第八十四話 年の瀬の支度
十二月の半ば、甚内が川沿いの村から戻ってきた。
年貢の取り決めを伝えに行ったのは甚内だった。宗兵衛は荷駄の支度で清洲を離れられず、甚内が自分から行くと言い出したのだ。宿所の戸口に立った甚内は、懐から一枚の紙を取り出した。
「陣夫に出る者の名じゃ。十一人。運び賃を受け取った者から順に書かせた」
宗兵衛は紙を受け取った。拙い字で、名が一つずつ並んでいる。
「村の様子はいかがでしたか」
「種籾には手をつけておらなんだ。庄屋が、俵に縄をかけて土間の奥に積んでおった。冬を越す米は、決めた通りの量を残してきた」
甚内はそこで言葉を切り、少しだけ顔をそむけた。
「それと、あの子の名じゃ」
「あの子、ですか」
「舟の行き先を指した子じゃ。お主の家来が気にしておったであろう。小太郎というそうじゃ」
土間で薪を割っていた佐吉が、手を止めて顔を上げた。甚内はそれを見ないようにして、さっさと戸口から出ていった。
「甚内殿」
宗兵衛が呼び止めると、甚内は振り返らずに片手だけ上げた。
「聞いたのは、ついでじゃ」
佐吉は板切れを取り出し、炭で小太郎と書いた。まだ形は歪んでいたが、もう迷ってはいなかった。
その数日後、宗兵衛は修理亮の屋敷に呼ばれた。荷駄の目減りの件で、油紙の試しの結果を持っていくはずの日だった。だが、修理亮は宗兵衛の差し出した帳面にざっと目を通すと、脇に置いた。
「油紙は使え。銭は出す。ただし、全部の俵ではない。雨の多い道を通る荷だけじゃ」
「はっ」
「本題はそれではない」
修理亮は人払いをした。部屋に残ったのは、修理亮と宗兵衛、そして甚内だけだった。
「年が明ければ、三河から使いが来る」
宗兵衛は黙って頭を下げた。噂はすでに城下に広がっている。だが、修理亮の口から聞くのは初めてだった。
「人数はまだ分からん。使いの者が数人で来るのか、それとも元康殿が自ら来るのか、それも決まっておらん。だが、どちらであっても、清洲で恥をかくわけにはいかん。宿、飯、馬、道筋の警固。その裏方を、わしの組で受け持つことになった。宗兵衛、お主がやれ」
「俺が、でございますか」
「お主は勘定ができる。人数が決まらぬまま支度をするには、勘定のできる者がよい。……他言は無用じゃ」
屋敷を出た後、宗兵衛はしばらく城下を歩いた。
人数が分からない。来る者が誰かも分からない。それでも支度は今から始めなければならない。宗兵衛は、藤八から聞いた岩室の言葉を思い出していた。
聞かれる前に、支度は済ませておけ。
まず、宿だった。宗兵衛は城下の寺と、大きな商家をいくつか回り、人を泊められる部屋の数を書き留めた。使いが数人なら、寺一つで足りる。百人を超えるなら、町屋をいくつも借りなければならない。どちらになってもいいように、宗兵衛は二通りの割り振りを書いた。
飯と馬の飼い葉も同じだった。少ない時と多い時の二つの数を出し、多い方の数で米と飼い葉を押さえておく。余れば、春の美濃攻めに回せばいい。荷駄の目減りの勘定をした後だけに、宗兵衛はその数を出すのに迷わなかった。
最後に残ったのが、道筋の警固だった。
宗兵衛は三河から清洲へ入る道を書付に描き、警固に立つ兵の数を割り振った。それを書きながら、ふと筆が止まった。
荷駄置き場で見た平六の顔が浮かんだ。丸根の砦で従兄弟を亡くした男だ。家中には、丸根や、三河との境の小競り合いで身内を亡くした者が他にもいるはずだった。そういう者が、三河の使いが通る道に槍を持って立つ。何も起きなければいい。だが、もし一人でも思い詰めた者がいれば、盟約の話はその場で壊れる。
誰にも言われてはいない。修理亮も、そこまでは口にしなかった。だが、聞かれてから支度を始めたのでは、遅いことがある。
宗兵衛はその夜から、警固に出る兵の名を一人ずつ調べ始めた。源四郎の組、修理亮の組、他の組の荷駄の者。丸根や三河との境で身内を亡くした者の名を、佐吉と二人で聞いて回った。佐吉は口が軽くない。聞いた名を板切れに書き留め、宗兵衛に渡すだけだった。
源四郎の組の分は、源四郎に直に尋ねた。源四郎は理由を聞くと、しばらく宗兵衛の顔を見ていた。
「誰に言われた」
「誰にも」
「そうか」
源四郎はそれ以上何も聞かず、組の者の名を三つ挙げた。それから、一つだけ付け加えた。
「外した者には、外したと分かるように言え。黙って外せば、疑われたと思う者もおる。疑われた者は、本当に何かをしでかすことがある」
宗兵衛は頷き、その言葉を書付に書き留めた。
十日ほどで、名は二十を超えた。
宗兵衛はその者たちを、警固の役から外した。罰ではない。だから、代わりの役を考えた。宿の薪割り、馬の世話、城の内の見張り。三河の使いと顔を合わせずに済む仕事を、一人ずつ割り振っていった。
平六の名も、その中にあった。
宗兵衛は、外した者には一人ずつ自分で話すことにした。最初に話したのは平六だった。
荷駄置き場で話を聞いた平六は、しばらく黙っていた。それから、縄を握ったまま小さく笑った。
「わしを外すのは、正しい」
「平六さん」
「三河の者が目の前を通ったら、わしは何をするか分からん。……自分でも分からんのじゃ。外してもらった方が、ありがたい」
平六はそう言って、また荷車に向き直った。宗兵衛は頭を下げ、その場を離れた。平六の背中は、前に見た時より少しだけ小さく見えた。
年の瀬も押し詰まった頃、宗兵衛は書き上げた支度の帳面を修理亮のもとへ持っていった。宿の割り振りが二通り。飯と飼い葉の数が二通り。道筋の警固の割り振り。そして最後の一枚に、警固から外した者の名と、代わりに当てた役が並んでいた。
修理亮は最後の一枚で手を止めた。
「これは、誰に言われた」
「誰にも言われておりません」
「なぜ外した」
「丸根や三河との境で身内を亡くした者たちです。三河の使いの前に立たせれば、何が起きるか分かりません。何も起きなくても、その者たちには酷だと思いました」
修理亮はしばらく黙って名を目で追っていた。甚内が、その横で小さく息を詰めているのが分かった。
「……よい」
修理亮はそれだけ言って、帳面を閉じた。褒める言葉は、それ以上何もなかった。だが、屋敷を出た後、甚内が門の前でぼそりと言った。
「修理亮様が、何も直さずに帳面を閉じられるのは珍しい」
永禄五年の正月は、雪もなく静かに明けた。
宿所の土間では、佐吉が板切れに何かを書いていた。覗き込むと、それは名ではなく、一行の文だった。
宗兵衛様の家来、佐吉。
字はまだ歪んでいた。だが、一つも欠けていなかった。
三が日が過ぎた朝、修理亮の屋敷から使いが走ってきた。宗兵衛が門に出ると、使いの者は息を切らしながら告げた。
「三河の一行が、岡崎を発ったそうでございます。数日のうちに、清洲に着かれるとのこと」
宗兵衛は懐の書付に手を当てた。支度は、もう済ませてある。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回で、第四章の導入となる冬の清洲の話が一区切りとなりました。宗兵衛は第七十八話で聞いた岩室長門守の「聞かれる前に、支度は済ませておけ」という言葉を、初めて自分の判断で形にしています。誰にも言われていないことに気づき、先に支度を済ませておく。それは、本能寺の朝に信長のそばに立つための支度とも、どこかでつながっているのかもしれません。次回から、三河の松平との盟約をめぐる話が始まります。なお、元康が実際に清洲を訪れたかどうかについては諸説があり、本作では物語の流れに沿って描いていきます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




