第八十一話 水の引いた田
村に着いたのは、知らせを受けてから三日後のことだった。
水はもう引いていた。だが、土手の手前に広がる田は、ひと月前に見た景色とはまるで違っていた。重く頭を垂れていた稲は、泥を被って横倒しになっている。乾きかけた泥がひび割れ、その隙間から折れた穂が覗いていた。
「ひどいな」
甚内が低く呟いた。宗兵衛の後ろで、佐吉が黙って田を見つめている。今回は家来として連れてきた。荷札を見つけた時のような役目ではない。ただ、宗兵衛は佐吉にも、この田を自分の目で見せておきたかった。
田の中では、村の者たちが泥に膝まで浸かり、倒れた稲を一株ずつ起こしていた。女も子供も、年寄りもいる。誰も顔を上げない。宗兵衛たちに気づいていないのではなく、気づいていても手を止める余裕がないのだ。
庄屋の家を訪ねると、ひと月前に甚内の前で何も知らぬと言い張った男が、今度は土間に額をこすりつけた。
「お役人様。どうか、今年の年貢だけは……」
「顔を上げよ」
甚内の声は冷たかった。
「ひと月前、お主はこの村の納屋で何が起きておったか、知らぬと申したな。その口で、今度は年貢を待てと申すか」
庄屋の肩が震えた。宗兵衛は甚内の言いたいことが分かった。あの納屋の荷を運んだのは、この村の男たちだ。運び賃も受け取っていたはずだ。甚内にしてみれば、この村に情けをかける理由はない。
「甚内殿」
宗兵衛は口を挟んだ。
「荷を運んだ者は、確かにこの村におりました。ですが、今あの田で稲を起こしている子供たちは、何も知らなかったはずです。年貢の話は、まず田を見てからにさせてください」
甚内はしばらく宗兵衛を睨んでいたが、やがて庄屋に背を向けた。
「好きにせい。わしは家の数と人の数を改める」
宗兵衛は佐吉を連れて田へ出た。一枚ずつ畦を歩き、稲の様子を確かめる。泥を被っても、穂がまだ実を残しているものがある。根元から折れて、もう起こしても仕方のないものもある。宗兵衛はしゃがみ込んで穂を一本手に取り、籾を指で潰してみた。中身はまだ白い。乾かせば、食べられないことはない。
「佐吉。この田一枚で、起こせる稲はどれくらいだと思う」
佐吉は畦の端から端までを目で追った。
「半分……いえ、もう少し少ないと思います。川に近い側は、ほとんど駄目です」
「俺も同じ見立てだ。書いておいてくれ」
佐吉は懐から板切れと炭を出し、ぎこちない手つきで数を書いた。ひと月前、自分の名を書くのがやっとだった手が、今は数の字を書いている。四。その隣に、割、と書こうとして手が止まった。宗兵衛が字の形を指でなぞってみせると、佐吉は小さく頷いて書き直した。
畦の端で、腰の曲がった年寄りが一人、休んでいた。宗兵衛が声を掛けると、年寄りは泥のついた手を膝で拭い、川の方を見やった。
「この川が溢れるのは、わしが生きてきた間に三度目じゃ」
「前の時は、どうやって冬を越したのですか」
「越せなんだ家もある」
年寄りは淡々と言った。
「十年ほど前の大水の年は、年貢を待ってもらえなんだ。冬の終わりに種籾まで食うて、春になっても田に植えるものがない。若い者から順に村を出ていった。戻ってきたのは、半分もおらん」
宗兵衛は黙って聞いていた。年寄りは田の中の子供たちを見て、小さく笑った。
「あの子らが同じ目に遭わんで済むなら、わしの分の飯は減らしてもろうて構わん」
昼過ぎまでかけて村中の田を回り、宗兵衛は書付に数を並べた。田の広さ。刈り取れそうな稲の割合。そこから見込める米の量。そして、帳面にある今年の年貢。
並べてみて、宗兵衛は筆を置いた。
帳面通りに年貢を取れば、村に残る米は、冬を越すのに半分も足りない。
「宗兵衛殿」
甚内が戻ってきた。手には家ごとの人数を書きつけた紙がある。
「家は二十三。人は百十二じゃ。……お主の勘定はどうなった」
宗兵衛は書付を見せた。甚内は黙って数を目で追い、やがて眉を寄せた。
「これでは、冬の終わりには食うものがなくなるな」
「はい。それだけではありません」
宗兵衛は庄屋の家の奥を指した。土間の隅に、俵がいくつか積まれている。
「あれは種籾です。冬の間に食うものがなくなれば、村の者はあれに手をつけます。種籾を食べてしまえば、来年の春に田を作れません。田を作れなければ、来年の秋の年貢はありません」
甚内は俵を見て、それから宗兵衛を見た。
「今年の年貢を取りきれば、来年の年貢が消えるということか」
「はい。今年の米を守るつもりで、来年の米を失います」
甚内はしばらく黙っていた。それから、懐から帳面を取り出し、ぱらぱらとめくった。
「では、どうする。年貢を免じるとでも申すか。そんなことをすれば、春の美濃攻めの兵糧はどうなる。修理亮様は、それを出せと仰せになったのじゃぞ」
「免じるのではありません」
宗兵衛は書付の新しい頁を開いた。
「今年は、種籾と、冬を越すのに要る分だけを村に残します。足りない年貢は、来年の秋に先送りにします。その代わり、村には来年、田を元通りに作らせる。来年の秋に今年の分と合わせて納めさせれば、二年で見れば米は減りません」
「二年で見れば、か」
甚内は鼻を鳴らした。
「戦は二年先ではない。春じゃ。来年の秋に入る米で、来年の春の兵は食えぬぞ」
「分かっています」
宗兵衛は頷いた。甚内の言う通りだった。先送りにした米は、春の戦には間に合わない。その穴をどう埋めるのか、宗兵衛にはまだ答えがなかった。
その時、田の方から子供の声がした。振り返ると、泥だらけの子供が一人、畦の上に立ってこちらを見ていた。宗兵衛には見覚えがあった。ひと月前、納屋の前で舟の帰っていく先を川上へ指差した子だった。
子供は宗兵衛の顔を覚えていたらしい。一度だけ頭を下げると、また田の中へ駆け戻っていった。小さな手で、倒れた稲を一株ずつ起こしていく。
宗兵衛はその背中をしばらく見ていた。
この村の男たちは、美濃へ荷を運んだ。それは許されることではない。だが、その罪の分まで、来年の田を取り上げてよいとは思えなかった。村が潰れれば、この川沿いの田は誰も作らなくなる。そうなれば、修理亮の帳面から、この村の数そのものが消える。
村を出る前に、佐吉がぽつりと言った。
「宗兵衛様。あの子の名前、聞いておけばよかったです」
「名前か」
「はい。前に舟のことを教えてくれたのも、あの子でした。書付に、あの子とだけ書くのは、なんだか違う気がして」
宗兵衛は振り返った。子供はもう、田の中の小さな影にしか見えなかった。
「次に来た時に聞こう。その時までに、この村が残っていればな」
帰り道、甚内は長いこと口を開かなかった。清洲の町の灯りが見え始めた頃、ようやく前を向いたまま言った。
「お主の勘定は分かった。筋も通っておる。だが、わしは賛成せん」
「はい」
「わしが賛成せんでも、お主はこれを修理亮様に申し上げるのであろう」
「申し上げます」
甚内は小さく息を吐いた。
「ならば、春の穴をどう埋めるか、答えを持って行け。修理亮様は、穴の空いた勘定を持ってくる者を一番嫌われる」
宗兵衛は書付を握りしめた。明日の朝までに、答えを見つけなければならなかった。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、水を被った川沿いの村を訪れる回でした。第七十五話で舟を見張ったあの村が、今度は別の形で宗兵衛の前に現れます。当時の年貢は、領主にとっては戦をするための大切な元手であり、村にとっては一年の暮らしを左右するものでした。種籾は翌年の作付けに欠かせないもので、飢えた村がこれに手をつけてしまうことは、村そのものが立ち行かなくなることを意味します。今年の米を守るか、来年の田を守るか。宗兵衛は答えの半分を見つけましたが、残りの半分はまだ見えていません。次回、その勘定を修理亮の前に持っていくことになります。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




