第八十三話 三河の噂
十一月に入ると、清洲の朝は白く霞むようになった。
荷駄置き場では、宗兵衛の言いつけで油紙の試しが始まっていた。俵に油紙を一枚被せ、縄で縛る。それを荷車に積み、わざと水を撒いてから一晩置く。翌朝、俵を開けて中の米を確かめる。弥吉が言った通り、油紙を被せた俵は乾いていた。被せなかった俵は、上の方がしっとりと湿っていた。
「濡れた俵は、ここに並べてくれ。乾いた方と分けて、数を数える」
宗兵衛が言うと、佐吉が板切れに数を書き込んでいく。数の字はもう迷わずに書けるようになっていた。
荷駄の者たちは、手を動かしながらも、別の話に夢中だった。
「三河と手を結ぶそうじゃ」
「まさか。あの松平とか」
「緒川の水野様が、間に立っておられるらしい。三河の殿様の伯父御じゃからな」
噂は、甚内が書状のことを口にしてから半月ほどで、城下の隅々にまで広がっていた。誰が言い出したのかは分からない。だが、言い出した者が誰であれ、聞いた者の顔はたいてい同じだった。眉をひそめ、信じられないという顔をする。
「冗談ではない」
荷車の陰から、低い声がした。平六だった。源四郎の組の荷を回しに来ていたのだろう。平六は縄を握ったまま、話していた若い荷駄の者を睨んでいた。
「丸根の砦を落としたのは、誰だと思うておる」
若い者は口をつぐんだ。宗兵衛も手を止めた。
桶狭間の朝、今川方の先手として丸根の砦に攻めかかったのは、松平元康の軍勢だった。砦を守っていた織田の兵は、ほとんどが討たれた。宗兵衛はそれを、史実としても、あの日の清洲の空気としても知っていた。
「わしの従兄弟は、あの砦におった」
平六は誰に言うでもなく言った。
「首も戻らなんだ。それを、今さら手を結ぶじゃと」
平六はそれだけ言って、荷車を引いて行ってしまった。残された荷駄の者たちは、しばらく誰も口を開かなかった。
宗兵衛は佐吉に数を任せ、平六の後を追った。荷駄置き場の外れで、平六は荷車の縄を締め直していた。宗兵衛に気づくと、ばつが悪そうに頭を下げた。
「宗兵衛様。若い者の前で、つまらんことを申しました」
「つまらないことではありません」
宗兵衛は少し迷ってから尋ねた。
「その従兄弟の方は、何という名でしたか」
平六は驚いたように顔を上げた。
「……又兵衛です。わしより二つ下で、槍が上手かった」
宗兵衛は懐から書付を出し、丸根、又兵衛、平六殿の従兄弟、と書いた。平六はそれを黙って見ていたが、やがて小さく頷き、また縄に手を戻した。
昼過ぎ、修理亮の屋敷では、家臣たちが同じ話をしていた。宗兵衛が帳面を届けに上がると、廊下の先から声が聞こえてきた。
「松平の小倅は、昔は織田の人質だった男じゃ。熱田に預けられておったのを、今川との人質替えで駿河へやった。そのまま今川の下で育ち、桶狭間では今川の先手を務めた。その男が、今川が弱ったと見るや、こちらへ擦り寄ってくる」
「信用できるものか。手を結んだ途端に、背中を刺されるぞ」
宗兵衛が部屋に入ると、声は止んだ。甚内が帳面を受け取りながら、小さく息を吐いた。
「お主も聞いたであろう。家中は、どこもこの話じゃ」
「はい」
「わしも、気に入らん」
甚内ははっきりと言った。
「三河とは何十年も戦をしてきた。わしの若い頃から、東の境は松平と今川の兵が来る所じゃった。それが、一枚の書状で味方になる。そんな味方は、また一枚の書状で敵に戻る」
宗兵衛は黙っていた。
甚内の言うことは、この時代を生きてきた者として当たり前だった。昨日の敵が明日の味方になり、またすぐに敵に戻る。尾張と三河の境では、それが何度も繰り返されてきたのだろう。
だが、宗兵衛は知っていた。この盟約は、二十年続く。織田と松平は、この先一度も互いに刃を向けない。信長が天下に手を伸ばす間、東の守りを担い続けるのは、あの松平元康なのだ。
それを口にすることはできなかった。
「宗兵衛殿は、どう思う」
甚内に問われて、宗兵衛は少し考えた。知っていることは言えない。だが、今の自分に見えていることなら言える。
「俺には、米の勘定に見えます」
「米の勘定じゃと」
「はい。今、東の境には、三河に備えて兵を置いております。砦の兵も、そこへ運ぶ兵糧も、毎月出ていきます。三河と結べば、その兵を美濃へ回せます。兵だけではありません。東の砦へ運んでいた米も、美濃攻めに使えます」
宗兵衛は帳面を一冊開き、東の砦への兵糧の数を指した。
「川沿いの村の年貢を先送りにしても、春の戦がもつかどうかはぎりぎりでした。ですが、東の兵糧が浮けば、少しは楽になります」
甚内は帳面の数を見て、しばらく黙った。
「……そういう見方もあるか」
それから、苦い顔で付け加えた。
「だが、勘定が合っても、気持ちは合わんぞ。丸根で身内を亡くした者に、米の話をしても通じぬ」
「分かっています」
宗兵衛は平六の顔を思い出していた。勘定が合うことと、人が納得することは違う。それは、水を被った村で修理亮に言われたことと、どこか同じ形をしていた。
屋敷を出ると、門の外に藤吉郎が立っていた。待っていたのか、たまたま通りかかったのかは分からない。藤吉郎は宗兵衛の顔を見ると、いつものように笑った。
「宗兵衛。三河の話は聞いたか」
「はい。家中はどこもこの話です」
「そうじゃな。皆、怒っておるか、呆れておるか、どちらかじゃ」
藤吉郎は宗兵衛と並んで歩き出した。
「わしも聞いて回った。修理亮殿のところでも、佐久間殿のところでも、荷駄の者のところでもな。皆、手を結ぶかどうかで揉めておる。ところが」
藤吉郎は足を止め、宗兵衛の顔を覗き込んだ。
「お主だけは、手を結んだ後の米の話をしておったそうじゃな」
宗兵衛は答えに詰まった。甚内との話は、ほんの少し前のことだ。それがもう、藤吉郎の耳に入っている。
「勘定を任されておりますので」
「勘定か。なるほど」
藤吉郎は笑ったまま、声だけを少し低くした。
「だがな、宗兵衛。勘定というのは、物事が決まってからするものじゃ。皆がまだ、和睦が成るかどうかも分からんと言うておる時に、お主は成った後の勘定をしておる。まるで、成ると分かっておるような顔でな」
宗兵衛は何も言えなかった。藤吉郎の目は笑っていなかった。
「前にも言うたかの。お主は、時々妙に落ち着いておる。皆が驚く時に、驚かん。それが、わしには面白い」
藤吉郎はそれだけ言うと、また軽い調子に戻って手を振った。
「まあよい。成るか成らぬかは、殿がお決めになることじゃ。わしらは、決まった後で走り回るだけよ」
藤吉郎が去った後も、宗兵衛はしばらくその場に立っていた。
知っていることを口にしなくても、知っている者の振る舞いは、どこかに出てしまう。驚くべき時に驚かない。迷うべき時に迷わない。それを見抜く目を持つ者が、この清洲にはいる。
その夜、宗兵衛は書付を開き、新しい頁に一つの名を書いた。
松平元康。
その下には、何も書かなかった。岩室の名を書いた時と同じだった。会ったこともない者のことを、知っているように書くわけにはいかない。
知っていることは、まだ書かない。確かめたことだけを書く。
宗兵衛は筆を置き、灯を消した。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、三河の松平と手を結ぶという噂が清洲に広がる回でした。松平元康、後の徳川家康は、幼い頃に織田家の人質となり、その後今川家のもとで育ちました。桶狭間の戦いでは今川方の先手として、織田方の丸根砦を攻めています。織田家中にとっては、つい最近まで刃を交えていた相手でした。織田と松平の和睦には、元康の伯父にあたる水野信元が仲立ちをしたと伝えられています。そして宗兵衛は、この盟約が長く続くことを知っています。知っていることを口にしなくても、その落ち着きは周りに伝わってしまう。藤吉郎は、そこに気づき始めています。なお、平六の従兄弟の話は作中の創作です。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




