第八話 迫る戦の気配
朝から村の空気がどこか落ち着かなかった。
荷車が慌ただしく行き交い、村人たちは畑仕事の手を止めて何やら話し込んでいる。
宗助は槍を担ぎながら、その様子を見渡した。
「今日は静かじゃないな。」
弥吉が小さく頷く。
「儂も気になっておった。」
二人が広場へ着くと、すでに足軽たちは整列していた。
源四郎の表情は険しい。
いつもの鍛錬の日とは明らかに違う空気だった。
「静まれ。」
一言で辺りが静まり返る。
「今朝早く、清洲より早馬が参った。」
宗助の胸が高鳴る。
嫌な予感がした。
「今川家の動きが活発になっておる。」
ざわめきが広がる。
宗助だけは驚かなかった。
(始まる……。)
歴史が動き始めた。
桶狭間へ向けた歯車が、ゆっくりと回り出したのだ。
「じゃが慌てるな。」
源四郎は兵たちを見渡す。
「今すぐ戦になるわけではない。」
「じゃが備えは必要じゃ。」
そう言うと、後ろへ控えていた古参の足軽へ目を向けた。
「武具蔵を開けよ。」
「はっ。」
ほどなくして運び込まれたのは、槍だけではなかった。
草摺。
陣笠。
革で作られた具足。
決して立派なものではない。
何度も修繕された跡が残っている。
「一人ずつ受け取れ。」
宗助も名前を呼ばれる。
「宗助。」
「はっ。」
差し出された陣笠を両手で受け取る。
思ったより重い。
手の中へ伝わる重みは、責任そのもののようだった。
「今日から、それはお主のものじゃ。」
源四郎が静かに言う。
「失くすな。」
「壊すな。」
「そして必ず、生きて持ち帰れ。」
宗助は深く頭を下げた。
「承知いたしました。」
陣笠を被る。
視界が少し狭くなる。
その瞬間だった。
胸の奥で何かが変わった気がした。
農民でも町人でもない。
織田家の兵。
その自覚が、ようやく芽生え始めていた。
鍛錬はいつも以上に厳しかった。
「構え!」
「進め!」
「止まれ!」
号令が絶え間なく飛ぶ。
宗助の額から汗が流れ落ちる。
腕は悲鳴を上げていた。
それでも槍を握る手だけは緩めなかった。
未来を変えるためには、ここで倒れるわけにはいかない。
鍛錬が終わろうとした頃、一頭の馬が砂煙を上げながら広場へ駆け込んできた。
馬上の武士は息を切らせながら叫ぶ。
「急ぎ知らせる!」
「清洲より伝令!」
広場の空気が一瞬で張り詰めた。
源四郎が前へ出る。
「申せ。」
武士は馬を降りることもなく、大きく息を吸った。
「お館様より命じゃ!」
宗助は思わず拳を握る。
歴史が。
確実に動き始めようとしていた。
武士は荒い息を整えることなく声を張り上げた。
「お館様のご命令により、各村は兵糧と兵の備えを改めよとのこと!」
源四郎は静かに頷く。
「承知した。」
武士はそのまま馬首を返し、次の村へ向かって駆けていった。
砂煙だけが静かに舞い上がる。
宗助はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
(いよいよだ……。)
歴史を知る者だからこそ分かる。
今川義元は二万とも二万五千ともいわれる大軍を率いて西へ進む。
対する織田軍は、その数に大きく及ばない。
誰もが敗北を予想する戦。
しかし、その結末だけは宗助だけが知っていた。
源四郎は足軽たちを見回した。
「今日より鍛錬の合間に兵糧の確認も行う。」
「村へ残る者と戦へ出る者、どちらも備えねばならぬ。」
「はっ!」
兵たちの返事にも、どこか緊張が混じる。
それから数日。
村の様子は目に見えて変わっていった。
鍛冶屋では昼夜を問わず槌の音が響く。
女たちは干し飯を作り、味噌や塩を樽へ詰める。
農民たちは田の世話を急ぎながらも、村の若者を送り出す準備を進めていた。
戦は武士だけのものではない。
村全体が戦へ備えて動いている。
宗助は改めて、その重みを感じていた。
夕暮れ。
鍛錬を終えた宗助は、一人で村外れの丘へ登る。
そこからは尾張の田畑が一望できた。
風に揺れる青い稲。
煙を上げる民家。
子どもたちの笑い声。
(この景色を……。)
(信長公も守ろうとしていたんだ。)
世間では「うつけ」と笑われ、「魔王」と恐れられる男。
だが宗助が知る史実では、楽市楽座を進め、身分にとらわれず人を登用し、新しい世を築こうとした人物だった。
だからこそ救いたい。
本能寺で終わらせてはいけない。
その思いは日に日に強くなっていく。
丘を下りようとした時だった。
「宗助。」
振り返ると、源四郎が立っていた。
「少し話がある。」
いつもの厳しい表情。
だが、その目にはどこか期待の色が浮かんでいる。
宗助は静かに頭を下げた。
「はい。」
源四郎は宗助の顔を真っ直ぐ見つめる。
「お主に任せたい務めがある。」
宗助の胸が高鳴る。
足軽となってから初めて、自分だけへ向けられた命だった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、戦そのものではなく「戦を迎える準備」を中心に描きました。歴史上の大きな合戦も、その裏では多くの人々が支え、備えていたことを少しでも感じていただけたら嬉しいです。
物語も少しずつ転機が近づいてきました。宗助に与えられる新たな務めが、今後どのような成長につながるのか、ぜひ見守っていただければと思います。
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これからも史実への敬意を大切にしながら、一歩ずつ戦国の世界を描いていきます。よろしくお願いいたします。




