第七十四話 与力の務め
「沢井宗兵衛殿か」
元服の翌朝、修理亮の屋敷の門をくぐると、見知らぬ男が待っていた。四十を少し過ぎたくらいだろうか。日に焼けた顔に細い目をしている。着ているものは質素だが、立ち姿に隙がなかった。男は宗兵衛を頭から足先まで一度だけ見た。
「久保田甚内と申す。修理亮様に仕えて二十年になる。今日からしばらく、お主と同じ役目に就く」
「沢井宗兵衛にございます。よろしくお頼み申します」
「頼まれるかどうかは、働きを見てからじゃ」
甚内はそれだけ言って、先に立って歩き出した。宗兵衛はその背中を追いながら思った。烏帽子子になったからといって、修理亮の家中が自分を受け入れたわけではない。足軽上がりが、いきなり修理亮の名の一字を授かったのだ。面白く思わない者がいて当然だった。
実際、廊下ですれ違う修理亮の家臣たちの目は、どれも冷ややかだった。誰も何も言わない。だが、背中に視線が刺さるのは分かる。一人が連れに何か囁き、連れが短く笑った。烏帽子子、という言葉だけが耳に残った。宗兵衛は振り返らなかった。言われて当然のことを言われているだけだ。それを黙らせるのは、言い返すことではなく、これからの働きしかない。
部屋に入ると、修理亮は絵図を広げていた。尾張の北、木曽川沿いの辺りが描かれている。
「来たか。昨夜伝えた件じゃ」
「犬山の方の動き、とうかがいました」
「うむ。甚内、話してやれ」
甚内が絵図の一点を指した。
「この辺りの川沿いの村に、近頃夜分に荷車が出入りしておる。村の者は刈り入れの支度だと言うておる。それと、清洲の荷改めでも、塩と鉄の勘定が合わぬことが続いておる」
宗兵衛は絵図に目を落とした。指の先にある道筋には見覚えがあった。於久地から戻った後、倒木を確かめに行った道だ。その先で轍が二つに分かれ、使われている方が川へ向かって伸びていた。
「この道は……」
「覚えがあるか」
修理亮が言った。
「お主が二つ足りぬ荷を見つけ、切られた倒木を見つけた道の先じゃ。あの時は、分からぬものを分からぬまま持ち帰った。それでよかった。だが、あれからも同じ道で、同じようなことが続いておる。今度は分かるまで調べてこい」
「はっ」
「ただし」
修理亮の声が低くなった。
「犬山の領分には踏み込むな。信清殿は信長様の従兄弟であり、妹婿でもある。何が見えようと、お主らが勝手に手を出してよい相手ではない。見たものは、わしのところへ持ち帰れ。どうするかは上が決める」
宗兵衛は深く頭を下げた。見ることは許される。だが、動くことは許されない。それが、今の自分の立場だった。
「人はいかがいたしましょう」
「甚内と、わしの足軽を二人つける。他にほしい者がおれば申せ」
宗兵衛は一瞬迷った。頭に浮かんだ顔はある。だが、それは自分が勝手に決めてよいことではなかった。
「一人、心当たりがございます。ただ、その者は源四郎様の組の者です」
「ならば源四郎に話を通せ。明朝には発て」
「はっ」
宗兵衛が頭を下げたところで、甚内が口を開いた。
「修理亮様。この役目、わしと足軽だけでも足りましょう」
「足りぬから宗兵衛をつけるのじゃ」
修理亮は甚内を見もせずに答えた。
「あの道を最初に怪しんだのは宗兵衛じゃ。荷の数も、道の幅も、轍の向きも、こやつの書付に残っておる。お主の目は確かじゃが、あの日の道は見ておらん」
甚内は黙って頭を下げた。納得した顔ではなかった。修理亮はそれ以上何も言わず、最後に宗兵衛へ一言だけ付け加えた。
「与力としての扶持は追って沙汰する。それまでは今の宿所におれ」
源四郎の組へ戻ると、平六が荷車の前で人を割り振っていた。宗兵衛の姿に気づいた何人かが手を止めかける。平六が軽く咳払いをすると、皆はまた手を動かし始めた。宗兵衛は少し離れたところからそれを見ていた。もう、ここで自分が声を掛ける理由はない。
「宗兵衛か」
背後から源四郎が声を掛けてきた。宗兵衛は修理亮から受けた役目と川沿いの村のことを話し、最後に頭を下げた。
「佐吉を、この役目の間だけお借りできないでしょうか」
源四郎はすぐには答えなかった。荷車の方へ目をやる。佐吉が荷札を一枚ずつ確かめているのが見えた。
「なぜ佐吉じゃ」
「あの道を最初に一緒に見たのが佐吉です。足りなかった荷の札を確かめたのも佐吉です。それに……」
宗兵衛は言葉を探した。
「甚内殿は、俺のことをまだ信じておりません。信じていない者と組むなら、俺が見落としたものを遠慮なく言ってくれる者がほしいのです」
源四郎は鼻で小さく笑った。
「正直じゃな」
「源四郎様に嘘を言っても、すぐに見抜かれますので」
「よかろう。ただし、借りるのはこの役目の間だけじゃ。その先のことは佐吉が自分で決める。お主が決めることでも、わしが決めることでもない」
「はい」
源四郎が佐吉を呼んだ。話を聞いた佐吉は、一度だけ平六の方を見た。平六が黙って頷く。それを見てから、佐吉は宗兵衛に向き直った。
「行きます」
声に迷いはなかった。ここ数日、何か言いたげにしていた顔が、ようやく晴れたように見えた。
源四郎が組の方へ戻っていくと、入れ替わるように平六が近づいてきた。平六は佐吉の肩を軽く叩いた。
「組のことは気にするな。荷はわしらで回す」
「すみません、平六さん」
「謝ることではない。お前の目を借りたいと言われたのじゃ。胸を張って行け」
それから平六は宗兵衛に向き直り、少しぎこちなく頭を下げた。
「佐吉を頼みます。……宗兵衛様」
言い慣れない名を、一度だけ確かめるように口にした。宗兵衛も頷いて返した。かつて同じ荷車を押していた男に、様を付けて呼ばれる。そのことが、まだ自分の中でうまく収まらなかった。
夕刻、荷駄置き場の前を通ると、弥吉が手招きをした。差し出された包みの中には、干し飯が入っていた。
「北の村へ行くそうじゃな。道中で食え」
「どこで聞いたんですか」
「荷駄の者の耳は長いのじゃ」
弥吉は笑ってから、ふと真顔になった。
「あの辺りの川は、秋口になると上で降った雨で急に水が増える。舟を見るなら気をつけろ。岸で見ておったつもりが、足元を持っていかれた者を何人も知っておる」
「覚えておきます」
「覚えておくだけでなく、佐吉にも言うておけ」
弥吉はそう言って、また荷車の車輪に目を戻した。
その夜、宗兵衛は書付を開き、あの日の記録を読み返した。記録では十六、実際には十四。荷が合流した場所。荷車が二台並べない狭い道。半刻止まった荷車。切られた木。新しい轍。そして、美濃へ続く道。一つずつなら偶然で済む。だが、これだけ重なれば偶然では済まない。
そして宗兵衛は、もう一つのことを知っていた。犬山の織田信清は、いずれ信長に背く。それがいつなのか、どのような形でなのかまでは分からない。だが、その流れはもう始まっているのかもしれなかった。
だからといって、自分が先に答えを口にするわけにはいかない。知っていることと、確かめたことは違う。修理亮が持ち帰れと言ったのは、確かめたことだけだ。
宗兵衛は新しい頁を開き、上に「北の村」とだけ書いた。その下には、まだ何も書かない。これまでの書付は、見たものを後から書き留めるためのものだった。だが今度は違う。修理亮の与力として、修理亮の目の代わりに見に行くのだ。自分が書いたものが、そのまま修理亮の判断の材料になる。書き損じれば、修理亮が判断を誤る。そう思うと、筆を持つ手が少しだけ重くなった。宗兵衛は筆を置き、灯を消した。
翌朝、門の前に集まった顔ぶれを見て、甚内が佐吉に目を留めた。
「その若いのは」
「源四郎様の組の佐吉です。目が利きます」
「目が利くかどうかも、働きを見てからじゃ」
甚内の後ろには、修理亮の足軽が二人控えていた。一人は宗兵衛と同じくらいの年で、もう一人はまだ若い。二人とも、甚内の顔色をうかがうように黙っていた。
甚内はまた先に立って歩き出した。佐吉が小声で言った。
「……厳しそうな方ですね」
「ああ。だが、言っていることは間違っていない」
北へ向かう道の先に、秋の雲が低く垂れていた。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回から、宗兵衛は柴田修理亮の与力として動き始めました。与力とは、有力な家臣の下に付けられて働く武士のことで、主君はあくまで信長ですが、日々の役目は修理亮の指図で動くことになります。そして、第六十四話・第六十五話での「足りない荷」「切られた倒木」「美濃へ続く道」の件が、再び動き出しました。犬山城主の織田信清は信長の従兄弟で、信長の姉妹を妻に迎えていたとされる人物です。身内であるからこそ、簡単には手を出せない。宗兵衛は、見ることは許されても動くことは許されない立場で、この件に向き合っていきます。新たに登場した久保田甚内は作中オリジナルの人物です。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




