↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/96

第八十二話 修理亮の勘定

その夜、宗兵衛はほとんど眠らなかった。

灯の下に帳面を広げ、書付と見比べる。土間では佐吉が筵にくるまって寝息を立てていたが、夜半に一度だけ起き出して、黙って灯の油を足していった。

春の穴をどう埋めるか。

先送りにした年貢は、来年の秋まで戻らない。その間に、美濃攻めの兵は米を食う。足りない分は、どこかから出さなければならない。宗兵衛は帳面を一冊ずつめくり、指で数を追った。何度足しても、引いても、穴は塞がらなかった。

明け方近く、宗兵衛はふと手を止めた。古い帳面の端に、見覚えのある書き方の数が並んでいた。去年の美濃攻めの荷駄の記録だった。清洲を出た時の俵の数と、陣に届いた俵の数。二つの数は、一度も合っていなかった。

雨に濡れて腐った分。鼠にやられた分。荷車が壊れて道端に捨てた分。そして、誰かが途中で抜いた分。足軽の頃、自分も荷駄の列にいた。どこで米が消えていくのか、宗兵衛は身をもって知っていた。

宗兵衛は筆を取り、新しい頁に書き始めた。

夜が明けると、宗兵衛は修理亮の屋敷へ向かう前に、荷駄置き場へ回った。弥吉はもう起きていて、荷車の車軸に油を差していた。

「弥吉さん。美濃へ出た時、陣に着くまでに米はどれくらい減りましたか」

弥吉は手を止め、少し考えた。

「年によるのう。雨に降られた年は、十に二つは駄目にした。俵が濡れれば、二日で中が蒸れる。わしらは濡れた俵から先に食うて、それでも食いきれん分は捨てた」

「濡らさない手はありませんか」

「油紙を被せればよい。だが、油紙は高い。荷駄の頭は、米が濡れるより銭が減る方を嫌がるでな」

弥吉はそう言って笑い、それから宗兵衛の顔を覗き込んだ。

「何か、勘定しておるな」

「はい。うまく合えば、春の戦で弥吉さんたちの荷が少し軽くなります」

「それはありがたい話じゃ」

弥吉はまた車軸に向き直った。宗兵衛は書付に、油紙、と一言だけ書き足した。

朝、修理亮の屋敷に上がると、修理亮はすでに甚内から話を聞いていたようだった。宗兵衛が書付を差し出す前に、口を開いた。

「川沿いの村の年貢を、来年に回したいそうじゃな」

「はい」

「理由を申せ」

宗兵衛は、見てきたことを順に話した。田の様子。刈り取れる稲の割合。家の数と人の数。土間に積まれた種籾。種籾を食べれば、来年の田がなくなること。修理亮は黙って聞いていた。表情は一度も変わらなかった。

話し終えると、修理亮は書付を手に取り、しばらく数を眺めていた。

「筋は通っておる」

宗兵衛が顔を上げかけた時、修理亮は書付を膝の上に置いた。

「では聞く。お主がこの村の年貢を待てば、隣の村はどう思う」

「隣の村、でございますか」

「隣の村の田も、少しは水を被った。その隣もじゃ。あの村だけ待ってもらえたと聞けば、皆が待てと言い出す。わしが一つの村に情けをかければ、十の村がそれを当てにする。そうなった時、お主はどこで線を引く」

宗兵衛はすぐには答えられなかった。修理亮の言う通りだった。情けは、かけた途端に前例になる。

それでも、宗兵衛は書付を指した。

「線は、この書付に書いてあります。俺は田を一枚ずつ見て、刈り取れる稲の割合を書きました。半分より多く残った村は、例年通りに納めさせます。半分を割った村だけを待ちます。甚内殿が数えた家と人の数も、ここにあります。誰が言い出しても、この数を見せれば済みます」

修理亮は甚内の方へ目をやった。甚内は黙って頷いた。

「よかろう。では、次じゃ」

修理亮の声が一段低くなった。

「先送りにした米は、どこから出す。春の兵は、来年の秋の米では食えぬぞ」

宗兵衛は書付の頁をめくった。夜明け前に書いた頁だった。

「二つあります。一つは、甚内殿が先に回るべきだと言われた大きな村です。あちらは田が高い所にあり、水をほとんど被っておりません。例年より実りがよい村もあります。そこから、例年の分をきちんと納めさせます」

甚内がわずかに眉を上げた。自分の言ったことが、こんな形で使われるとは思っていなかったのだろう。

「二つ目は、荷駄です」

宗兵衛は古い帳面の写しを広げた。

「去年の美濃攻めでは、清洲を出た米のうち、十俵に一俵は陣に届いておりません。雨に濡れたもの、鼠にやられたもの、荷車ごと捨てたもの、そして抜かれたもの。俵に油紙を被せ、荷車の替えを用意し、荷改めを途中で一度入れれば、その半分は守れます。守った分だけ、出す米を減らせます」

修理亮は帳面の写しを手に取った。しばらく黙って数を追っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。

「十に一つか。わしの帳面に、そんな数が並んでおったとはな」

「荷駄におりましたので、どこで消えるかは見ておりました」

宗兵衛は正直に言った。

「大きな村の分と、荷駄で守る分を合わせても、先送りにした分の七割ほどです。残りの三割は、まだ答えが出ておりません」

部屋が静かになった。甚内が横目で宗兵衛を見た。穴の空いた勘定を持っていくな、と言ったのは甚内だった。

修理亮はしばらく宗兵衛を見ていた。それから、書付を返してよこした。

「穴があると、自分から申したな」

「隠しても、修理亮様は見抜かれます」

「その通りじゃ」

修理亮は膝を打った。

「では、残りはわしが埋める。あの村の男たちのうち、美濃へ荷を運び、運び賃を受け取った者がおったな。その者たちを、春の戦に陣夫として出させよ。荷を担ぎ、道を直し、陣を張る。本来なら人足を雇い、米で払う仕事じゃ。その分の米が浮く」

宗兵衛は息を呑んだ。

「運び賃を受け取った者から先に出させる。美濃へ荷を運んだ足で、今度は織田の荷を美濃へ運ばせるのじゃ。それで、あの件の償いとする」

修理亮の声には、情けも怒りもなかった。ただ、勘定が合ったという響きだけがあった。

「村に残す米は、種籾の分は認める。冬を越す分は、お主の書いた量の八割じゃ。陣夫に出る男たちは、春のうちは陣で食わせる。その分、村で食う口が減る。……それで勘定は合うか」

宗兵衛は書付の上で数を走らせた。冬を越す米を二割削る。だが、陣夫に出る男たちの分だけ、村で食べる口は減る。数は、ぎりぎりで合っていた。

「合います」

「ならば、そうせよ」

修理亮は立ち上がりかけ、それからもう一度宗兵衛を見下ろした。

「宗兵衛。お主は村を残す勘定をした。わしは戦をする勘定をした。どちらが正しいのではない。わしは、両方が合う勘定しか認めん。覚えておけ」

「はっ」

「それと、荷駄の目減りの件。春までに、半分を守る支度を形にして見せよ。口で言うたことは、帳面で返してもらうぞ」

宗兵衛は深く頭を下げた。

屋敷を出ると、甚内が並んで歩きながら、ぼそりと言った。

「わしは賛成せんと言うたが」

「はい」

「穴を自分から見せるとは思わなんだ。あれで、修理亮様は残りを自分で埋める気になられた。……わしには、ああいう出し方はできん」

宗兵衛は答えずに歩いた。甚内はしばらく黙っていたが、やがて声を落とした。

「一つ、耳に入れておく。今朝、修理亮様のところへ三河から書状が届いておった。中身までは知らん。だが、松平の名が書いてあった」

宗兵衛は足を止めかけて、そのまま歩き続けた。

三河の松平元康。今川の下を離れたばかりの若い当主。宗兵衛は、その男がこの先どうなるのかを知っていた。

【あとがき】

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、宗兵衛の勘定が修理亮に試される回でした。修理亮は情けで年貢を待つことを許しませんでしたが、筋の通った勘定には耳を貸し、足りない分を自分の手で埋めました。宗兵衛が村を残す勘定をしたのに対し、修理亮は戦をする勘定をしています。どちらかを悪役にせず、立場の違う二人の勘定がかみ合う形にしました。陣夫とは、戦の際に荷を運んだり陣地を作ったりするために村から出された人々のことです。また、作中の「十に一つ」という荷駄の目減りは物語上の数で、史料に基づくものではありません。最後に、三河の松平の名前が出てきました。次回、その噂が清洲に広がっていきます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。