敷へ上がった。
修理亮は話を聞き終えると、腕を組んだまま、しばらく天井の梁を見上げていた。
「熱田の、加藤の屋敷か」
「ご存じでしたか」
「竹千代殿が人質として置かれておった家じゃ。わしも若い頃に一度、門の前を通ったことがある」
修理亮は宗兵衛に目を戻した。
「参詣の申し出は、わしから殿に上げる。お主の段取りの通りにな。昔の家のことも、わしの口から申し上げておく」
「殿にも、でございますか」
「熱田は殿の土地じゃ。殿の知らぬところで、三河の殿が昔の家の前に立つ。それは、殿に対して隠し事をすることになる」
宗兵衛は頭を下げた。言う相手を選ぶ。その相手の中に、信長が入るのは当然だった。修理亮の方が、一つ先まで見ていた。
二日後、修理亮から返事が届いた。
使いの者が伝えたのは、短い言葉だけだった。
「熱田は織田の地じゃ。見せて困る町ではない。参詣の道筋は、修理亮の組が受け持て」
それだけだった。褒める言葉も、咎める言葉もない。だが、宗兵衛にはその短さが、信長らしく思えた。好きにさせる。ただし、案内は織田の者がつける。それで、三河の殿にも、織田の家中にも、筋は通る。
宗兵衛はすぐに支度にかかった。
清洲から熱田までの道筋を書付に描き、どこで休み、どこで馬に水をやるかを割り振っていく。今度は門の向きだけではない。道の両側に何があるか。どこから一行が見えるか。人が集まりそうな辻はどこか。佐吉が先に熱田まで歩き、道の様子を板切れに書いて戻ってきた。
「熱田の町の入り口に、大きな市が立つ辻があります。三河の衆が通る日が市の日だと、人が溢れます」
「市の日は」
「四日後です」
宗兵衛は暦を見た。三河の一行が清洲を発つのは、五日後の予定だった。
「一日ずれていてよかった。だが、念のため、辻の手前で道を分ける割り振りも書いておく」
荷駄置き場では、弥吉が道中の荷を支度していた。熱田までの行き帰りで使う飼い葉と、休みの場で出す湯茶の道具だった。
「宗兵衛。三河の殿が熱田に寄られるそうじゃな」
「どこで聞いたんですか」
「荷駄の者の耳は長いと言うたであろう」
弥吉は笑ってから、荷車の縄を締めた。
「わしの若い頃、熱田の加藤様の屋敷の前を、荷を運んで何度も通った。門の脇に、小さな子が一人、よく座っておった。あれが三河の殿だったと聞いたのは、ずっと後のことじゃ」
宗兵衛は手を止めた。
「どんな子でしたか」
「どんな子、か」
弥吉は少し考えた。
「通る荷車を、じっと数えておった。何台通ったか、何を積んでおったか。わしが一度、何をしておると聞いたら、帰る時に何台要るか数えておる、と言うた。……変わった子じゃと思うた」
宗兵衛は書付を開き、松平元康の名の下に、一行書き足した。幼い頃、熱田で荷車を数えていた人。それから、その下に小さく、弥吉さんの話、と書き添えた。自分で見たことではない。だから、誰から聞いたかを書いておかなければならなかった。
その翌日の昼過ぎ、城の方から太鼓の音が響いた。
宗兵衛は寺の庫裏で、出立の日の膳の数を数えていた。手を止めて耳を澄ますと、太鼓はゆっくりと三度鳴り、それきり止んだ。
しばらくして、甚内が庫裏に入ってきた。甚内は戸口に立ったまま、宗兵衛を見た。
「成った」
それだけ言って、甚内は小さく息を吐いた。
「殿と三河の殿が、城の広間で盃を交わされたそうじゃ。わしは門の外に控えておっただけで、中のことは知らん。……だが、出てこられた三河の殿の顔は、来た時と同じじゃった。何も変わらん顔をしておられた」
「甚内殿は、まだ気に入りませんか」
宗兵衛が聞くと、甚内は鼻を鳴らした。
「気に入らん。一枚の書状で味方になった者は、一枚の書状で敵に戻る。その考えは変わらん」
甚内はそこで言葉を切り、庫裏の中を見回した。並べられた膳。積まれた米俵。新しい藁の匂い。
「だが、この盟約がもし長く続くなら、それはこういう所から始まったのであろうな。……わしは、それを見ておった者の一人ということになる」
宗兵衛は何も言わなかった。この盟約が二十年続くことを、宗兵衛は知っている。だが、それは書付には書かない。書くのは、今日、太鼓が三度鳴ったことと、甚内がそう言ったことだけだ。
出立の朝は、薄く霜が降りていた。
寺の門の前に、三河の一行が並んだ。宗兵衛は修理亮の組の者たちと共に、一行の前に立った。熱田までの道案内は、宗兵衛の役目だった。
一行の中ほどで、元康が馬に乗ろうとしていた。その手前で、石川数正が宗兵衛の方へ歩み寄ってきた。
「沢井殿。殿からの言伝じゃ」
宗兵衛は頭を下げた。
「宿の膳は温かかった、と。それだけ伝えよと仰せじゃ」
数正は口元をわずかに緩め、一行の方へ戻っていった。宗兵衛が顔を上げると、馬上の元康と、一瞬だけ目が合った。元康は何も言わなかった。小さく顎を引いただけで、すぐに前を向いた。
「出立じゃ」
数正の声が響き、一行が動き出した。宗兵衛は先頭に立ち、熱田へ向かう道を歩き始めた。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、三河の一行の熱田への立ち寄りをめぐる段取りと、盟約が成る日の話でした。宗兵衛は、隠すことも、何でも口にすることもせず、言う相手を選んで話を通す道を探しています。そして修理亮は、その相手の中に信長を入れることを忘れませんでした。松平元康、幼名竹千代は、幼い頃に織田家の人質となり、熱田の加藤順盛の屋敷に置かれていたと伝えられています。作中で弥吉が語る幼い竹千代の姿は物語上の創作です。また、清洲での盟約の場面は諸説があるため、宗兵衛は広間の外にいて、太鼓の音だけを聞く形にしました。次回、一行は熱田へ向かいます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




