第七十八話 器用の仁
九月に入って最初の晴れた朝、宗兵衛は清洲城の外れにある馬場へ向かった。
城の門を通る時、門番が宗兵衛の顔を見て「沢井殿」と声を掛けた。元服からまだ半月余りしか経っていない。それでも、新しい名は少しずつ人の口に馴染み始めていた。呼ばれるたびに、宗兵衛は一拍遅れて返事をしてしまう。それが自分でもおかしかった。
信長の側近くに仕える者と、二人きりで話すのは初めてだった。藤吉郎の話では、佐脇藤八は気さくな男だという。だが、信長の近くにいる者は、信長の目と耳でもある。何を話し、何を話さないか。宗兵衛は歩きながら、何度も自分に言い聞かせていた。
馬場の柵の内では、若い男が一人、栗毛の馬の脚を確かめていた。年は宗兵衛と同じか、少し下だろうか。着ているものは上等だが、袖をたくし上げ、膝をついて蹄を覗き込む姿には、気取ったところがまるでなかった。
宗兵衛が柵の外で膝をつくと、男は顔を上げた。
「沢井宗兵衛殿か。藤吉郎から聞いておる。佐脇藤八じゃ」
「沢井宗兵衛にございます。お呼びと聞き、参りました」
「呼んだわけではない。会いたいと言うただけじゃ。堅くならんでよい」
藤八は馬の脚を下ろし、柵の方へ歩いてきた。
「元服したそうじゃな。修理亮殿の烏帽子子とは、また大きな親を持ったものよ」
「身に余ることでございます」
「藤吉郎は、まだお主を足軽じゃと思うて話しておったぞ」
藤八は笑った。
「沢井というのは、生まれた村の名か」
「はい。清洲から北へ半日ほどの、小さな村でございます」
「そうか。わしも、生まれた家の名は名乗っておらぬ。前田の家に生まれて、佐脇の家に入った。名が変わると、しばらくは自分が呼ばれておる気がせんものじゃ」
「……はい。まだ、一拍遅れます」
宗兵衛が正直に言うと、藤八は声を上げて笑った。
「わしは一年かかった。お主はもっと早く慣れるとよいな」
それから、藤八はふと笑みを収めた。
「岩室殿の名を書き留めておるそうじゃな。見せてもらえるか」
宗兵衛は懐から書付を出し、その頁を開いた。於久地から戻った夜に書いたものだ。そこには名前と、討たれた日だけがある。他には何もない。
藤八は長いことその頁を見ていた。
「名だけか」
「はい」
「なぜ、何も書かなんだ」
「岩室様のことを、俺はほとんど存じません。知らない人のことを、知っているように書きたくなかったのです」
藤八は書付を宗兵衛に返した。
「では、なぜ名を書いた。会うたこともない者の名を」
宗兵衛は少し考えた。同じことを、前に修理亮にも聞かれた。あの時は、忘れたくなかったと答えた。それは今も変わらない。だが、藤八の前では、もう少し違う言葉が出てきた。
「於久地で、俺は荷駄の後ろにおりました。岩室様が討たれたと声が上がった時、陣の気配が変わりました。前におった者も、後ろにおった者も、皆同じ顔をしていました。一人の死で、あれだけ多くの者の顔が変わる。そういう人の名を、名前しか知らないまま通り過ぎたくなかったのです」
藤八は黙って聞いていた。しばらくして、柵に寄りかかり、空を見上げた。
「岩室殿はな、器用な人じゃった」
「器用、でございますか」
「何をやらせてもできた。馬も、弓も、槍も。書状を書かせれば字がきれいで、使いに出せば話をまとめて帰ってくる。家中で器用な者と言えば、まず岩室殿の名が出た。わしらのような若い者は、皆あの人を見て仕え方を覚えたのじゃ」
藤八は少しだけ笑った。
「わしが信長様のお側に上がったばかりの頃、大きなしくじりをしたことがある。信長様のお召しになる馬の支度を間違えてな。叱られる前に、岩室殿が黙って直しておいてくれた。後で礼を言いに行ったら、こう言われた」
藤八は岩室の口調を真似るように、声を低くした。
「信長様の前では、聞かれたことにだけ答えよ。だが、聞かれる前に、支度は済ませておけ」
宗兵衛はその言葉を胸の内で繰り返した。聞かれる前に、支度は済ませておく。荷駄の道を先に見ておくこと。川の水が増える前に岸から離れること。自分がこれまでやってきたことと、どこか同じ形をしているように思えた。
「桶狭間の時もそうじゃった」
藤八は続けた。
「熱田で信長様が舞われた時、すぐ後ろに控えておったのが岩室殿じゃ。舞が終わる前から、もう馬の手綱を握っておった。信長様が出陣と言われた時には、誰より先に動いておった」
宗兵衛は、あの朝の熱田を思い出した。鳥居の向こうで舞う信長の姿。その後ろに控えていた若い者たちの影。誰がそこにいたのかまでは、あの時の自分には分からなかった。だが、その中に岩室がいたのだ。自分は、すでにその人を見ていたのかもしれない。
「於久地では」
宗兵衛が口を開くと、藤八の顔がわずかに曇った。
「先を切って惣構へ入っていった。あの人らしかった。……信長様は、ひどく惜しまれた。あの夜は、誰もお側に近寄れなんだ」
風が馬場を渡り、栗毛の馬が小さく鼻を鳴らした。
「名だけでは寂しかろう」
藤八が言った。
「今、わしが話したことを、書き足してやってくれぬか。岩室殿のことを知っておる者は多い。だが、書き残そうとする者は少ない」
宗兵衛は頷き、書付を開いた。藤八が見ている前で、名前の下に筆を走らせる。器用の仁。聞かれる前に、支度を済ませておく人。熱田で、信長様のすぐ後ろに控えていた人。書き終えると、藤八は小さく頷いた。
「それでよい」
藤八は書付から目を上げ、宗兵衛を見た。
「今は修理亮殿の下で働いておるそうじゃな」
「はい。与力として、お役目をいただいております」
「修理亮殿は戦では強い。だが、あの方の下におれば、戦の外のことはあまり見えてこんかもしれん。信長様が何を見て、何を考えておられるか。それは、お側にいなければ分からんことも多い」
藤八はそこで言葉を切り、少しだけ笑った。
「いや、余計なことを言うたな。今のは忘れてくれ」
藤八は柵から身を離し、馬の方へ戻りかけた。そして、振り返らずに言った。
「わしらは信長様の一番近くにおる。何かあれば、一番先に死ぬのもわしらじゃ。岩室殿は、それを分かっておられた。分かった上で、誰より先に動いておられたのじゃ」
その言葉に、宗兵衛は背筋が冷たくなるのを感じた。
天正十年六月。本能寺。信長が最期を迎えるその朝、信長の側にいるのは、こうした若い者たちなのだ。信長の一番近くにいて、一番先に死んでいく者たち。自分が本能寺を変えようとするなら、その朝、自分はどこに立っていなければならないのか。
藤八が栗毛の首を撫でながら、もう一度だけ宗兵衛の方を見た。
「宗兵衛殿。名を書いて、それからどうする。書いて終わりか」
宗兵衛は答えられなかった。書付を握る手に、力が入っていた。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、第六十話から残っていた「岩室を長く知る者に聞け」という話がようやく形になりました。佐脇藤八は、信長の近くに仕えた実在の人物で、前田利家の弟にあたります。岩室長門守については、『信長公記』に家中で知られた器用な人物であったと記され、於久地での討死を信長が深く惜しんだと伝えられています。作中で藤八が語る具体的な思い出は、物語上の創作です。また、本作では桶狭間の朝、信長が熱田で舞った場面を描いているため、今回もその流れに沿って描いています。名前だけだった書付に、少しずつその人の姿が書き足されていく。宗兵衛にとって、それは誰かの名を受け継いでいくことの始まりなのかもしれません。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




