第八十話 家来の飯
目を覚ますと、もう竈に火が入っていた。
宗兵衛が身を起こすと、土間で佐吉が鍋をかき混ぜていた。外はまだ薄暗い。九月も半ばを過ぎ、朝の風には冷たさが混じり始めている。
「早いな」
「家来ですから」
佐吉は振り返らずに答えた。声が少し弾んでいる。宗兵衛の宿所は、修理亮の屋敷に近い長屋の一間だった。一人で寝起きするには十分だったが、二人になると急に狭く感じる。佐吉の寝床は土間の脇に敷いた笵一枚だ。それでも佐吉は文句一つ言わなかった。
鍋の中を覗き込んで、宗兵衛は眉を寄せた。
「佐吉。米が少なすぎないか」
「俺の分を減らしました。宗兵衛様の分は、ちゃんと入っています」
「それは駄目だ」
宗兵衛は米びつの蓋を開けた。中身は思っていたより減っている。扶持の米は月ごとに届く。一人なら余るほどだったが、二人で食べればぎりぎりだった。
「家来が腹を空かせて倒れたら、困るのは俺だ。飯は同じだけ食え。足りない分は、俺がなんとかする」
「でも……」
「でも、はなしだ。源四郎様に言われただろう。お前の飯は、俺が背負うことになっている」
佐吉は少しの間黙っていたが、やがて小さく頷き、米をもう一掴み鍋に足した。
朝飯を食べながら、宗兵衛は頭の中で勘定をした。米の量。味噌と塩。冬に入れば薪も要る。佐吉の着物も一枚では足りない。足軽の頃は、組の飯を食べていれば済んだ。扶持をもらうようになって、ようやく分かった。自分の名で暮らすというのは、こういう細かな勘定を毎日積み重ねることなのだ。
「宗兵衛様」
佐吉が椀を置いて言った。
「俺にも何か仕事をください。飯を炊いて、水を汲むだけでは、家来とは言えません」
「仕事ならある」
宗兵衛は懐から書付を出し、白い頁を開いた。
「字を覚えろ」
「字、ですか」
「荷札の数は読めるな。だが、書くことはまだできないだろう。お前が見たものを、お前の手で書けるようになれば、俺が見落としたものを残せる」
佐吉は書付の白い頁をじっと見つめた。それから、こくりと頷いた。
朝のうちに、宗兵衛は城下の古着屋に寄った。冬に備えて、佐吉に綿入れを一枚買ってやりたかった。だが、店先に吊るされた綿入れの値を聞いて、思わず懐の銭を数え直した。買えないことはない。ただ、買えば今月の味噌と薪が心許なくなる。
宗兵衛はしばらく迷った末、一番安い、継ぎの当たった綿入れを選んだ。店の親父は、元服したての若い侍がそれを選ぶのを見て、少しだけ笑った。宗兵衛は気にしなかった。見栄で腹は膨れない。佐吉が冬を越せるなら、継ぎ当てくらい何でもなかった。
その日の昼、宗兵衛は修理亮の屋敷に呼ばれた。部屋には甚内が先に控えていた。荷の件以来、甚内の態度は少し和らいでいる。宗兵衛と目が合うと、軽く顎を引いた。
「宗兵衛。新しい役目じゃ」
修理亮は帳面の束を前に置いた。
「来年の春、美濃をもう一度攻める。どれだけの兵を出すかは、まだ決まっておらん。だが、どれだけの兵を出せるかは、今から決めておかねばならん。それを決めるのは米じゃ」
「兵糧の見積もりでございますか」
「そうじゃ。その前に一つ聞く」
修理亮は宗兵衛を見た。
「百人を十日、美濃へ出すとする。清洲から荷車は何台要る」
宗兵衛は少し考えた。米だけなら五石。一俵に四斗入れるとして、十三俵ほどになる。荷車一台に積める俵の数と、道の悪さ、川を渡る手間を思い浮かべる。
「米だけなら、荷車二台で足ります。ですが、飼い葉と薪、それに途中で壊れる車の替えを考えれば、四台は見ておきたいと思います」
「なぜ倍にする」
「荷車は、足りなければ戦が止まります。余れば、帰りに怪我人を乗せられます」
修理亮は何も言わず、甚内の方へ目をやった。甚内が小さく頷くのが見えた。
「よい。では本題じゃ。わしの預かる村々から、今年どれだけの米が入るか。そこから、春に何人をどれだけの日数動かせるか。甚内と二人で出してみよ」
宗兵衛は帳面を一冊手に取った。村ごとの田の広さと、去年の年貢の量が並んでいる。
甚内が横から口を添えた。
「戦に出る者は、一人一日五合の米を食う。荷駄の者も含めてじゃ。百人が十日動けば、それだけで五石になる。そこに馬の飼い葉、陣の薪、縄や草鞋が加わる。米は兵の腹に入るだけではない。銭に替えて、他の物を買うためにも要るのじゃ」
宗兵衛は黙って聞きながら、書付に数を書き留めていった。今朝、米びつの前でした勘定と、形は同じだった。ただ、桁が違う。二人分の飯ではなく、何百人分の命を支える米だ。
「ただし」
修理亮が言った。
「今年の刈り入れはまだ終わっておらん。帳面の数は、あくまで去年までのものじゃ。数を書き写すだけなら、誰にでもできる。今年の田を、自分の目で見てこい」
「はっ」
屋敷を出ると、甚内が並んで歩きながら言った。
「刈り入れが済むまで、あと半月ほどじゃ。それまでに村を回る順を決めておけ」
「甚内殿は、どの村から回るのがよいとお考えですか」
「わしなら、年貢の多い村からじゃな。大きな村の数が狂えば、全体が狂う」
宗兵衛は少し考えてから答えた。
「俺は、川沿いの村から見たいと思います」
「なぜじゃ」
「秋口の川は、急に水が増えると教わりました。田が川に近い村ほど、数が狂いやすいはずです」
甚内は宗兵衛の顔を見て、それから小さく鼻を鳴らした。
「荷駄の古株の話か。……好きにせい。ただし、大きな村も外すでないぞ」
その夜、宿所に戻ると、佐吉が土間に座り込み、炭の欠片で板切れに何かを書いていた。覗き込むと、歪んだ字がいくつも並んでいる。どれも同じ形を繰り返していた。
「何を書いている」
佐吉は少し照れたように板切れを差し出した。
「自分の名前です。最初に覚えるなら、これだと思って」
佐の字の人偏が、吉の字よりも大きくはみ出している。宗兵衛は笑いかけて、それをこらえた。笑うところではない。自分も、この時代の字を初めて書いた時は、こんなものだった。
「悪くない。明日は、数の字を覚えよう。一から十までだ」
「はい」
宗兵衛は昼間に買った綿入れを差し出した。佐吉は継ぎの当たった袖を見て、それから宗兵衛の顔を見た。
「俺に、ですか」
「冬になれば、土間は冷える。継ぎ当てで悪いが、それで我慢してくれ」
佐吉は綿入れを両手で受け取り、しばらく何も言わなかった。
佐吉が板切れを大事そうに笵の脇に置いた時、戸を叩く音がした。開けると、甚内が立っていた。夜道を急いできたのか、息が少し上がっている。
「宗兵衛殿、夜分にすまぬ。今しがた、北から使いが来た」
甚内は声を落とした。
「上の方で大雨が続いたらしい。木曽川の水が溢れて、川沿いの田が水を被った。……あの村もじゃ。お主と舟を見張った、あの村の田もな」
宗兵衛は戸口に立ったまま、北の闇を見た。帳面の数は、もう当てにならない。刈り入れを目前にした稲が、泥の中に沈んでいる。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回から第四章「山を拓く者」が始まりました。第四章では、柴田修理亮の与力となった宗兵衛が、戦場の外での働きを通して少しずつ力をつけていく姿を描いていきます。まずは、佐吉を家来に迎えた宗兵衛の暮らしからです。扶持をもらって自分の名で暮らすことは、毎日の細かな勘定の積み重ねでもあります。その勘定が、今度は何百人分の兵糧へとつながっていきました。戦国時代の兵糧は、一人一日五合ほどを目安にしたとされます。ただし時代や地域によって差があり、作中の数は一つの目安として描いています。また、この年の秋の木曽川の増水は物語上の創作です。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




