第八十六話 名を呼ぶ夜
宗兵衛はすぐには騒がなかった。
人を集めて城下を探せば、平六はすぐに見つかるかもしれない。だが、三河の衆が泊まる夜に、織田の兵が松明を持って走り回れば、何が起きたのかと誰もが思う。それに、平六が持ち場を離れたことが知れ渡れば、平六はもう言い逃れができなくなる。
「俺が戻るまで、このことは誰にも言わずにおいてくれ」
宗兵衛は見張りの男に言った。男は戸惑った顔をしたが、黙って頷いた。
宿所へ走り、佐吉を起こした。佐吉は話を聞くと、何も言わずに草鞋を履いた。
「平六さんが行きそうな場所に、心当たりはあるか」
「荷駄置き場か、源四郎様の組の小屋です。……でも、たぶんどちらでもないと思います」
「なぜだ」
佐吉は少し言い淀んでから答えた。
「平六さんは、外された時、ありがたいと言っておられました。本当にありがたいと思っている人は、黙って持ち場を離れたりしません。……離れたのは、どうしても見たいものがあったからだと思います」
宗兵衛は手元の割り振りを見た。そして、自分の書いた字に目を留めた。
城の東の門の脇。
三河の衆が泊まる寺は、城の東にある。東の門から寺までは、歩いてすぐだった。宗兵衛は平六を三河の衆から遠ざけるつもりで、警固の役から外した。だが、代わりに当てた持ち場は、三河の衆の宿に一番近い門だった。
「……俺のしくじりだ」
宗兵衛は呟いた。割り振りをした時、門の数と人の数だけを見ていた。門が、どちらを向いているかまでは見ていなかった。
寺へ向かう前に、二人は念のため荷駄置き場を覗いた。弥吉が焚き火の番をしていた。宗兵衛が平六のことを尋ねると、弥吉は火を突きながら言った。
「日が暮れてすぐ、ここを通っていったぞ。何も持たずにな。声を掛けたが、聞こえておらん顔じゃった」
「どちらへ」
「東じゃ」
弥吉は火から目を上げ、宗兵衛の顔を見た。
「宗兵衛。あいつは、何かをしでかす顔ではなかった。……何かを確かめに行く顔じゃった。わしは、そう見た」
宗兵衛は頷き、佐吉と共に東へ走った。
二人は東の門を抜け、寺へ向かった。月は細く、通りは暗い。寺の周りには、宗兵衛が割り振った警固の兵が立っている。だが、寺の裏手の竹藪の方までは、人を置いていなかった。
竹藪の手前に、人影が一つ立っていた。
平六だった。
平六は寺の塀を見上げていた。手には何も持っていない。槍は、東の門の持ち場に立てかけたまま置いてきたのだろう。平六はただ、塀の向こうに灯る明かりを、じっと見つめていた。
宗兵衛が声を掛けようとした時、塀の角から別の人影が現れた。
若い侍だった。三河の衆の一人だろう。寺の周りを見回っていたらしい。侍は平六の姿に気づくと、刀の柄に手をかけた。
「誰じゃ」
平六は動かなかった。逃げもせず、構えもしなかった。
宗兵衛は佐吉を手で制し、自分だけが前に出た。
「お待ちください。清洲の者です」
侍が宗兵衛の方を向いた。刀の柄から、手はまだ離れていない。
「清洲の者が、夜更けにこんな所で何をしておる。……殿の宿を、窺うておったのか」
「違います」
宗兵衛は平六の隣に立った。嘘をつけば、この場は収まるかもしれない。道に迷った、用を足しに来た。だが、嘘は後で必ず綻ぶ。石川数正のような男が三河にいるなら、なおさらだった。
「この者の従兄弟は、丸根の砦で討たれました。三河の殿が泊まられると聞いて、どんな方なのか一目見たかったのだと思います。刀も槍も持っておりません。持ち場から離れたのは、俺の割り振りのしくじりです」
侍は平六を見た。平六は塀を見上げたまま、低い声で言った。
「……顔を見れば、憎めると思うた。憎めれば、少しは楽になると思うた」
それきり、平六は黙った。
侍の手が、ゆっくりと刀の柄から離れた。しばらく誰も口を開かなかった。竹藪が風に鳴った。
やがて、侍が言った。
「わしの兄も、丸根で死んだ」
宗兵衛は息を呑んだ。平六が、初めて侍の方を見た。
「砦の柵を越えたところで、織田の槍に突かれた。首は、わしが拾うて三河へ持ち帰った」
侍は平六から目を逸らさなかった。
「殿が清洲へ行くと仰せになった時、わしも同じことを思うた。織田の者の顔を見れば、憎めると思うた。……だが、今日一日、清洲の町を歩いて、誰の顔も憎めなんだ。宿の膳は温かかった。厩の藁は新しかった。それが、腹立たしかった」
平六は何も言わなかった。ただ、唇を強く噛んでいた。
「名は」
侍が問うた。
「お主の従兄弟の名は」
平六はしばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「又兵衛。……槍の上手い男じゃった」
「わしの兄は、杉浦弥七郎という」
侍はそれだけ言うと、一歩下がった。
「今夜のことは、わしは見なかった。お主らも、わしを見なかった。……戻れ」
侍は塀の角の向こうへ消えていった。
帰り道、平六はずっと黙っていた。東の門に着くと、立てかけてあった槍を手に取り、元の持ち場に立った。宗兵衛は、その隣に立った。
佐吉は少し離れたところで、黙って二人を見ていた。宗兵衛が目で合図をすると、佐吉は頷き、宿所の方へ戻っていった。夜が明けるまで、ここには二人だけでいい。
しばらくして、平六がぽつりと言った。
「又兵衛は、わしより二つ下でな。子供の頃は、いつもわしの後ろをついて回っておった。槍を教えたのも、わしじゃ。……教えなければ、丸根の砦に回されることもなかったかもしれん」
宗兵衛は何も言わなかった。言える言葉がなかった。平六も、答えを求めているわけではないようだった。
「平六さん。持ち場を離れたことは、俺から修理亮様に申し上げます」
平六が顔を上げた。
「黙っておれば、誰にも知られずに済むものを」
「あの三河の侍は、見なかったと言いました。でも、俺は見ました。見たことを書かずにおくのは、俺のやり方ではありません」
宗兵衛は書付を出した。
「それに、平六さんをここに立たせたのは俺です。三河の宿に一番近い門に、平六さんを当てた。外したつもりで、一番近い所に置いていた。咎めを受けるなら、まず俺です」
平六はしばらく宗兵衛を見ていた。それから、ふっと力が抜けたように息を吐いた。
「……宗兵衛様は、損な方じゃ」
「よく言われます」
宗兵衛は灯の届く場所まで行き、書付に書いた。丸根、杉浦弥七郎、三河の侍の兄。又兵衛の名の、すぐ隣だった。同じ砦で、敵と味方に分かれて死んだ二人の名が、一つの頁に並んだ。
夜明け前、宗兵衛は持ち場の割り振りを書き直した。平六を西の門へ移し、東の門には、三河と関わりのない者を当てた。門がどちらを向いているか。今度は、それも書き込んだ。
朝になって寺へ顔を出すと、庫裏の前に石川数正が立っていた。数正は宗兵衛を見ると、声を落として言った。
「昨夜、寺の裏で何かあったそうじゃな。うちの若い者が、何も見なかったと言い張っておる。……何も見なかった者が、なぜ朝からあんな顔をしておるのか。お主なら知っておろう」
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、持ち場を離れた平六を探す夜の話でした。宗兵衛は第八十四話で、身内を亡くした者を警固から外す判断をしましたが、その代わりの持ち場が三河の宿に一番近い門だったことに気づきます。良かれと思って立てた支度にも、見落としはあります。それを自分のしくじりとして認めることも、人を預かる者の務めです。丸根砦の戦いでは織田方の守備兵だけでなく、攻め寄せた松平方にも多くの死者が出たと伝えられています。作中の杉浦弥七郎とその弟は創作の人物です。敵と味方に分かれて同じ場所で死んだ二人の名が、宗兵衛の書付の同じ頁に並びました。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




