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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第七十九話 名を継ぐ者

藤八の問いに、宗兵衛はまだ答えを出せずにいた。

名を書いて、それからどうする。書いて終わりか。三日経っても、その言葉は頭から離れなかった。役目の合間に書付を開くたび、岩室の名の下に書き足した数行が目に入る。器用の仁。聞かれる前に、支度を済ませておく人。熱田で、信長のすぐ後ろに控えていた人。書き足したことで、その人の姿は前よりはっきりした。だが、それで何かが終わったとは思えなかった。

四日目の朝、宗兵衛は清洲の町外れにある寺を訪ねた。於久地で討たれた者たちの供養が、ここで行われたと聞いたからだ。

年老いた僧は、宗兵衛の話を聞くと、奥から古い帳面を持ってきた。死んだ者の名を書き留めておく帳面だという。僧は於久地の頁を開いて見せてくれた。

岩室長門守の名があった。その後に、何人かの侍の名が続いている。だが、それだけだった。

「足軽の名は、ございませんか」

宗兵衛が尋ねると、僧は静かに首を振った。

「名の分かる者だけでございます。足軽衆は、組の頭が何人と知らせてくるのみで、名までは届きませぬ」

宗兵衛は帳面の余白を見つめた。於久地では、自分の目の前でも何人もの足軽が倒れた。荷駄で運んだ者もいた。その誰の名も、ここにはない。名を知られている者だけが、名を残す。名のない者は、何人という数になって消えていく。

一年半前の自分も、そうなるはずだった。桶狭間で倒れていれば、沢井の村から来た宗助という足軽がいたことを、誰も書き残しはしなかっただろう。

帰り際、僧が尋ねた。

「どなたの供養に参られた」

「岩室長門守様と……名の分からない者たちの」

僧はそれ以上何も聞かず、宗兵衛のために短く経を上げてくれた。宗兵衛は手を合わせながら、於久地で倒れた足軽たちの顔を思い出そうとした。だが、はっきりと思い出せる顔は、ほんのわずかしかなかった。

寺を出ると、秋の風が吹いていた。宗兵衛は懐の書付に手を当てた。

昼過ぎ、源四郎の組に顔を出すと、佐吉が待っていた。その隣には源四郎もいた。佐吉は宗兵衛の前に出ると、深く頭を下げた。

「宗兵衛様。俺を、宗兵衛様の家来にしてください」

宗兵衛は佐吉を見た。それから源四郎を見た。源四郎は腕を組んだまま、何も言わない。

「佐吉。俺の扶持は多くない。お前を養うのも楽ではない。それに、俺の下にいれば、源四郎様の組にいるより危ない役目が回ってくるかもしれない」

「分かっています」

「それでも、なぜだ」

佐吉は少しの間黙っていた。それから、顔を上げた。

「舟の中から荷札を見つけた時、宗兵衛様は書付に書いておられました。俺はその時、横から見てしまったんです。荷札を見つけたのは佐吉、と書いてありました。俺の名前でした」

佐吉の声がわずかに震えた。

「俺は、自分の名前が何かに書かれたのを、生まれて初めて見ました。この人の下で働けば、自分のしたことが、ちゃんと残る。そう思いました。……それで決めました」

宗兵衛はすぐには言葉が出なかった。自分は、ただ見たことを書いただけだった。佐吉の名を書いたのも、誰が何を見つけたかを残しておくためだった。それが、佐吉にとってはそういう意味を持っていたのだ。

源四郎がようやく口を開いた。

「決めたのは佐吉じゃ。わしは止めん。修理亮様には、わしからも申し上げておく」

それから、源四郎は宗兵衛を見た。

「宗兵衛。人を一人預かるというのは、五人を預かるのとは違うぞ。五人は組の者じゃが、家来はお主の者じゃ。その者の飯も、命も、名も、お主が背負うことになる」

「……はい」

宗兵衛は佐吉に向き直った。

「佐吉。よろしく頼む」

佐吉の顔が、ぱっと明るくなった。その向こうで、平六が黙って頷いているのが見えた。

話を聞きつけたのか、荷駄置き場の方から弥吉がやって来た。弥吉は佐吉の頭を乱暴に撫で、「家来か。わしより先に出世しおって」と笑った。それから宗兵衛の方へ向き直ると、少しだけ声を落とした。

「宗兵衛。お主の書付に、名を書いておるのじゃろう」

「はい」

「権蔵の名も、書いてやってはくれんか」

宗兵衛は弥吉を見た。弥吉は目を逸らさなかった。

「あいつのしたことは許されん。それは分かっておる。だが、若い者に飯を分けておったのも、あいつじゃ。誰も書かんなら、それもなかったことになる」

宗兵衛は書付を開き、少し考えてから筆を取った。権蔵。荷駄の者。荷を流した。若い者に飯を分けていた。書き終えて見せると、弥吉は黙ってそれを読み、小さく頷いた。名を書くのは、褒めるためだけではない。そこにいたことを、なかったことにしないためだ。宗兵衛は、それを弥吉に教えられた気がした。

その日の夕方、修理亮は佐吉のことを短く許した。それから、何でもないことのように付け加えた。

「お主の書付、これからも続けよ。荷駄の数も、道も、人の名もじゃ。わしの目が届かぬところを、それで補う」

「はっ」

「年が明ければ、三河の松平との話もいよいよ動くであろう。美濃も黙ってはおらん。今のうちに、足元を固めておけ」

日が落ちる前に、宗兵衛は馬場へ向かった。藤八は今日も栗毛の世話をしていた。宗兵衛の姿を見ると、手を止めた。

「答えは出たか」

「はい」

宗兵衛は柵の前に立った。

「名を書いて、それで終わりにはしません。書いた人がどう生きて、どう仕えたのか。それを知った分だけ、自分のやり方として継いでいきます。岩室様からは、聞かれる前に支度を済ませておくことを継ぎます」

宗兵衛は懐から書付を出した。

「それと、名の残らない者の名も書いていきます。俺の下で働く者の名も、俺の前で倒れた者の名も。誰も書かないなら、俺が書きます」

藤八はしばらく宗兵衛を見ていた。やがて、ふっと笑った。

「それなら、岩室殿も寂しくはなかろう」

藤八は栗毛の首を一度撫で、馬場の奥へ戻っていった。

その夜、宗兵衛は宿所で書付を開いた。新しい頁の一番上に、佐吉の名を書いた。その隣には、宗兵衛の家来となる、とだけ書いた。

それから、少しだけ筆を止めた。

聞かれる前に、支度を済ませておく。その言葉を、宗兵衛は自分の行き先に重ねてみた。天正十年六月二日。本能寺。その朝、信長の側にいるのは、信長の一番近くに仕える者たちだ。その中に立つための支度は、その日が来てから始めても間に合わない。

天正十年まで、あと二十一年ある。

長いと思っていた。だが、名字も持たなかった足軽が名を得るまでに、一年半かかった。人を一人預かるまでに、さらに時が要った。二十一年は、きっと短い。

宗兵衛は頁の端に、小さく書き足した。

「支度は、今日から」

灯を消すと、外では秋の虫が鳴いていた。

【あとがき】

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。第七十九話で、第三章「名を継ぐ者」は一区切りとなります。第三章では、宗助が五人を預かり、人に任せることを覚え、元服して沢井宗兵衛家宗という名を得るまでを描いてきました。そして最後に、岩室長門守の名と、名の残らない者たちの名を、自分のやり方で継いでいくという答えにたどり着きました。佐吉が宗兵衛の家来となったのも、この章の大切な変化の一つです。当時、討死した足軽一人一人の名が記録に残ることは多くありませんでした。だからこそ、宗兵衛の書付には意味があるのだと思います。次の第四章では、柴田修理亮の与力となった宗兵衛が、尾張と三河、そして美濃をめぐる新しい動きの中で、さらに一歩前へ進んでいきます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。

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