第八十七話 嘘をつかない者
宗兵衛は、すぐには答えなかった。
数正の目は笑っていなかった。昨夜の若い侍は「見なかった」と言った。その言葉を守るなら、ここで知らないと答えればいい。だが、数正は若い侍の顔を見て、何かがあったと分かっている。知らないと言えば、数正は宗兵衛を嘘をつく者として覚えるだろう。
「昨夜、清洲の者が一人、持ち場を離れて寺の裏まで来ておりました」
宗兵衛は言った。
「刀も槍も持っておりませんでした。その者の従兄弟は、丸根の砦で討たれております。三河の殿がどんなお方か、一目見たかったのだと思います。見回りのお侍に見哎められましたが、何も起きずに済みました」
数正は黙って聞いていた。
「そのお侍が見なかったと仰ったのは、そのお侍のお情けです。咎めるなら、持ち場を割り振った俺を咎めてください。この者を寺に一番近い門に立たせたのは、俺のしくじりでした」
しばらく、数正は何も言わなかった。それから、庫裏の柱に背を預けた。
「見回りに出ておったのは、杉浦の弟であろう。あれの兄は、丸根で死んだ」
宗兵衛は答えなかった。数正は小さく息を吐いた。
「あれは、清洲に来るのを最後まで嫌がっておった。わしが無理に連れてきたのじゃ。……それが今朝は、何も見なかったと言い張りながら、妙に晴れた顔をしておる。何があったのか、ずっと考えておった」
数正は宗兵衛を見た。
「お主、黙っておれば済んだものを、なぜ話した」
「あのお侍は、見なかったと言いました。それはあのお侍の約束です。でも、俺は見ました。見たことを隠せば、俺は嘘をつく者になります。石川様は、嘘をつく者に宿の割り振りを任せたいと思われますか」
数正は、初めて小さく笑った。
「思わんな」
それだけ言うと、数正は庫裏を出かけ、戸口で足を止めた。
「このことは、わしは殿に申し上げん。だが、わしは覚えておく。清洲には、自分のしくじりを自分から言う与力がおった、とな」
数正が去った後、宗兵衛はその足で修理亮の屋敷へ向かった。
修理亮は、話を最後まで黙って聞いた。平六が持ち場を離れたこと。寺の裏で三河の侍に見哎められたこと。何も起きなかったこと。持ち場を割り振ったのが自分であること。今朝、石川数正に問われ、ありのままを話したこと。
話し終えると、修理亮は長いこと宗兵衛を見ていた。
「何も起きなかった、と申したな」
「はい」
「何も起きなかったのは、たまたまじゃ」
修理亮の声は低かった。
「三河の侍が、もう少し気の短い男であったら。平六が、懐に小刀の一本でも持っておったら。お主が駆けつけるのが、もう少し遅かったら。三河の殿が泊まる宿の裏で、織田の兵が斬られる。あるいは、三河の侍が斬られる。盟約の話は、その場で終わっておった」
宗兵衛は頭を下げたまま、何も言えなかった。修理亮の言う通りだった。
「結果がよかったから許す、ということはせん。戦場で持ち場を離れれば、首が飛ぶ。三河の衆がおる間の清洲は、戦場と同じじゃ」
「……はい」
「平六は、三河の衆が帰るまで西の門の持ち場から一歩も動かすな。帰った後は、ひと月の謹慎とする。扶持もその間は半分じゃ」
宗兵衛は顔を上げた。重い咎めではない。だが、軽くもなかった。
「そして宗兵衛。お主は、割り振りを全部書き直せ。門の向きだけではない。誰をどこに置けば、何が見えるか。何が聞こえるか。そこまで書き込め。今日中にじゃ」
「はっ」
「それと」
修理亮は少しだけ間を置いた。
「石川数正に、ありのままを話したそうじゃな」
「はい。……勝手なことをいたしました」
「勝手ではある。だが、嘘をつけば、もっと勝手なことになっておった。三河の者は、清洲の者を疑ってここに来ておる。一度嘘をつかれれば、盟約が成った後も、清洲の言うことを半分しか信じんようになる」
修理亮は帳面を閉じた。
「お主のしくじりは、割り振りじゃ。話したことは、しくじりではない。……分けて覚えておけ」
屋敷を出ると、甚内が門の外で待っていた。甚内は宗兵衛の顔を見て、何があったかをおおよそ察したようだった。
「平六の件か」
「はい。ひと月の謹慎です」
「軽く済んだな」
「俺には、軽くは聞こえませんでした」
甚内はしばらく黙って並んで歩いた。それから、ぽつりと言った。
「修理亮様は、若い頃、自分の割り振りのしくじりで味方を一人死なせたことがある。……その話は、修理亮様の前では決してするな」
宗兵衛は足を止めかけた。甚内は前を向いたまま歩き続けた。
その日の夕方まで、宗兵衛は割り振りを書き直した。門の向き。そこから見える建物。聞こえる音。人がどこを通れば、どこから見えるか。佐吉が城の周りを歩いて確かめ、宗兵衛がそれを書き込んでいく。途中で、佐吉が息を切らして戻ってきた。
「宗兵衛様。北東の櫓に立つと、三河の衆の寺の庭がまっすぐ見えます。夜なら、灯りで誰が出入りしているかまで分かります」
「北東の櫓には、誰を当てていた」
佐吉は板切れを見た。
「源四郎様の組の、若い者です。……丸根とは関わりのない者です」
「なら、そのままでいい。だが、櫃から寺が見えることは書いておけ。見えるということは、向こうからも見えるということだ」
佐吉は頷き、板切れに書き込んだ。字はまだ遅かったが、もう宗兵衛が言ったことをそのまま書くだけではなかった。見えた理由と、そこに誰がいるかを、自分で並べて書いていた。
書き終えた帳面は、前の倍の厚さになっていた。宗兵衛は書付の方にも、一行だけ書いた。
しくじったこと。しくじりではなかったこと。分けて書く。
修理亮に言われた言葉を、自分の字で書き直しておきたかった。
西の門へ帳面の写しを届けに行くと、平六は槍を持って立っていた。宗兵衛が謹慎のことを伝えると、平六は黙って頷いた。
「……扶持が半分か。女房に叱られるのう」
平六はそう言って、少しだけ笑った。宗兵衛は何か言おうとしたが、平六は首を振った。
「宗兵衛様が詫びることではない。わしが自分の足で歩いていったのじゃ。……それに、行ってよかったとも思うておる。杉浦弥七郎、か。あの男の兄の名を聞いた。それだけで、又兵衛のことが少しだけ軽うなった」
日が暮れかけた頃、寺へ戻ると、石川数正が再び庫裏の前に立っていた。今度は一人ではなかった。数正の後ろに、昨夜の若い侍、杉浦の弟が控えていた。
数正は宗兵衛を手招きし、声を落とした。
「頼みがある。表立っては頼めぬことじゃ」
「何でございましょう」
「殿は、三河へ帰る道すがら、熱田へ寄りたいと仰せじゃ。幼い頃、人質として過ごした所を、一度だけ見ておきたいと。……だが、それを織田の家中に申し出れば、昔の恨みを掘り返すのかと思われるやもしれん。かといって、黙って寄れば、余計な疑いを招く」
数正は宗兵衛の目を見た。
「お主なら、どうする」
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、石川数正への答えと、修理亮への報告の回でした。宗兵衛は自分のしくじりを隠さず、数正にも修理亮にもありのままを話しています。修理亮は、何も起きなかったことを理由に許すのではなく、何も起きなかったのは偶然だと厳しく指摘しました。その一方で、正直に話したことはしくじりではないと分けて示しています。叱るべき所と認めるべき所を分ける。それもまた、人を預かる者の姿なのかもしれません。なお、修理亮の若い頃の話は作中の創作です。また、元康は幼い頃、織田家の人質として熱田に置かれていたと伝えられています。次回、宗兵衛は数正からの頼みにどう応えるのか。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




